1999年9月維持会ニュースより


トルストイの教え−Наставление Толстого−

新響フルート奏者 松下俊行

*緒言
 ロシア音楽をロシア人の指揮者で演奏すると云う、今世紀最初で最後の「機会」が新響にもたらされた指揮者のティーツ氏とのコミュニケーションはロシア語とドイツ語が基本。と云う訳で団内でも俄にロシア語ブーム(?)が湧き起こりつつあるが、やはりなじみの無いものには及び腰になっても無理はない。現代の多くの日本人にとってロシア語は異質の言語なのだ。そこでロシア語の世界とは如何なるものか、を少ない体験ながら多少説明しようと言うのが、本稿の趣意である。だから格調高い(?)普段の維持会ニュースの文章と異なり、多分に「個人的」な次元の低い内容になる事を予めお断りしておきます。  

*余は如何にしてロシア語履修者なりしか
 何の為に「第2外国語」などと云うものを大学は勉強させようとするのかが、皆目解らない。英語さえ満足に理解し得ない処に持ってきて、もうひとつ押し付けられても閉口するばかりではないか、と今思い返してもこのカリキュラムには恨みがついて回る。しかしながら20年以上前、大学の文学部への入学手続きの一環として、この第2外国語の登録届を前に腕組みしていたその時、何気なく点けたテレヴィでソ連で制作された映画『チャイコフキー』を見てしまったこちらにも落度はあった。
 歌劇『エフゲニー・オネーギン』の稽古の場面だった。この時初めてロシア語をまとまって耳にした。流石に歌の部分だけは吹き替えがきかなかったのだ。
 それはやたらと母音の多い、やや東洋的とも言える不思議な響きだった。感心とも関心ともつかぬ気分聴き入っていると、稽古に立会っていたチャイコフスキーはこの歌を途中で止めさせ、「幸福な結婚などは有り得ないのだ」と云う趣旨のことを呟きながら、総譜を破り捨てる。もったいないなあと思ったものだ。総譜も音楽もそしてロシア語も・・・・。
 誰しも一度はこの作曲家の作品を愛聴する時期があろう。10代の終わりに差し掛かっていた当時の僕もそうだった。まあ夢中であったといっても良い。とすればそこからロシア語学習を決意するまでは、もう指呼の距離である。どうせ語学をやるなら多少毛色の変わったものをやってやれと云う生来持っている妙な野心にも駆られた。
 もうひとつ理由はあるかもしれない。だいぶ後になってからの事だが、同じ学部の露文科を中退している漫画家の東海林さだおが、自分が何故露文科などに入ってしまったかを書いている(彼も結局ロシア語に挫折したのである)エッセイを読んで大いに共感した。詳しい内容は忘れてしまったが、願書を出す際、隣の露文科志望者の列を見ると、皆人生を深刻に考えてます、という表情をした集団だった。この感じで「ドストエフスキーのあの小説は・・・」などと語ったらモテるかもしれない。と云う単純な動機でついふらふらと露文科の列に入り込んでしまい、後で散々な目にあったと書かれていた。
 その後の自分の体験から言って、ドストエフスキーで女の子にモテるという事は全くなかった事は断言しても良いが、この気持ちも非常によく解る。ロシア語と云う得体の知れない言語を勉強する事で、謂わば「知的な背伸び」をしたいとするこの年齢特有の欲求である。
 ともあれ第2外国語の登録届に「ロシア語」と書いてしまったのだ。若気の至り以外の何物でもない。後は東海林氏同様の転落の人生が待ち受けていたのだから。

