第166回演奏会のご案内


芥川也寸志の初期作品の魅力

芥川也寸志といえば、一般には「文豪龍之介の子」であり、NHKで土曜の夜に長く続いた番組「音楽の広場」の軽妙洒脱な名解説者にして司会者、そして指揮者の印象が強いかもしれませんが、言うまでもなく、芥川也寸志は作曲家でした。その芥川が亡くなってl0年になります。今回の「没後10年記念演奏会」で新響が演奏する曲目は、「エローラ交響曲」を除いてすべて20代に作曲された初期の作品です。芥川は東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)在学中からの師・伊福部昭の薫陶を受け、作曲において自己に忠実であろうとした結果、次々に発表された作品は、たとえば江戸の祭り太鼓(芥川は三代続いた江戸っ子)や戦争の記憶であり、また音楽的に憧れであったプロコフィエフやショスタコーヴィチなどのロシア(ソ連)的音楽を強く反映したものとなりました。これらの作品群は、時代と自らの個性を表に出した、芥川也寸志以外に誰も書けない見事なものとなっています。
音楽を専門とする一部の人々は、これらの作品の中からプロコフィエフや伊福部の影響だけを聞き取り、単なる「時代的な作品」として紹介、評論することもありましたが、その魅力的な旋律や対位法、明るいリズム、転調の楽しさ、愉快さ、また意外な一面である深刻で暗い音楽など、芥川のもつ多面的な表現力は、芥川が一人の作曲家の作品で一晩のプログラムを構成することのできる類いまれな作曲家であることを示しています。
しかし芥川作品が(芥川作品でさえ!)まとめて演奏される機会は真に少なく、新響が作曲者の指揮で同じプログラムを演奏した12年前、10年前の追悼演奏会(指揮:故山田一雄)の他は、東京都交響楽団が作曲家の個展シリーズで一晩の演奏会を行ったのみです。

知られざる青春の芥川

芥川也寸志の名は没後も埋もれることなく、生前の活動分野に応じてその業績が語られています。しかしマスコミでの活躍に対する知名度の一方で、若い作曲家としての芥川像はあまり知られていないようです。文学受難の時代である戦中には軍部の方針もあり、芥川家には龍之介の印税がまったく入らなくなり、敗戦直後は疎開先の鵠沼の家の壁を剥がして暖を取り、その日の食にも事欠く貧困生活を送っていました。そのため、一時的な軍楽隊生活から学校に復帰した芥川は、学校のリノリュームの床に寝泊まりし、汚い服装を「バッツィバンド」と洒落て、踊り子付きのバンドを組織してヴァイオリンを弾き、家計を助ける生活をしていました。そんな生活のかたわらでも情熟を燃やしながら焼け野原の東京で「交響三章」を作曲し、その後「交響管絃楽のための音楽」を生み出していったのです。
「交響管絃楽」はNHKの懸賞付きコンクールに入賞、なんとその賞金で家を購入したそうです。放送局の仕事で生活も潤うようになりましたが、理想に燃える青年作曲家はそこに安住せず、無謀にも当時国交のなかった憧れのソヴィエトにもぐり込む冒険をおかしたのです。自らの「交響三章」から「交響曲」までの作品を持ち、パスポートも紹介状も十分な現金もないままで、ウィーンから地下に潜入、自分の作品だけを頼りにして、中国を含む放浪の末にショスタコーヴィチやカヴァレフスキー等との交流を果たし、常識的には帰国の保証されない状況の中で、ソヴィエトで滞在中に出版された芥川作品の代金を手土産に帰国を果たすのです。

芥川也寸志が遺していった、音楽に対する限りない憧れと情熟のメッセージを、芥川がその建立に努力したサントリーホールでぜひお聴きください。(文中敬称略)

新交響楽団プロフィル

1956年創立。音楽監督・故芥川也寸志の指導のもとに旧ソ連演奏旅行、ストラヴィンスキー・バレエ三部作一挙上演、10年におよんだ日本の交響作品展(1976年にサントリー音楽賞を受賞)などの意欲的な活動を行ってきた。最近ではマーラーの交響曲全曲シリーズ(故山田一雄指揮)、ショスタコーヴィチ交響曲第4番日本初演、日本の交響作品展91、92(石井眞木指揮)などの演奏会、また93年9月にはベルリン芸術週間に参加して3邦人作品をフィルハーモニーで演奏するなど、積極的な活動を行っている。96年には創立40周年記念シリーズでワーグナー「ワルキューレ」の演奏会形式公演(飯守泰次郎指揮)、「日本の交響作品展'96」では1930〜40年代の知られざる作品を発掘するなど、各方面から注目を集めている。

第166回演奏会(1999年7月11日)ちらしより


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