第151回演奏会(1996年1月)維持会ニュースより


「ワルキューレ」へのお誘い

新響チェロ奏者 吉川具美

♪ワーグナーとこれまでの新響

 マーラーや伊福部作品を、新響が得意とし、よく取り上げることは、維持会員の皆様には既にご承知の通りです。では、新響とワーグナー、となるとどのような印象をお持ちでしょうか。ご参考までに、これまで40年間の新響の定期演奏会のプログラムを見てみましょう。[別表]にてご覧いただける通り、新響がワーグナーを取り上げたことは余り多くはありませんでした。それが、ここ2~3年で頻繁に登場するようになったのは、もちろん、四半世紀にわたってバイロイト音楽祭助手を務める飯守泰次郎先生をお招きできるようになった幸運によるところ大です。

♪飯守先生との出会い

 飯守先生と新響のこれまでの演奏会は、2回ともブルックナーの交響曲を中心に据えたものでした。これらの演奏会をどうお聴きになったかは、維持会員の皆様それぞれに異なることと存じます。しかし、これらの演奏会に向けた練習の中で、ブルックナーの「前プロ」として置かれたワーグナーの各曲に対して示された飯守先生の熱意は、なみなみならぬものでした。「マイスタ」第一幕への前奏曲の練習のとき、モティーフからモティーフへの移り変わりに際して、テンポ通りに機械的に進んでいく私達に対して、飯守先生は「去っていこうとする人の背中にすがって、『そこを何とか!』と頼み込むような感じで。」というような絶妙な表現をなさいました。その直後に再び演奏したその部分に、新響として初めての本当のワーグナーらしい響き(の片鱗)を聴いたように思ったのは、私だけでしょうか。残念ながら、その「片鱗」を、演奏会の本番で維持会員の皆様にお聴かせできたかどうかははなはだ心もとないのですが‥‥。

♪それにしてもなぜ新響が定期演奏会でワーグナーのオペラを?

 そしてついに、ワーグナーとがっぷり四つに取り組むことになりました。それも、いきなり「ワルキューレ」の第一幕全曲です。新入幕の初日でいきなり横綱戦、とでもいったところです。団員の中には、熱烈なワグネリアン(ワーグナー愛好家)もいるようですが、一方では「ワルキューレ」といえばあの「ワルキューレの騎行」が思い浮かぶけれど、でも渡された譜面にはあの有名なテーマは全然でてこないなあ‥‥といたって健全な(?!)ワーグナー認識からスタートして、苦労している団員もまた多いのが事実です。
 ワーグナーは、作曲家の普通の守備範囲をはるかに越えて、台本を自分で書き、指揮はもちろん演出まで自分で行いました。スコア(総譜)には、楽譜や登場人物が歌う歌詞だけでなく、いわゆるト書まで書き込んであり、歌手たちの歌唱だけでなく演技にも細かい指示がされています。このような作品を、舞台装置も衣装もない「演奏会」で取り上げることは、聴衆の皆様にとって、また新響自身にとって、はたしてどんな意味があるのでしょうか。

♪ワーグナーの「特殊性」?

 「マーラーが好きです」と言っても、誰も変な顔をしない時代になったのに比べ、「ワーグナーが大好きです」とはちょっと言いにくい、そんな雰囲気がクラッシック愛好家のなかにも根強いように感じます。ワーグナーはどうも‥‥と敬遠されがちで、かなり好き嫌いが分かれる作曲家なのはなぜでしょう。
 どの作品も、「ニーベルングの指輪」に代表されるような、あまりなじみのないゲルマン神話などを題材にした長時間の楽劇ばかりで、とっつきにくいせいでしょうか(確かに筋は込み入っています)。鼻持ちならない人格の持ち主だったという説からでしょうか――モーツァルトがスカトロジストだったという理由で彼の音楽を聴かない人はいないのに。あるいは、人類の歴史においてワーグナーの楽劇が果たしてしまったマイナスの役割のせいもあるかも知れません。――でも、もし、ただの「食わず嫌い」のせいだとしたら、それはあまりにもったいない話。
 ワーグナーのひとつの特徴は、オーケストラが演奏するいろいろなモティーフが、物語の展開や登場人物の心の動きを示す極めて重要な「語り」を受け持っていることです。その意味で、ワーグナーのオペラ(正確には楽劇とよばれています)では、独唱者以上に、オーケストラこそ本当の主役であると言えるでしょう。
 もともと、文学、絵画、演劇などいろいろな芸術のなかでも、とくに音楽が素晴らしいと思うのは、人間の感情や思考を、言葉にできない部分さえも表現できることにあるように思います。そしてワーグナーの音楽の魅力もまた、まさにこの人間のさまざまな心のありようを、あますところなく表現している点にあるのではないでしょうか。たとえば、「マイスタージンガー」の第三幕への前奏曲を聴くと、きっと誰でも、迷いの末に行き着いた深い諦年の美しさを見いだすことでしょう。また、恋をしたことのある人なら、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲を聴くと、恋愛の始まりの息苦しいほどの陶酔を思い出さずにはいられないでしょう。
 「ワルキューレ」第一幕第一場でも、生き別れてそれぞれ苦難の道を歩んでいた双子の兄妹が偶然出会い、初めて共感できる相手を見いだした喜びに、恋に落ちていく様子が、このうえなく美しいチェロの独奏によって描かれます。この場面に限らず、ワーグナーのすべての楽劇のなかで、「ワルキューレ」第一幕の音楽が一番素晴らしいと言うワグネリアンは少なくありません。
 物語について知れば知るほど、聴くと深く感動する。でも、物語を何も知らなくても、音楽を聴けば筋もある程度想像がつき、深く感動できる。それがワーグナーの音楽の持つ普遍的な魅力であり、どちらの楽しみ方もそれぞれとても価値があるはずです。そして、どちらの聴き方にも耐えうる演奏をすることは、とてもむずかしいことですが、音楽の真髄、ひいては人間性の本質に迫る作業であるとさえ言えると思います。