*死の家の記録
 その年「知的な背伸び=ロシア語履修=」に駆られたのは1000人の入学者の中で20人程だった。勿論その中には既にドストエフスキーやチェーホフの全集を読破しており、将来露文科に進む事を早々と決めている早熟な者もいたし、酒の席でも絶えず「何を読んだ」「あれはつまらぬ、これを読め」と云う会話の飛び交う、(多分に青臭いが)知的な風土はあった。ただそうした彼らもロシア語の前では如何に無力かと云う事を思い知らされるに至るのである。
 初めて顔を合わせたその日、我々はクラスの世話役となった露文科の3年生からひとつの忘れられぬ忠告をうけた。
 曰く、ロシア語ははっきり言って難しい。すぐに落ちこぼれるから必ず授業には出ろ。やむなく休んだ場合には必ず何をやったか聞いて、次の時間にそなえろ。予習もしろ。復習もしろ。自分の言っている事を諸君は大げさだと思うだろうが、決してそんな事はない。昨年このクラスは約50人いたのだが、2年生に進級するとき約半数が再履修、すなわち落第したのだ・・・・・。
 最後の言葉は無垢な新入生には超弩級の衝撃だったし、まだ授業も何も受ける前からシベリアに送られる囚人の様な絶望的な気分に我々を駆りたてた。ここで早くも僕は自分の「背伸び」の悲劇的な結果を予想し、後悔し始めたのである。
 ほぼ同時期に、大学の文学部の教養課程2年間は、殆ど語学の学習を懲役と課した牢獄のような処だと気づいた。第2外国語は週に90分授業が4コマ。これを2コマずつ2人の教授が受け持つ。勿論その他に英語が2コマある上に「国語」と云う時間が1コマある。何故「国語」があるかと言うと、文学部の学生のくせに、卒論の日本語が余りにひどいとの批判が相次ぎ、頭を痛めた大学側が窮余の一策として設けたものであるらしい。とにかくこの2年間の「おつとめ」を全てクリアしなければ、専攻課程にさえ進めないし、自分の志望する専攻に進めるかどうかは、その成績によって決まるのだから、これはもう煉獄とさえ感じられたものだ。
 その第1回目の授業。開口一番教師の口から出た言葉は、例の上級生の言葉によって「屠所の羊」化している我々一同に、更に追討ちをかけた。

 「君たちは文学部なんぞ選んで入ってきたからには、相応の覚悟もしていようが、フツーの勉強をした所で就職に有利なものは何も無い。はっきり言って就職できないものも出てくる。唯一語学ぐらい身に付けて将来の生活の糧になるようにしなければいけない・・・・・」

 だからロシア語を懸命に勉強しなければいかん−−−と云う趣旨の言葉がたぶんその後に続いたのであろうが、誰ももうそんな事は耳に入らなかった。ここでも我々は老練・陰険な看守が新入りの囚人をいたぶっていると云う図式を頭に描いただけだった。

