第159回演奏会のご案内


<飯守=新響は今まさに蜜月>

 10月の新響は、4月のブルックナー7番でも忘れえぬ感銘を残し、今まさに蜜月ともいえる関係の飯守泰次郎を迎えます。すでに4回の共演を重ね、もはや飯守は新響にとってかけがえのない存在です。バイロイトをはじめとするヨーロッパの歌劇場で鍛え抜かれた飯守の音楽は、西洋の言語、歴史、文化、そして精神の全般にわたる深い理解に根ざしており、オーケストラとしてもおのずからさまざまな意味でより高いレベルが求められることになります。とてもきびしい挑戦ですが、氏を迎えることで新響は大きく成長したいと考えます。
 何より得難いことは、氏は新響がアマチュアだからといって妥協しないということです。新響の創立者である芥川也寸志は「アマチュアの制約の最たるものは技術であるが、それ以外はプロを凌駕し得るものをたくさん持ち合わせている」と語りました。アマチュアに対しても技術的な要求を容赦しない飯守に応えることは、たしかにむずかしいことです。しかし、いまの新響が抱えるより大きな問題はむしろ、プロを凌篤するほどの音楽への愛情を本当に持っているのか、ということのように思われます。
 残念ながら新響は、音を出すことだけで満足して、その曲本来の音楽のあり方とは遠く離れてしまうことがあります。練習中、飯守が新響に特に不満をあらわにするのは、このようなときです。音楽の神の使徒のごとく常に真摯な飯守を指揮台に招くということは、とりもなおさず団員ひとりひとりの音楽に対する姿勢を問い直すことになります。
 飯守の創る音楽に接すると、「音楽とは本来、演奏や鑑賞の「対象」ではなく、私たち人間の内面から生まれたものではなかったか」ということに改めて気づかされます。新響に限らず昨今の音楽状況では、「音楽」と本来それを生み出したはずの人間との間にいつのまにか大きな距離ができてはいないでしょうか。飯守の存在は、そのへだたりを埋めて私たちの心に音楽を取り戻すための天の意思のようにも感じられます。氏との共演を通じ新響は、日常の暮らしと結びついた音楽の営みという私たちの原点を常に見つめていきたいと考えます。

<飯守ワールドの広がりに期待>

 さて、これまでの4回の共演では、武満作品を1曲、そして他はすべてワーグナーとブルックナーの作品のみを取り上げ、「飯守ワールド」に存分に浸ってきました。今回はその成果をふまえ、今後の飯守=新響の新しい可能性を拓く期待のプログラムとなります。
 ドイツ・オーストリア音楽、特に後期ロマン派の神髄をきわめる飯守。ぜひブラームスを、という思いは互いに以前からあり、念願かなってついに4番に初挑戦となりました。ブラームスの交響曲は新響にとって3年ぶり、人間性への深い共感に溢れる氏の音楽がどのような世界を創出するでしょうか。そして、一昨年の「タンホイザー〜ヴェーヌスベルクの音楽」等でも如実に示された、人間の本質としての官能を表現する飯守の魅力を存分に堪能するものとして、新たにロシア音楽から選んだスクリヤーピン「法悦の詩」。さらに、色彩感をもたらす組合せとして飯守自身から提案された、氏とは初挑戦のフランス昔楽であるドビユッシーの「春」。10月にふさわしい豊かな午後にご期待ください。(T.Y)

第159回演奏会(1997年10月10日)ちらしより


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