第156回演奏会(1997年1月)維持会ニュースより


秋山邦晴さんのこと

新響ヴィオラ奏者 奥平 一

 1996年8月17日早朝に秋山邦晴さんがなくなられました。
 新響を理解し、惜しみなく支援して下さる方々のひとりでありました。

 秋山さんと新響の創立指揮者であった故芥川也寸志氏とのかかわりは古く、多くの活動を共にした二人の行動は戦後の音楽史の重要な一側面を語るものとなっていますが、ここでは秋山さんと新響のかかわりの中で印象深い思い出について書いてみます。

 新響が秋山さんと最初にお付き合いしたのは、1979年4月に行われた「日本の交響作品展3 早坂文雄」の企画を芥川さんの発案でお願いした時でした。芥川さんの映画音楽の師でもあった早坂文雄は、秋山さんにとって武満徹やE.サティとならび、特別な作曲家でした。早坂の晩年の作品なしには、武満の作品や黛敏郎の傑作「涅槃交響曲」は有り得なかったとするのが秋山さんの論でしたし、学生時代から映像と音楽の関係についても追求してきた秋山さんは、初期の黒澤明映画の音楽を手がけた早坂の交響作品展を重要な企画と受け取った様子でした。結果として、前年(78年)早坂に縁のあった九州大分の寺を尋ねた際、秋山さんが発見した「管弦楽のためのメタモルフォーゼ」と、映画音楽「羅生門」(原作は芥川さんの父、芥川龍之介)の抜粋を冒頭とメインに配したプログラミングとなりました。当時、映画音楽を正面から取り上げて価値を問うような演奏会はほとんどありませんでした。早坂・秋山・芥川の三人を、流行していたサイケデリックな色彩の蓮の花が囲んでいる、少々はしゃいだポスターのことを振り返ってみても、秋山さんと芥川さんの思い入れが強烈に伝わって来ます。プログラムノートも「大分の寺」で楽譜と同時に見つけられた作曲者のノートをもとに、秋山さんが内容を吟味して、貴重な文献として残す価値のあるものを作りました。
 その後、交響作品展の5回目に当たる菅原明朗作品展の時にも企画を手伝って下さいました。
 秋山さんは、日本の西洋音楽受容期の作曲家に興味を持つ数少ない方々のひとりでしたが、音楽的な嗜好は現在の新響とほぼ正反対にあり、たとえば伊福部音楽にはまったく興味がありませんでした。しかし、新響の活動の意味と音楽についてはおそらく団員の誰よりも深く理解し、こと有るごとに新聞、雑誌に応援と励ましの気持ちを込めた評論を書いて下さいました。
 89年に芥川さんが亡くなってからの秋山さんは、新響の先行きを心配して指揮とオーガナイザとしての力量を評価する石井眞木さんを紹介して下さいました。また、石井・武満・秋山の三人で新響の活動を支援する体制をまとめたいというすばらしい案を提示して下さったのです。この時の、新響と石井さんの組み合わせという提案がなければ、その後の93年秋のベルリン芸術週間への出演は有り得ませんでした。
 また、芥川さんの交響作品「エローラ交響曲」にちなんで命名された埼玉県松伏町のエローラホールで、毎年開催される芥川さんの作品を回顧する演奏会をプロデュースしていた秋山さんは、度々新響を出演させ、94年には芥川さんの映画音楽と映像を合わせた演奏会で成功を収めました。
 95年夏、映画音楽を集めた定期演奏会を秋山さんのプロデュースで開きました。
 この演奏会では、サン=サーンス、H.アイスラー、サティ、深井史郎、武満、芥川の作品が選ばれました。団員からは賛否両論の演奏会でしたが、深井史郎の才能を認識することができ、40周年「日本の交響作品展`96」でもっとも衝撃であった深井作品「ジャワの唄声」を取り上げるきっかけとなりました。この映画音楽による演奏会は、今思えば晩年の秋山さんがプロデュースするに誠にふさわしい内容となっていることに気付きます。
 サン=サーンスは秋山さんが学生時代から映像と共に演奏されることを夢みていた曲。アイスラー、深井は各々の特異な才能に注目していた作曲家。サティの音楽に組み合わされた映像の中では、若き日の秋山さんや武満が、「実験工房」時代に精神的な師と慕っていた滝口修造の傾倒していたマルゼン・デュシャン、マン・レイ、ピアピカなどが、文字通りシュールに飛び回っていました。これらに加えて、最も親しかった友人武満の曲と、ニューディレクション(秋山さんが企画し芥川さんが棒を振った現代音楽の演奏団体)に代表される、戦後の「現代音楽」活動や「反核の会」などの活動を共にした芥川さんの曲。
 この演奏会が、秋山さんと新響の最後の活動になりました。
 病に伏せる前の秋山さんは、今年夏の153回演奏会で演奏された早坂文雄のピアノ協奏曲の演奏を大変楽しみにされていました。
 来年4月の157回演奏会で取り上げる武満徹の作品「鳥は星型の庭に降りる」は、後頭部を星型に刈り上げたデュシャンをマン・レイが撮影し、この写真を見た作曲者が触発されて見た夢をヒントに作曲されたと言われています。
 今、秋山さんと作曲者に新響の演奏を聴いて頂き、感想やら音楽について語り合うことも夢となってしまいました。
 新響の歴史の中で芥川さんと山田一雄さん以外にこれほどお世話になった方もいません。新響は多くの人たちに応援されて活動をしています。秋山さんはかけがえのない方でしたし、秋山さんに代わる方は見つからないでしょう。
 しかし、私たちは、また違った優れた個性と出会って、すばらしい経験を積み重ねれるように演奏活動を続けていきたいと願っています。
 直接お話することはできなくなってしまいましたが、秋山さんにお礼を申し上げるとともに、心からご冥福をお祈りいたします。


156回演奏会に戻る

ホームに戻る