*華麗なる迷宮−ロシア語の世界−
 かくしてロシア語の学習は始まったのである。
 ロシア語を学ぶのであるから、当然ロシア文字(キリル文字)を学ばねばならない。Ю,Ж,ЯやИなど特有の文字は「思えば俺も随分遠くまで来てしまったもんだなあ」と云うエキゾチズムを抱かせるに充分である。こうした文字を32個覚えるのに与えられた時間は1コマ。要するに90分だけである。次の授業ではこのアルファベットを一人ずつ順に暗誦させられる。とにかく20人しかいないから逃れようがない訳だ。
 次は書き取り。中学生が英語を学び始めた時と同様、点線でかかれたロシア文字のアルファベットをなぞって行く。なぞり方がいい加減だと当たり前だが注意される。そして何ページ分練習して来いと云う宿題も当然出されて、次の時間は勿論テスト。この年の文学部の入試の倍率だって決して低いものではなかった筈だが、そうした難関(?)をくぐり抜けてきたと云う、余り意味も根拠もないプライドはこれで完全に潰え去ったのである。牢獄に入るに当たり素っ裸にされて、身体中の穴という穴を隈なく検査され、人間としての尊厳を著しく損なう為の儀式に引っ張りまわされているようなものだ。
 ただ文字で注意しなければならないのは、上に挙げたいかにも「ロシア文字」と云うものよりも、ありふれた普通の文字のほうが余程曲者なのだという事だ。例えばロシア文字のНは通常のアルファベットで云うNに相当し、勿論「エヌ」と読む。どうしてこうなるのかは今も知らないのだが、こうした文字は他にもあって、
 Р=R,В=V,С=S,
となる。だからロミオとジュリエットのロミオはロシア語では「Ромео」、ノーに当たるロシア語のニエットは「Нет」となる訳である。これは頭では解っていても、身体はついていかない。「正面」をあらわす語彙はロシア語でも「フロント」だが、「фронт」と云う綴りを見てフロントだと理解するには、頭の中で何段階かの変換を必要とする。これが著しく我々を混乱させた訳である。
 2人の教師の分担は勿論明確に決まっている。一方が徹底して文法を教える事は語学の常道として理解できるとして、もう一方はいきなり暗誦なのである。トルストイの『子供のためのお話』と云う殆ど絵本の体裁のテキストを意味も解らぬ先から、暗誦して行く。漢文の素読のロシア語ヴァージョンと言える。子供のためのお話と言ってもそこは文豪トルストイである。ロシア語を選択しようと思い立って、最初に読んだ本が『アンナ・カレーニナ』だったので、その時の印象から、きっと人生に対する深い洞察に基づく、含蓄のある「お話」なんだろうなあ、と神妙に暗記に堪えていたのだが、後々次第に解ってきた第一話の文意は、

 水ノ上ニがちょうガ降リマシタ。水ニハシヅカニシヅカニ波ガ立ッテユキマス。
 がちょうノ脚ガ見エテイマス・・・・。

 何じゃこりゃ?と云う気分になった。それでもいやこれは何かの寓話に違いない。きっと人生論が隠されている筈だ。如何せんトルストイだかんね。話の行間を読めるくらいにロシア語を勉強しろという事だろう。といじらしい心根をその頃は持っていた訳です。実際は単に字義通り幼児の読む本だったんですが・・・・。こんな内容の暗誦を20歳前後の学生が大勢でやっているのをロシア人が見たら、かなりシュールな光景だったろう。
 文法はこれはこれで大変だった。ロシア語には英語で言うbe動詞にあたるものが原則としてないので、主語と述語を並べるだけで最低限の文章は作れる。これ+ペン、私+学生、ソ連+豊かな国のような形である。何だ簡単ではないか!と誰もが思った。だがこれは敵がこちらを油断させるために放った囮のようなものだった。これから先は話すと『カラマーゾフの兄弟』か『静かなドン』並みの長編小説ができあがってしまう程なので、ロシア語特有の「難しさ」がどこにあるかを簡単にまとめてみる。
 1)6種類の格があり、3つの性と相俟って物凄い数の変化形を覚え、遣い分けなければならない。固有名詞も格変化する。
 2)動詞によって「目的語」となる名詞の格が異なる場合がある。すなわち動詞によっては目的とする名詞の格が「目的格」ではない。
 3)動詞が、完了体・不完了体の2種類に分類される為、ひとつの動作を表す動詞を2種類覚え、遣い分ける。
 4)文法が未整備に近い。ひとつの文法的な規則をい学習する際には、その数倍もの「例外」を覚えなければならない。
 6)数詞が複雑。いくつあるかによって数詞につく名詞が複雑な格変化を起こす。「数字が聞き取れるようになったら一人前」と当時も言われた。
 7)何だか解らないが難しい。

 ざっとこんな処だが、それでも皆何とか噛り付いていって、

 「昨日私たちは遠足にコルホーズへ行った。私たちは畑や畜産場を見た。」
 「彼はソヴィエト科学の最新の諸成果について講演した。」
 「あなたは『戦争と平和』を読みましたか?いいえ、まだです。」

