第159回演奏会(1997年10月)維持会ニュースより


ブラームス「交響曲第4番」随想

新響ヴィオラ奏者 門倉百合子

 ここに1枚のLPレコードがある。曲目はウェーバー「魔弾の射手序曲」、武満徹「弦楽のためのレクイエム」、そしてブラームス「交響曲第4番」。指揮は汐澤安彦、演奏は上智大学管弦楽団。1974年9月20日、ベルリン、音楽大学ホールにて。

 1973年秋にヘルベルト・フォン・カラヤンが来日したのをきっかけに、上智大オーケストラがカラヤン財団主催の青少年音楽祭に招待されることになった。ヴィオラパートのかたわらドイツ文学を専攻していた私は、大学生活最後の年をほとんどこの演奏旅行のために費やす結果になった。とはいっても海外の演奏旅行などメンバーの誰も経験したことはない。スケジュール調整、旅行会社との折衝、参加団員の旅行準備、費用の工面、楽器運搬の手配……。現在ほど海外旅行は普及しておらず、なにもかも手探りでの準備が始まった。
 曲目の選定は、課題曲の「魔弾の射手序曲」のほか、日本人の作品を1曲、そしてメインを1曲、という枠組みの中から行なわれた。練習は春から始まり、6月に東京で1度演奏会、夏の合宿、と半年間続けられ、3曲ともすっかり身体に染みついてきた。そしていよいよ9月、夏休みあけの前期試験の真っ最中という時期に、私たちは羽田を出発した。西ドイツの首都ボンで1度演奏会を持ち、その後陸路バスで東ドイツを横切って西ベルリンへ到着。音楽祭にはヨーロッパ各国の青少年オーケストラが参加していて、毎日彼等の演奏がある。チェコやポーランド、ソ連といった国々の団体にはそれぞれお国ぶりがあって興味深かった。優勝したのはソ連のオーケストラで、ショスタコーヴィチの交響曲を素晴しい腕前で演奏していた。私たちの演奏も好意的に迎えられたが、客席からは「ブラームスを演奏するにはまだ若すぎる」、という声が聞かれた。

 何年か後に早稲田大学のオーケストラがこの音楽祭に参加し、ストラヴィンスキー「春の祭典」を演奏して見事優勝したというニュースを聞いた。彼等は技術的に優れていることもあるだろうけれど、20歳前後の若者にとって、ブラームスよりもストラヴィンスキーやショスタコーヴィチの作品の方が演奏しやすいということがあるのだろうか、と考えるようになった。もちろんソ連のオーケストラが自国の作品を演奏するのはお手のものだろうが、私たち日本人にとってはいったいどうなのだろうか。

 あれから23年、前回の演奏会で「春の祭典」を演奏し、今回ブラームス「交響曲第4番」を演奏することになった。実は手元のLPレコード、青春を凝縮した玉手箱のようで23年間聴いていなかったのだが、戸棚の奥から引っぱり出してわが家のプレーヤーにかけてみた。恐る恐る耳を傾けると、スピーカーから流れてきたのは、確かに「若い」演奏だった。第2楽章の叙情的なメロディなどは、みずみずしい感性にはっとさせられるような箇所があるものの、総じて重厚で粘りのあるブラームスの世界からは程遠い。第1楽章のソナタ形式も、第4楽章のパッサカリアも、めりはりのない音の洪水にすっかり埋もれてしまっている。第4番といえばブラームスのなかでも特に渋く、精神の内面をゆさぶるような曲なのに、この演奏は目の前の楽譜に青春のエネルギーを直接ぶつけただけのようなものではないか。
 もちろん当時はそんなことは少しも気付いていなかった。演奏者も指揮者も皆若く、ただただひたむきに音楽に取り組んでいた。しかし「ひたむきさ」だけではとても人に聴かせる演奏にはならない。第4交響曲が作曲されたのは1885年、19世紀ヨーロッパの円熟した文化をたっぷり含んだブラームス52歳の作品を、まさに彼地で演奏しようというには、あまりにも私たちは未熟すぎたのではなかろうか。しかも1974年当時の西ベルリンは、陸の孤島の閉鎖空間に芸術文化が爛熟し退廃の匂いさえ感じられ、ひたむきな若さが通じるような雰囲気ではなかった。もっとも1993年に新響の演奏旅行で訪れた時は、壁が取り払われた開放感と将来への不安感が交錯し、20年前とは全く違った空気だったが。

 さて今年はブラームス没後100年、今回の新響「第4番」は、ぜひとも成熟した演奏をしたいものである。メンバーの入れ替わりはあっても、オーケストラとしての音楽の質は40年の歴史とともに徐々に熟してきていると思いたい。まだまだ若いと言われるかもしれないが、そこでどのようなブラームスの響きが醸成されるか、期待に胸がふくらむこのごろである。


第159回演奏会に戻る

ホームに戻る