1999年6月維持会ニュースより


芥川先生の思い出

都河 和彦(ヴァイオリン)

 芥川先生には新響で20年間もお世話になった。昔のプログラムを手に取ると様々な思い出が脳裏を駆けめぐる。もう時効と思われるエピソードを中心に書かせていただきたい。

・力強い音楽と指揮での失敗
 私が初めて芥川先生の棒に触れたのは31年前の1968年、力強く、躍動感あふれる指揮に圧倒された。新響は音が大きいと言われるが、先生の激しい棒のもとで全員が全力を振り絞って演奏した伝統が残っているのだろう。我々の技量を見越していたせいか、音程やppの音量など難しい注文は余りされず(この伝統もしっかりと残ってしまったわけだが)、生き生きした大らかな音楽作りを目指されていた。
 超多忙のマルチ人間だった先生は、本番で指揮に集中できずミスしたことが何度かある。第九の3楽章冒頭、ショスタコービッチ五番の冒頭ではテンポが不明確だったためオケが分裂、止まってしまった。同じ音型が百小節くらい続く伊福部先生のマリンバ協奏曲の最終部では1小節早く棒を止めてしまったので私を含む大半は先生に従い、ソリストの安部圭子さんとTpの野崎氏ら数人は譜面通り終了という「生き別れ事件」も、今となってはなつかしい思い出だ。

・桁外れの行動力と企画力
 初めてお目にかかった時芥川先生は42才の若さだったが、すでに音楽界、マスコミで大活躍されており、私には非常にまぶしい存在だった。若い頃まだ国交がなかったソ連へ潜入してショスタコーヴィッチやカバレフスキーと会ったという武勇伝を伺った時は、人間のスケールが違う、と舌を巻いたものだ。その後のマルチ人間ぶりは周知の如し、である。
 企画力もすごかった。新響創立20周年の企画を皆にさんざん考えさせた挙げ句、先生自ら「これしかない」と提示された案が、サントリー音楽賞を受賞し、後のベルリン音楽祭参加や今も盛んな邦人作品演奏の出発点となった「邦人作品展」だった。ほかにも3年の準備期間を経てのストラビンスキー3部作一挙上演、維持会員制度の創設、将来貴重な資料となるプログラム作りなど、すばらしいアイディアを泉のように生み出されていた。

・おしゃれで外車と子ども好き
 若い頃はお金がなくて苦労したということだったが、私が出会った時の先生はすでにお金持ちでおしゃれ、外車大好き人間だった。濃紺のジャケット、糊のきいたシャツ、赤・紺のストイライプのネクタイ、グレーのズボン、そしてピッカピカの黒靴がいつものスタイルで、我等貧乏人は本番前に靴を磨いておけとよく叱られたものだ。外車はシトロエン、キャデラック、ベンツと次々に乗り換えられ、「どの女性団員が最初に乗せてもらうか」が、皆の関心の的だった。
 子ども好きも記憶に新しい。可愛い童謡を沢山作曲され、新響の合宿では私の娘も含め、団員の子ども達とおじいちゃんのように遊んで下さった。音楽教室で出題された音楽クイズ、「お味噌の中に何が入ってる?」や、「空の上に何がある?」(ヒント:ドレミファソラシドを思い浮かべて下さい)には、さすが「シラミの歌」の作者(の一人)、くだらないダジャレとは格が違う、と感服したものだ。

・厳しさと謙虚さ
 古参団員が礼を失したり、新入団員が「先生は独裁的」と批判した時の先生の態度には毅然たるものがあった。「指揮者は絶対権力者であるべき」という信念で全権限を持つ音楽監督の地位を要求されたと記憶している。さる有力古参団員が先生の作品について批判めいたことを口にした時、「新響は彼をとるか僕をとるか、どっちかだ」と激怒され、やむなくその団員にやめてもらったことがあるが、今でも「両雄並び立たず」とはこのことか、というほろ苦い思い出になっている。
 一方、自分の活動、作品に対する評価に対しては非常に謙虚な方だった。創立20周年の邦人作品展がサントリー音楽賞の最終選考まで残った時は自発的に選考委員を降り、受賞が決まると涙を浮かべておられた、という。自作の演奏を新響に強いることは決してせず、創立30周年の演奏会をオール芥川作品とするお許しを得るのに苦労したことは多くの古参団員の脳裏に残っている筈だ。

・新響への遺訓
 先生が亡くなって新響の存続を懸念する声があったが、結果として却って団結力が強まり、運営・企画面、演奏面でも向上を続けてきたのでは、と思う。「音楽はみんなのもの、アマチュアは音楽を愛する心と企画で勝負」の遺訓を忘れることなく、さらなる前進をめざしたい。

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藤井 泉(ピアノ)