等の例文(時代が感じられます)を読んだり作文したり出来るようになったのだから、これ以降僕も奇跡というものを信じるようになった。

*日露対決す
 大学側にも前年再履修者を大量に出し過ぎたとの反省があったのだろう。奇跡的にクラス全員何とか2年生に進級すると、4コマの授業は4人の教師に分担される事になった。「読解」が2種類2コマ。残りは「作文」と「会話」である。殊に恐怖だったのは「会話」である。如何せん本物のロシア人(イリーナさんというモスクワ大学を出た才色兼備の若い女性だった)が来て授業も全てロシア語だった。無理も無い。彼女はロシア語とドイツ語(今回のティーツ氏と同じ)しか話せなかったのだから。訳が分らん・・・とは思いつつもどう分からないのかをロシア語で相手に伝えるのは至難の業だった。段々出席する人数も減ってきて、20人が揃うと云う事が無くなった。となるとむしろ出席する方が悲劇である。もうどんどん質問されてどんどんシド
ロモドロが加速されていく図式。今思い返しても、授業中どうやって対応していたのかの記憶がスッポリ抜け落ちている。ずっと失神していたのかもしれない。もしかすると、ドストエフスキーの小説に登場する殺人者たち=ラスコリーニコフ(金貸し殺し)やスメルジャコフ(父親殺し)やラゴージン(許婚者殺し)やスタヴローギン(同志殺し)=の様に、重大な犯罪を犯していたかもしれないが、完全な心神耗弱状
態下だから不起訴処分になった筈である。唯一覚えているのは、そんな状況下にも関わらず授業の後のクラスコンパには彼女を必ず誘い出していた事だ。そして覚えている限りのロシア民謡を原詩で歌い尽くし、酔いに任せて実に実に怪しげなロシア語で「いつ北方領土は返してくれるのか?」などとからんでいたのだから、ストレスも発散していたのだろう。これを日本語で表すなら「いい度胸だった」の一言以外あるまい。
 学年末の最終試験ではこのイリーナ女史の前で1人ずつ5分間ほどスピーチをする事になった。僕は、

 自分はオーケストラでフルートを吹いている。ヨーロッパに演奏旅行に行った折り、 ウィーンに立寄りオペラを見た。その後、レストランでウィンナコーヒーを頼んだ。 するとコーヒーの中には細切れになったウィンナソーセージが入っていたのだ。本場 のウィンナコーヒーとはそうしたものなのだ。汝は信じられま
い・・・

と云う今考えても極めてロシア人的な目茶苦茶な内容のスピーチでお茶を濁した。いくつかの質問と文法的な誤りを正されたが、これで単位を戴いたのだから申し訳ないなあ。かくて2年間に亘ったロシア語修行の「刑期」を終えたのである。
 尤もロシア語とは結局4年間縁が切れなかった。その後も週に1コマだけだが「外国語」の授業があったため、今更英語も無かろうとクラスの全員がロシア語を選択し、ドストエフスキーの書簡やツルゲーネフの詩、そしてチェーホフの短編等を講読し続けたのである(洗脳されてたのかもしれないが、そのくせ今全然身についていないのはどうした事だろう?)

