第153・154回演奏会(1996年7月)維持会ニュースより


50年前の西洋音楽観

新響ヴィオラ奏者 浜島多加志

 「かなり、きてますねー。これって『超現代音楽」?旋律ってあるの?」
 私の友人達に、新響邦人作品展のチラシを見せたときの反応である。

 どうも邦人の管弦楽作品と言うと武満徹などを連想し、旋律の無い、不協和音が飛び交う前衛音楽をイメージしてしまうようである。武満作品のような曲を想像して今回の演奏会に足を運ばれる方々には、かなり期待はずれになるだろう。なぜなら、ほとんどの曲がいわゆるフツーの曲だからだ。ここで言うフツーとは、「聴き慣れた」と言い換えても良いかもしれない。TV番組のBGMや映画音楽、運動会や祭りで流れる音楽など、特にわざわざ聴こうとしなくても自然に耳に入り、いつの間にか慣れ親しんでいる音の雰囲気、これが今回の演奏会にあるように思う。もちろんプロの作曲家が作曲した作品であるから、ところどころに現代風の試みは見られるし、西洋風の旋律や和声も多用されているが、その根底には、やはり日本人の心に響く何かが横たわっているように思う。
 今回の演奏会の作品には、日本または東洋の民謡調の旋律や祭りの音楽を基調としている曲が多い。例えば、尾高尚忠の「みだれ」、平尾貴四男の「俚謡による変奏曲」、深井史朗の「ジャワの唄声」などは、全曲が東洋風の色彩で貫かれている。そして、このことがこれらの作品を身近に感じさせる大きな要因であることは間違いないのだが、それではその他の作品で扱われている西洋的な部分についてはどうであろうか。例えば、橋本國彦の「交響曲ニ調」第一楽章の中には、一瞬ブルックナーの交響曲を思わせる重厚な響きが現れる一方、第三楽章ではバロック風の旋律が使われている。また、諸井三郎の「交響曲第三番」第二楽章では、旧ソ連を彷彿とさせる音楽が展開する。これらの作品に接して感ずることは、今から約50年前に作曲されたこれらの曲には、膨大な西洋音楽の中から取捨選択を行い、日本人の好みに適う音楽が巧に取り入れられているように思えることである。つまり、先程例にあげたブルックナーや旧ソ連の音楽のように「重厚」「勇壮」「シリアス」と言った言葉で形容される音楽が好んで取り入れられている一方、フランス印象派の「洒落た」「繊細な」音楽や、イタリアの底抜けに明るい旋律などの影響は見られない。
 このことは、現在のドイツ・ロシア音楽偏重と相通じるものがあるように思われる。もちろん、ドイツ音楽は作品の多さと完成度の点で他を圧倒していることは否めないが、それを割り引いても日本人の嗜好がその根底にあるように思われることである。この傾向は、変な話だがわれわれ新響のプログラムにもあらわれていることは、前回の維持会ニュースに掲載された新響の演奏曲目の統計をご覧頂ければ一目瞭然である。
 興味深いことは、今から百年前には日本人による管弦楽作品などというものは存在しないし、一般の人にとっても西洋音楽を身近に接する機会などほとんどなかったにもかかわらず、その後の約50年間の西洋音楽との接触によって、ほぼ現代と同じ感覚の、耳に馴染んだ音楽が作曲されていることである。今回演奏される7人の作曲家の作品を通じて、戦前から戦後直後当時の西洋音楽に対する感性について考えてみることも興味深いことではないだろうか。


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