第177回演奏会のご案内


時の流れと「芥川氏の精神」の継承

 現在新響に在籍する団員の約6割が1991年以降に入団しています。この年は名誉指揮者の山田一雄氏が急逝された年です。それ以前の1989年1月には音楽監督であった芥川也寸志氏が逝去。これは、新響がアイデンティティーとして保ち続けている「芥川也寸志―邦人作品展」「山田一雄―マーラーシリーズ」でさえ、その指導者の謦咳に触れ、薫陶を受けた団員の数が今や半数に満たない状況になっているという事を意味します。新響は、時の流れの中で避ける事の出来ないこうした変転を前提としながら、過去の歴史をベースにしつつも、「組織としての」新しい可能性の発見と発展を模索してゆかなければならない状況にあります。
 その場合に忘れてならないのは、「芥川氏の精神」の継承です。これこそが新響を新響たらしめているとの認識は共有されています。しかしながら、では「芥川氏の精神とは何か?」となると、具体的な形ではないもの=「精神」を実際の行動・活動として継承させる事の困難さに直面せざるを得ません。様々な意見がそこにはあります。敢えてその中で最も根本にあって、言わば空気の様に新響に根づいているものを挙げるとすれば、それは「アマチュア=愛情」という芥川氏の言葉かも知れません。「音楽に対する愛情」−この言葉は事実、団の内部は勿論、外の世界へもこのオーケストラに対する求心力として働いています。今回の指揮者である小泉和裕氏との幸運な交流もこの精神の介在なくしては考えられません。これを過去からもたらされた遺産としてではなく、未来に対し受継いでゆくものとして更に発展させる。これが現在の新響の課題です。

「これまで」と「今後」=今回のプログラムの意義=
 さて、今回のプログラムにはそうした新響の過去への再確認と未来への模索が顕れていると言っても良いでしょう。
 マーラーの交響曲第1番は、山田一雄=新響の「マーラーシリーズ」の最終回で演奏された曲です。新響はその後も第5,6,7番(小泉)・第2番(小林研一郎)・第5番(飯守泰次郎)と節目節目でマーラーを取上げて来ていますが、今ここで山田氏の心技を直接に受継ぐ小泉氏の指揮により、第1番を演奏する事には、かつてのマーラーシリーズで培ってきた山田一雄氏と新響の音楽的な遺産を再確認し、それをベースに更に高度な演奏の完成を目指す事への期待が込められております。
 バッハ−菅原明朗「パッサカリア」の誕生は、1981年に新響が「邦人作品シリーズ」でこの作曲家を取上げた事に由来します。この演奏会に対する作曲家の感謝の気持ちから、この作品は生まれ、新響に捧げられました。同年11月の第94回定期演奏会で芥川氏の指揮により初演されています。まさに「邦人作品展」が産んだ作品です。邦人作品展によって新響が得たかけがえのない体験の重要なひとつが、単なる作品だけではなく、その創造者たる人との直接の、体温が伝わる交流でした。菅原氏は既に何人もが編曲に挑んだこの作品に対し、原曲が作曲された当時のスタイルと規模の忠実な再現を目指し、より小規模ながらそれだけに明瞭なオーケストレーションに仕上げていますが、それも新響という特定のオーケストラを想定した記念碑的な創作の所産であると言えます。
 40年余に亘る新響の歴史の中で、シェーンベルクの作品はこれまで取上げられておりませんでした。今回初めてバッハ−シェーンベルク「前奏曲とフーガ」に取組みます。12音技法により20世紀の音楽に新境地を拓いた彼にとって、西洋の音楽の「引力」とも言うべき調性の色を消す為には、「反行や逆行」といった対位法的な作曲技法が不可欠であり、この技法の手本を多声音楽の作曲家−殊にその大成者であるバッハに求めていました。それ故、この作品は20世紀音楽の先駆者によるバッハに対する敬意の顕れとも言えます。同時に新響にとっても、「古くそして新しい」この作品を今この時期に演奏する事は、今後の方向を考える上で重要な一歩となります。
 新響はこの様に、音楽に対する変わらぬ愛情を根幹に据え、過去の蓄積を確認しつつも、それを土台として今後も未来を模索し、発展させる努力を続けて参ります。今後とも御支援をお願い致します。(T.M.)

第177回演奏会(2002年4月20日)ちらしより


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