*ロシア音楽の「語法」−ティーツ氏への期待−
 膨大な時間と労力を使った割には、今残っているものは少ないが、こと音楽については、ロシア音楽の「語法」を感じ取る事が出来るようになった事は収穫であったと言えよう。これを痛切に感じたのは、ムソルグスキーの作品(特に歌曲)を聴いてからである。音楽の構成としては非常に荒削りな部分もあるが、この作曲家の音楽はロシア語の抑揚そのものである。大胆な和声の使い方には衝撃すら受けたが、残念な事に彼の作品はその大胆さ、そして言葉との緊密さにおいて余りに独創的であったために、死後暫くするとやたらと改作されると云う運命を辿った。リムスキイ=コルサコフもショスタコーヴィッチでさえもがこの改作に手を染めた。愚かな行為とも言えるが、この改作を経なければ今日彼の作品は我々の耳に届かなかったろうと言われている。
 そもそも18世紀までのロシアには口語に当たる文体が無く、古代教会スラヴ語に由来すると云う謂わば不自由な「文語」があったに過ぎない。一方の「口語」には明確な規則も存在しなかった。トルストイの『戦争と平和』を読めばすぐ気づく事だが、宮廷人の会話はフランス語で全て行なわれている。これには上記のような必然がある訳である。上記の通り「文法」も良く言えば緩やかな、悪く言えば殆ど混沌としたに状況であった。我々が例外だらけで散々に苦しめられた文法の背景にはこの様な成立の事情があったのだ。これを知ったのはずいぶん後になってからの事だが(知ってもどうなるものでもないが・・・・)
 19世紀に入り、こうしたロシア語の混沌の中から「活きた」言葉を紡ぎ出し、実際の作品(主に韻文)に反映・結実させたのがプーシキンであった。新しいスタイルの言葉と、他のヨーロッパ(殊にフランス)の新しい社会体制への渇望。ロシアの民衆に伝わる伝承・・・などが彼によって結びつけられて、ひとつの文学の基礎が定まった。彼が「ロシア文学の父」と呼ばれる所以である(僕は日本に於ける「言文一致運動」にロシア文学者たる二葉亭四迷が重要な役割を果たしている点に、非常に関心を持っている)グリンカは彼とほぼ同時代人であり、それまでは蔑視さえされていた音楽(農奴によって編成されたオーケストラがあったほどだ)を再編し、新しいスタイルを確立した。ここに初めて詩と音楽、ロシア語と音楽とが漸く結実を見るのである。これが大体1830年代(プーシキンは1837年に死去)の事である。ロシア音楽の出発点の遅れとその後の急速な隆盛とに注目すべきだろう。
 どの民族の音楽をとっても、固有の言葉との関係は無視できないが、ことロシア音楽に関しては、上記のような成り立ちから考えても言葉との関係をより深く考える必要がある。にもかかわらず、冒頭に述べたように、実際にはその根底にあるロシア語そのものを耳にする機会が無いため、なかなかにその本質を理解しにくい部分があり
そうに思える。
 卑近な例で恐縮だが、最近色あせてきた「ペレストロイカ」と云うまあポピュラーなロシア語。これを「ペレス・トロイカ」と区切っていないだろうか?「トロイカ」と云う単語もあるから無理からぬ事かもしれないが、実際は「ペレ・ストロイカ」である。
 「グリンカの歌劇『ルスランとリュドミラ』は云々・・・・」と我々は普通発音しており、日本語での一般的な表記もこの通りだが、ロシア語の場合アクセント(ロシア語では「ウダレーニエ」=力点と訳す)は音声の強さよりも長さの強さが前面に出る為、力点通りの発音を表記すれば「グリーンカ」であり「ルスラーンとリュドミーラ」である。同様にチャイコフスキーは「チィコーフスキイ」、ムソルグスキーは「ムーソルグスキイ」と云うような発音になる訳だが、中には「ショスタコーヴッチ」や「ツルゲーネフ」の様にロシア語の力点に従って慣用化された(固有)名詞もあり、玉石混淆と云った感がある。こうした言葉に対する思いがけない差異が、我々の演奏にも恐らくは出ている筈で、これは残念ながら日本にいる限りは気づきようも無い。

 ティーツ氏の指導によって我々がロシア音楽の「語法」に目覚める事ができれば、これに勝る収穫はあるまい。意味は解らなくとも言葉に接する事の重要性はいや増しに増す。むしろ意味にとらわれず「音」として聴くほうが重要かも知れぬほどだ。
 その重要性を、僕は例のトルストイの『子供のためのお話』の暗誦を通じて知った訳だ・・・と考えなければ余りに情けないではないか(くくく)。


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