 私が新響に入団したのは、1986年ですので、もう芥川先生の晩年の頃になります。新入団員として先生の前で、自己紹介した時の緊張は、今でも忘れられません。
 当時は練習の譜読みの段階から、本番までの全練習を音楽監督である芥川先生が指導されていました。私はその1年くらい前から、エキストラとして新響で弾いていたのですが、幸か不幸かその時の指揮者は芥川先生ではなく、故山田一雄先生ばかりでした。「芥川先生の練習は厳しいよ」と周囲から驚かされ、緊張と不安一杯で迎えた最初の練習、曲目は「芥川作品」でした。先生の練習は本当に厳しく、それは私の想像を遙かに越えるものでした。特にソロ奏者は恐怖の的です。それでも「昔に比べたら随分とまあるくなられたよ」という諸先輩のお言葉、その昔は弦楽器奏者の「一人弾き」(前列から順に弾かされていく)なんて事もあったそうです。私も万全の構えで練習に臨んだものの、案の定「交響三章」(演奏会のアンコール用として三楽章のみ)で捕まり、「エローラ」のチェレスタで捕まり・・・・。先生はまだ入りたての私をよほど頼りないと思われたのか、練習の時にポイントだけを注意され、練習の休憩時間の時にわざわざ一番奥にあったピアノの所までお越し下さり、「ちょっと弾いてご覧なさい」とおっしゃり、個人教授されるのが常となりました。時には、ご自身がピアノを弾かれ、お見本をみせてくださる事もありました。
 でも言い訳ではないのですが、「エローラ」のチェレスタの方は、楽器が不十分であった為の注意であったと思われます。当時の新響はチェレスタは所有しておらず、リース会社から借りてくる楽器もオンボロで、またレンタル料もばかにならないので、普段の練習の時はピアノで代用していたのです。そんな状態でしたので、作曲家としての先生のイマジネーションからはかけ離れた音のチェレスタ(時にはピアノ)に苛立ちを隠せなかったようです。今回の演奏会では、維持会の貴重なご支援により購入したヤマハのチェレスタが使用されます。五月の最初の「エローラ」の練習で、このヤマハチェレスタの澄んだ美しい音が鳴り響いた時、「あの時、この楽器があったら」という思いで一杯でした。
 さて、話は戻り、「交響管絃楽のための音楽」の練習の時です。最初にこのピアノ譜を見た時の驚きといったら。なんと5オクターブのffのグリッサンドが二楽章に10回もでてくるのです。あの速いアレグロの曲で10回のグリッサンドは痛そうだな、軍手でも付けて弾こうかしら、などと思いめぐらせてフト見上げると芥川先生がこちらに向かって歩いて来るではありませんか。また「ちょっと弾いてごらんなさい」と言われたら、と緊張した面持ちの私に「2楽章のアレね、てきとうに弾いていいよ。まともに弾いちゃうと手をこわすからね。まぁ、本番だけちゃんと弾いてよ」とのお言葉。
 その後10数年の時が流れ、つい最近初代新響ピアニストと話す機会があり、「芥川先生は非常に厳しい方でしたが、同時にとてもお優しい心の持ち主」という話になった時、このエピソードを話しましたら、「そんな事、言われた事も聞いた事もない」と真顔で言うのです。ですからこのピアニスト、楽譜どおりに目一杯最強音でバリバリ弾いて、とうとう本番の時は爪先が割れ、ピアノの鍵盤5オクターブにツツーっと血が走ったそうな。勿論このピアニストがガッチリとした体格の男性ピアニストであった事は言うまでもありません。

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桜井哲雄(オーボエ)

 私は木管セクションで、白一点のオーボエです。33年前(昭和41年)、既に団員だった大前研一(Cl、大学で後輩)が入団を勧めてくれて、この年から課せられたオーディションを受けた。井上卓也(Ob)から『オーボエは少ないから』とかなんとか、くどくど言われながらやっとこさ入った。この後すぐに都河和彦(Vn)と野崎一弘(Tp)が、くどくど言われないで入った。最初の練習に出て、びっくりした。そして、すぐに辞めようと思った。芥川也寸志の指揮がわからない。確かに新響も目茶苦茶だったけど指揮が見にくくて合わない。すると芥川也寸志は足で指揮台を踏み鳴らす。手と足にどう合わせりゃいいんだ。注意は僕にもおよんだ。その時矢島克明(Va)が『先生、彼は電気屋の社長なんです。』と紹介した。すると芥川也寸志は『じゃ、社長。そこ大きすぎる。』かなんか言ってもらって以来僕は新響では『社長』と呼ばれております。だから先生は名付け親なんです。
 当時は空気がギクシャクしてました。新響は生意気なのが揃ってましたが、先生はスターでしたから何にも言えず、くすぶっていました。練習はと言えば、先生は感覚的に違うとは言うんだけど、どうすればいいとは言わない。『違う!大きすぎる!小さすぎる!きたない!もう一回!』。いじけちゃう。でも、新響はだんだんと歳を取ってくると、他にない先生の良さ、棒振りのテクニックと知識では補えない何かが有ることが判ってくる。柳沢秀悟(Va)に言わせれば『それは愛』ということに成るんだけど、もういろんなことが気にならなく成った。内々では『アーサン』と呼ぶようになった。その頃、合宿の昼食のとき『幸せというのは平凡の中に有るんだよ』と唐突にポツッと言ったのも強く印象に残っている。最後の10年は大変良い空気が流れていました。先生も徐々に仕事を減らしていくなかで、新響の音楽監督の任は最後まで続けてくれました。
 先生が病床にあったとき、秋山初瀬(Vn)に『お見舞いに行かない?』と誘われたことがあったが、僕は行けなかった。行けばよかった。ずうっと引きずっている悔いです。
 『社長、コールアングレとチェロが合わないよ』『違います。ショスタコのあそこのソロは遅くすべきじゃない。チェロが遅いんだと思います、先生。』これが未解決だ。


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