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ウォルトン:交響曲第1番

周藤 和嘉(オーボエ)

交響曲第1番に至るまで
 1902年、ウィリアム・ウォルトンは音楽教師の父と歌手の母の息子としてイングランド北西部のオールダムで生まれた。少年期にピアノとヴァイオリンを学んだが習得には至らず、歌の素質があったことから、父親の指導する教会の合唱団に参加、その後、オックスフォードのクライストチャーチ大聖堂聖歌隊学校に10歳で入学、ここで音楽の才能を発揮。入学後に作曲も始め、無伴奏の合唱曲、独唱曲、オルガン曲など残している。
 この才能あふれる少年は学生監の目に留まり、彼の取り計らいにより16歳でオックスフォード大学クライストチャーチ校へ進学。大学ではストラヴィンスキー、ドビュッシー、シベリウス、ルーセルなどの作品研究にのめりこんだようだが(正式な音楽教育ではない)、音楽以外の科目を落とし、学位を得ないまま中退することになってしまう。
 1920年の大学中退後、オックスフォードの仲間だったサシャベレル・シットウェルとその兄オズバート・シットウェルは、ウォルトンをシットウェル家に招き入れるだけでなく、作曲に専念できるように経済的にも支援を行った。シットウェル家で出会った様々な人物との交流の影響もあり、1922年の「ファサード」(シットウェルの妹、イーディスの詩による朗唱と器楽による演奏。とても面白い!)、「弦楽四重奏曲」(ザルツブルクの音楽祭でアルバン・ベルクに賞賛される。本人はのちに破棄しているが。)に繋がっていく。
 そしていよいよ1929年、有名な「ヴィオラ協奏曲」を発表。聴衆に熱狂的に受け入れられ大成功、その2年後に発表されたカンタータ「ベルシャザールの饗宴」が、ヴィオラ協奏曲に勝るとも劣らずまたまた大成功。次は交響曲!ウォルトンは交響曲作曲の動機を得ることになった。

インマ・フォン・ドルンベルク男爵夫人
 「交響曲第1番」はインマ・フォン・ドルンベルク男爵夫人に捧げられている。
 1929年、ウォルトンはドイツの若い未亡人であるドルンベルク夫人と出会い、恋に落ち、1931年の初めまでスイスのアスコナで生活を共にしていた。
 ちょうど「ヴィオラ協奏曲」や「ベルシャザールの饗宴」の成功の時期と重なっていて、ドルンベルク夫人との充実した日々が創作意欲に大きく影響したということか。
 「交響曲第1番」の作曲を開始した1932年3月、この時ウォルトンはイギリスのシットウェル家に滞在していたのだが、スイスのドルンベルク夫人の病気によって作曲を中断。5月にスイスに戻りそこで作曲を継続するものの、ハミルトン・ハーティ卿(このころ深く関わりのあった指揮者)と合意していた初演の時期を延期することになってしまう。
 第1楽章と第2楽章は1933年の早い段階で完成させたが、第3楽章以降が遅れており、再び初演は延期。第3楽章の作業はその年の夏の間にも続けられ、1933年9月には第4楽章の冒頭やコーダのスケッチをするところまでは進んだものの、主要部分をどうするかで行き詰まり、第4楽章の作曲は中断。1934年3月に予定されていた初演は再び延期となる。

異例の「部分的」初演→全曲初演
 ハーティ卿が首席指揮者を務めるロンドン交響楽団は、1934年の秋に「12月3日に先に出来上がった3つの楽章だけ初演する」と発表。ハーティ卿、先に出来上がっているものだけでも世に出して励ましとしたかったか、度重なる延期に業を煮やしたか。
 第4楽章の中断は半年以上にも及んだが、これにはドルンベルク夫人との関係が悪化したことが影響しているという人もいれば、もともとウォルトンは作曲に時間をかけるという人もいる。確かに多作ではないし、「ベルシャザールの饗宴」では、あるフレーズに7か月もかけている。真実やいかに。
 結局のところ、ウォルトンの日記でも読まない限り本当のところは分からないのだが、ドルンベルク夫人との関係は1934年に終わっていること、その年12月の部分的初演の前には別の女性、アリス・ウィンボーンとの新たな出会いがあったことから、第4楽章の作曲が中断している時期に、私生活がいろいろと「込み入っていた」ことだけは確かなようだ。
 さて、ハーティ卿指揮による部分的初演が成功に終わったのちに、ウォルトンは第4楽章の作曲を再開。最終的に1935年8月30日に「交響曲第1番」は完成した。待望の全曲初演は再びハーティ卿指揮のもと、BBC交響楽団によって行われ、大衆と批評家の両方から大変な熱意をもって受け入れられた。

個人的にウダウダと
 第2楽章にあまり目にすることがない「con malizia(悪意をもって)」という指示。「ははぁーん、これは何かあったな」と込み入ったドラマを期待して調べものに勤しんだ。
 どうやらその期待は外れていなかったようなのだが、そうだったとしても、ウォルトン個人の経験を単純に交響曲に当てはめていったということではない。1930年代当時の不安定で不穏な世の中の影響だって無視はできないだろう。あくまでインスピレーションを得たであろう体験の1つとして、頭の片隅にチョコンと置いて聴いていただければと思う。
 いずれにせよ、第3楽章の深い憂うつ(con malinconia)を経て、第4楽章の輝かしい冒頭→エネルギッシュなフーガ→壮大な終結に向かう様子は、長いトンネルを経て目に飛び込んでくる景色がハッピーであることを連想させる。
 今回、コロナ禍により大規模編成の曲からウォルトンの「交響曲第1番」に変更となった。演奏会自体が中止になったり、曲目変更を余儀なくされたり、何かと制限がある日々が続いたが、大所帯の新響を活かした超がつくような大規模編成の曲にも、今後だれに遠慮することもなくチャレンジできる……長いトンネルの向こうにそんな世の中が待っているんじゃないかと、第4楽章の練習録音を聴きながら期待する筆者であった。

第1楽章 Allegro assai(きわめて速く)
第2楽章 Presto con malizia(急速に 悪意をもって)
第3楽章 Andante con malinconia(歩くような速さで 憂うつに)
第4楽章 Maestoso(荘厳に)

初演:
(第1楽章~第3楽章)1934年12月3日
指揮:ハミルトン・ハーティ卿 ロンドン交響楽団(クイーンズホール,ロンドン)
(全曲)1935年11月6日 BBCシンフォニーコンサート
指揮:ハミルトン・ハーティ卿 BBC交響楽団(クイーンズホール,ロンドン)

楽器編成:フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ(第4楽章のみ奏者2名)、シンバル、小太鼓、タムタム、弦五部

参考文献:
David Lloyd-Jones, William Walton Symphony No.1 Study Score, Oxford, 2002
金澤正剛『ヨーロッパ音楽の歴史』音楽の友社 2020年
マイケル・トレンド(木邨和彦訳)『イギリス音楽の復興 音の詩人たち、エルガーからブリテンへ』旺史社 2003年
柴田南雄/遠山一行 総監修『ニューグローヴ世界音楽大事典 第3巻』 p.43-46, Hugh Ottaway:奥田恵二訳 ウォルトン,ウィリアム(・ターナー) 講談社 1994年
TheFamousPeople.com(William Walton Biography)
https://www.thefamouspeople.com/profiles/william-walton-472.php (参照:2022年11月3日)
The Guardian(Symphony guide: William Walton's First)
https://www.theguardian.com/music/tomserviceblog/2014/apr/01/symphony-guide-william-walton-first (参照:2022年11月3日)

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