第173回演奏会のご案内


●山田一雄と新交響楽団

 新響は1956年の創設から音楽監督芥川也寸志(1925〜1989)の指揮のもと、アマチュアオーケストラとしての可能性を最大限に追求してまいりました。そして1979年、縁あって日本の指揮者界の重鎮である山田一雄を迎えます。山田の長年の体験に裏打ちされた真摯な音楽作り、そしてアマチュアだからという容赦の一切ない棒さばきは、新響団員に大きな衝撃を与えました。
 以来山田が1991年に亡くなるまでの間、マーラーの交響曲全曲演奏を始め、ベートーヴェンからラヴェルにいたるまで山田の棒のもとに広げてきたレパートリーは、新響のかけがえのない財産となっています。今回は没後10年の節目にあたり、山田と新響の最初の出会いで演奏したマーラーの交響曲第5番を取り上げます。

●山田のもうひとつの顔:作曲家「山田和男」

 1912年に生まれた山田和男(1968年に一雄と改名)は、最初は指揮ではなく作曲を志しました。幼少のころオルガンの音色に魅せられ、長じて東京音楽学校(現東京芸術大学)へ入学するまでのいきさつは、自著『一音百態』(音楽之友社1992)に詳しく述べられています。
 少年のころからピアノ曲や声楽曲を数多く作っており、入学してからは当時来日して教鞭をとっていた、マーラーの弟子クラウス・プリングスハイムから作曲と音楽理論を3年間みっちり学ぶことになります。『先生から直接習う、マーラーの曲に見られるような豊かな音たちが自由奔放に飛び交う音楽は、わたしの気質とピタリ一致するものがあった』(同書より)。
 その後は管弦楽曲も次々作曲するようになり、それらは数々の賞を受賞し演奏されるようになりました。山田は後に、『<作曲家の眼>と<指揮者の眼>とをもって楽譜を見ると、それは人生そのものを見るように、作曲家個人の秘密に満ちたその内部、時には恥部までをも、くみ取ることができる』と書いています。
 そして1941年ごろ自らの意向で指揮者に転向してからも創作意欲は衰えることなく、1944年に作曲したのが今回演奏する「おほむたから」です。『題の「おほむたから」は、古事記に出てくる言葉で、わたしはこの曲の中に、古き時代から続いてきた日本の壮大な歴史と伝説、そして美しい国土を愛する気持ちを注ぎ込んだ』

●マーラー:山田の遺産と飯守の新世紀への息吹き

 『昭和7年(1932)2月、東京音楽学校の奏楽堂で日本初演されたマーラーの「第5交響曲」を聴いたわたしは、その音楽のもつ豊饒かつ宇宙的なサウンドに圧倒され、ふるえがくるほどに深い感銘を受けた』
 この若き日の感銘から指揮者となった山田は1949年4月に第2番「復活」を演奏し、同年12月には第8番「千人の交響曲」を日本初演しています。1980年代以降のマーラー・ブームを先取りするかのように、この作曲家の華麗にして巨大な作品に対峙した山田は、マーラーの音楽を次のように語っています。
 『豊かな音色たちの交錯と人間表明の深い呼吸−。そこにはまた、近代人の知性と矛盾、苦悩と弱さをもさらけ出されている。ここに現代の人々は、マーラーが生きた19世紀末のヨーロッパにおける「精神的絶望感」と、今また世紀末の「核による悪魔の終末的光景」をクロスオーバーさせて、何かを感じとるのだろうか』……。
 新響はこの第5番を、急逝した山田を追悼する意をこめて1992年に、山田の教え子である小泉和裕の指揮で演奏しました。そして今回は、1993年より共演を重ね、一昨年には芥川也寸志没後10年記念演奏会を指揮した飯守泰次郎を迎えます。ドイツ・オーストリア後期ロマン派の演奏伝統に精通し、しかも常に驚くべき新鮮さをもって作品に献身する飯守は、山田がもたらし新響の骨肉となりつつあるマーラーとの取り組みに、必ずや大きな飛躍をもたらすものと期待されます。(L.K.)

第173回演奏会(2001年4月28日)ちらしより


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