第158回演奏会(1997年7月)維持会ニュースより


ショスタコーヴィチのお話

新響ティンパニ奏者 桑形和宏

 維持会の皆さん、こんにちは、先日は、新しいティンパニーとシロフォンの購入に「維持会費」を使わせていただきありがとうございました。両楽器とも、今回の演奏会で大活躍します。楽しみにしていてください。
 さて、今回の「維持会ニュース」では、大好きな作曲家の一人であるショスタコーヴィチについて書かさせてくださるということで、これはチャンスとばかり、勝手なことを書きまくらさせてもらいました。

古典となったショスタコーヴィチの作品

 ショスタコーヴィチが亡くなったのは1975年8月19日である。有名な人が亡くなると、新聞の社会面の左下方に写真入りの小さい記事が出るが読売新聞の社会面に、ショスタコーヴィチの写真入り死亡記事が出でいたのをよく覚えている。
 それから20数年、ショスタコーヴィチは、音楽の教科書にも必ず載るほどの、押しも押されぬ古典的大作曲家となった。伝記の類も多数出版され、果ては暴露本まで出る始末である。なぜだろうか?特に新しい技法や形式を開発したり、センセーショナルな作品を発表したわけでもない。
 これは私の勝手な推測であるが、バッハ以来脈々とつながる古典的正統的な技法を受け継いだうえで、だれにも真似のできないショスタコーヴィチ独自の孤高の世界を創り上げたからではないかと考えている。特に中期以降、ショスタコーヴィチの作品は、誰の影響も受けていないし、また、後に続く誰にも影響を与えることはないのではないかと考えられる。その点、音楽の内容はもちろん異なるが、ブルックナーと立場が似ているような気がする。

ショスタコーヴィチの生涯

 ショスタコーヴィチは、1906年にレニングラードで生まれ、1975年にモスクワで没した。プロコフィエフのように亡命することもなく、一生を「鉄のカーテン」の向こう側で暮らした、筋金入りのソ連人だったのである。その間、革命、2度にわたる公的機関からの作品に対する批判、第2次世界大戦、スターリンの粛清など、ソ連ならではの幾多の困難を乗り越えて作品を書き続けた。レニングラード音楽院の卒業作品として19才のときに書かれた「交響曲第1番」作品10が大成功を収めてから、その作品は常に世界の耳目を集めてきた。教育活動や平和活動にも、積極的に携わった。
 「第1回ショパンコンクール」に出場したこと、フットボールの審判員の資格を持っていたこと、大戦中はレニングラード包囲戦のさなか「消防分隊」として勤務したこと(実際にどこかの建物の屋上で帽子をかぶって働いている写真が残っている)など、意外に知られていない一面も多い。

ショスタコーヴィチの作品

 15曲の交響曲をはじめとして、協奏曲6曲、オペラ4曲(2曲は未完)、交響詩、オラトリオ、カンタータ、多数の映画音楽、15曲の弦楽四重奏を含む多くの室内楽等、多数の作品を残している。作品1は「オーケストラのためのスケルツォ嬰へ短調」、死の4日前まで校正に携わった最後の作品は「ヴィオラソナタ作品147」である。特に、「交響曲第13番」以降の作品は、その独自牲が際立っており、聴くたびに新たな感動を覚える。
 私事であるが、私は高校生のころからスコア(総譜)を見ながらレコードを聴くのが大好きであった。今でこそ日本版が出版され入手も容易なショスタコヴィッチのスコアであるが、当時は交響曲の5番と10番を除いては、高価な輸入楽譜に頼るしかなかった。それも、あるかないかわからない状態であった。でも、どうしてもほしかった。
 たまたま高校が上野にあったので、時々学校の帰りに日比谷線を使って銀座の楽譜屋に出撃し、スコアの有無を確かめていた。そして見つけると、親に金をせびって買いに行っていた。そういったことがしばしばあったので、よく親の怒りに触れた。が、すべてロシア語で書いてあり何がなんだかわからない「交響曲第2番」のスコア、やたら印刷の悪い「交響曲第4番」のスコアなど、今では思い出深い財産のひとつである。

これだけはぜひ聴いてみてください

 全くの私見で選んでみた「ショスタコーヴィチ必聴曲集」。
 初期の曲では、「鼻」作品15と「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29の2曲のオペラを聴いてみていただきたい。前者は1管編成のやや前衛的な作品、後者は本格的なグランドオペラである。「〜マクベス夫人」の曲尾「囚人の合唱」は、1回聴いたら忘れられない。小品「タヒチ・トロット」作品16も聴いてみたい。
 中期の曲では、交響曲の「第6番」作品54、「第8番」作品65、「第10番」作品93が素晴らしい。CDもたくさん発売されている。
 後期の曲はどれも捨てがたいが、交響曲の「第13番《バービ・ヤール》」作品113、「第15番」作品141がショスタコーヴィチの独自性を堪能できる。もうひとつ、絶対に忘れてはならないのが、「交響詩《ステパン・ラージンの処刑》」作品119である。何回聴いても飽きないとはまさにこのことだが、録音がほとんどなく、CDをなかなか入手できないのが残念である。どなたかお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報ください。

新響とショスタコーヴィチ

 さて、私が新響に入団してからはやくも13年が過ぎ去ったが、その間にも何回かショスタコーヴィチの作品を取り上げる機会があった。思い出を含めて振り返ってみたい。
 初めは、第何回だったか忘れてしまったが、芥川先生の指揮で「第5番」。演奏会の当日、高熱を出してしまい、朦朧として椅子から落ちかかったのを、隣の田中さんに押さえてもらったのを覚えている。次は、1986年7月の第111回での「第4番」。ショスタコーヴィチの交響曲中、唯一日本で演奏されていなかった曲である。曲の難しさと芥川先生の気合が印象に残っている。次は1990年4月の第127回での「第1番」。指揮は高関先生であった。その後、1994年1月の第142回、昨年4月の第152回で、それぞれ「第10番」と「第9番」を小泉先生の指揮で演奏した。特に「第10番」の印象は強烈で、CDと生演妻ではこうも違うものかと、当たり前のことを改めて感じた。私の入団以前には、芥川先生の指揮で、「第7番」と「第11番」を演奏した記録がある。うらやましい限りである。
 ただ、ひとつ残念なことがある。芥川先生がご存命のころ、あれだけ盛り上がっていた「ショスタコーヴィチ交響曲連続演奏会」の企画が、立ち消えになってしまったことだ。新たに考え直すことができないでもないと思うが、これだけいろいろな交響曲をしばしば演奏していては、「1から全部」というのは少し難しいような気がする。

今回は「交響曲第5番」です

 第158回に井崎先生の指揮で取り上げる「交響曲第5番」は、言うまでもなく、ショスタコーヴィチの代表作である。この曲に関しては、いろいろなエピソードがあるが、ここではそういった先入観を抜きにして、ひとつの「絶対音楽」として聴いていただきたいと考えている。


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