♪新響創立40周年とワーグナー

 さて、新響が創立40周年を迎えるにあたり、このところ見えてきたひとつの遠大なる理想像があります。それは、ベートーヴェンに代表される古典の演奏によって聴衆の方々を真に感動させることのできるオーケストラ、という姿です。古典の演奏には技術面はもちろん、それ以外にもさまざまな側面から深いほりさげが要求されます。では、そのためにどういう道を取るか。マーラーへの取り組みを続けることも、愛着のある日本人の作品を演奏し続けることも、そのひとつでしょう。
 しかし、ワーグナーの音楽を通じて、人間の本質に迫る演奏を目指すことも、アプローチとして極めて有効だと思うのです。

♪新響が実は忘れかけているもの

 飯守先生を指揮台にお迎えするとき、私達は、洋の東西を超えた深く雄大な先生の音楽のスケールに圧倒されます。先生の練習は、オーケストラに自発的な創造性を要求するという厳しい練習ですが、同時に温かいユーモアと機知に溢れ、その緊張感はむしろ心地よい集中というべきものです。先生の音楽の根底には、深く幅広い教養、謙虚でありながら高い品性、人間のさまざまな側面についての深い愛着と理解、さらにこの末期的な世の中にあってなお人間性の未来を確信する強くあたたかい精神が息づいているのが感じられます。そこには、死語になりつつある「薫陶」という言葉を思い出させるほど高潔な人格があります。日々の暮らしに汲々とするけちな自分が恥ずかしくなり、もっと価値のある生を追及しなければ、という思春期のようなエネルギーが湧いてくる(それがなかなか持続しないのは私達の問題ですが‥‥)気さえする、飯守先生はそんな練習をしてくださる類まれな指揮者なのです。
 以前、ブルックナーを練習している時のことです。1stヴァイオリンが旋律を弾くある部分を、おそらく先生はもっと表情豊かにしたかったのでしょう、何度か繰り返させられたことがありました。その挙句、先生は満足できないご様子で「どうも皆さんの技術と教養がかえって邪魔をしているようですね。」とおっしゃいました。一見冗談めかしたお世辞のような先生の言葉に、団員たちは笑いましたが、この一言は実は今の新響への痛烈な批判なのだと、私は感じ、笑うことができませんでした。
 ある維持会員の方に「最近の新響は、洗練された演奏をするようになった一方でこれが新響かと思うような冷たい事務的な響きがして耳を疑うことがあるが、錯覚だろうか。」と言われたことがあります。実は私達は、アマチュア=情熱という旗印に安住して、かえって音楽への愛情や謙虚さを失ってはいないか。飯守先生の崇高なほどに真摯な音楽への態度に接する時、創立40周年を迎えた新響は、いまふたたび原点に立ち返り、取り上げる曲をもっと謙虚に勉強し、いつも心をこめて演奏するべきではないのか。それが、新響を楽しみに聴きに来てくださるお客様に対する何よりの礼儀ではないか、ということを、飯守先生の練習のあった晩にはいつも考えずにはいられません。
 維持会員の皆様のご支援により購入が実現したワーグナーテューバを、新響の未来のための投資として生かすためにも、今回の「ワルキューレ」をきっかけに、せめて音楽への愛情という点だけでも飯守先生にふさわしい新響に成長することができれば、と思います。

♪出発点としての「ワルキューレ」

 新響が初めてマーラーの交響曲に取り組んだ昔、「なぜこんな曲を苦労してやらなければならないの?」と感じていた団員は少なからずいたと思いますが、そのとき逆に「十年頑張れば『新響といえばマーラー』と胸を張れるようになるさ」と信じていた団員はいったい何人いたでしょう。これはまったく私個人の勝手な思い込みです、と前置きしたうえで、今回の「ワルキューレ」の演奏会は、何年か後に『世界に通用するほどにワーグナーを得意とする稀有な東洋のオーケストラたる新響』になったあかつきに「あの時はよく分からなくて大変だったけど、思えばあれが第一歩だったんだね。」と感慨をもって振り返ることができるような、そういうコンサートにしたい、と思っています。意気込みだけでは良い演奏ができないのは事実ですが‥‥。

 維持会員の皆様のお越しを、心よりお待ちしております。       

[別表]

1965年第27/28定期 指揮:芥川也寸志 ローエングリン第3幕への前奏曲

1973年第62回定期 指揮:芥川也寸志 トリスタンとイゾルデ「前奏曲と愛の死」

1984年第104回定期 指揮:山田一雄 神々の黄昏抜粋

1991年第131回定期 指揮:F.トラビス トリスタンとイゾルデ「前奏曲と愛の死」

1993年第139回定期 指揮:飯守泰次郎 ローエングリン第1幕への前奏曲、タンホイザー序曲

1995年第149回定期 指揮:飯守泰次郎 ニュルンベルグのマイスタージンガー前奏曲

1996年第151回定期 指揮:飯守泰次郎 (今回)
           タンホイザー序曲とヴァーヌスベルグの音楽(パリ版)
           ワルキューレ第1幕全曲

(なお、文中一部敬称を略させていただきました。)


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