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チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

日比野 龍人(トロンボーン)

 この曲の創作は1892年~93年にかけての冬のヨーロッパ旅行中に始まったとされる。もともと1889年(交響曲第5番初演の翌年)には新しい交響曲への意欲を見せていたチャイコフスキーは、コンスタンティン・ロマーノフ公(詩人としても名を残したチャイコフスキーの支援者であった)への手紙でも、「私は自身の全創作の完結といえる壮大な交響曲を書きたくてたまらない。(中略)これを果たすまではなんとしても死にたくありません。」と熱烈な創作意欲を燃やしていた。しかしながら、その後書かれた交響曲「人生」は、作曲者自身が気に入らずオーケストレーションの途中で放棄してしまう。けれどもこの曲のスケッチにおいて、「幻滅。第4楽章は消え去るように終わる。やはり簡潔に。」とあり、既に終楽章を緩徐楽章で終えるアイデアは念頭にあったようだ。
 そして、前述のヨーロッパ旅行中に別の交響曲のアイデアが浮かんだ。手紙の裏やホテルの領収書にスケッチがなぐり書きされていたというから、そのアイデアのひらめきが突然だったのであろう。1893年2月3日にモスクワ近郊のクリンの自宅に帰ったチャイコフスキーは翌日からわずか1ヶ月と3週間ほどの間に全草稿を書き上げる。甥のダヴィドフに2月初旬に宛てた手紙に「フランスから帰って4日もたたないうちに第1楽章は出来上がってしまったし、残りも頭の中では出来上がっている。(中略)私は自分がまだまだ働けることを知ってとても嬉しい。このうれしさはきっと君には想像もできないほどだ。」とあり、意欲にあふれている。
 多忙を極める中、彼がオーケストレーションを終え完成の日付を入れたのは1893年8月19日であった。
 彼はアイデアが浮かぶのを待って仕事をするのではなく、自分をプロの職人と考え、たゆまず仕事をした。
 その試行錯誤のほどが自筆譜からも窺える。

チャイコフスキーの死と、標題「悲愴」
 1893年10月16日に行われた、成功とは言えなかった初演のわずか9日後、チャイコフスキーは急死する。異色の緩徐楽章での、死に絶えるように終わる「悲愴」というタイトルのこの作品が彼の絶筆となったことから、この曲を遺言のように考えたり、死因に関しても同性愛の発覚を恐れた自殺ではないかと人々を騒がせてきたのだが、はっきりとしたことは分かっていない。コレラ説もあるが、不自然な点が多くあり定かではない。それでもチャイコフスキーが自らの死期が近いことを感じながら、最後の交響曲として書き上げたことは確かであろう。
 悲愴という標題についてだが、当初チャイコフスキーはただ「標題的」とだけ名付けるつもりであったし、作品としても内的標題があったが、標題音楽とは異なる手法が用いられていた。初演の後には、リムスキー=コルサコフが何らかの標題があるのか尋ねたが、「もちろんあるが明らかにしたくない」と答えたという。
 ところが、前述したように初演は反響が良くなく、チャイコフスキーは大変困惑した。翌朝弟のモデストに副題に関して意見を求め、弟ははじめ「悲劇的」と提案したがチャイコフスキーは受け入れず、しばらくしてふと浮かんだ「悲愴」は作者に気に入られ、この名が冠されたといわれる。
 この曲の各楽章は「嘆息の動機」(繋留音を含めた2度下降音程を特徴とする音型)と呼ばれる、バロック時代の修辞法による動機から導かれる。標題「悲愴」の性格にふさわしいものであろう。

作品構成
全体の構成

 この曲の特色はやはりまず楽章構成だろう。第2楽章に前例のない5/4拍子のワルツ、第3楽章にタランテラとマーチの様式のスケルツォが置かれ、フィナーレには一般的なAllegroに代わりAdagio(Andanteだとする説もあるが)が位置している。一見反規則的な形式であるが、古いソナタ形式の本質的な性格は守られており、チャイコフスキーの創意工夫と緻密さの2面が窺える。
 また、各楽章は近親調(第1、4楽章h-moll、第2楽章は平行のD-dur、第3楽章はその下属調G-dur)で書かれたが、フィナーレのコーダにおいて初めてh-mollの主和音が現れる。作品を通した調構成に、コーダにおいて最終的に主調を確立するという一貫的な発展をさせる意志が感じられる。

第1楽章  Adagio-Allegro non troppo  ロ短調、4/4拍子、ソナタ形式
 序奏ではコントラバスの5度音程の上にファゴットの独奏が現れる(譜例1)。この基本動機は3回繰り返されるたび、属和音の嘆息で終わりながら上がっていく。
 これを支えるコントラバスの半音階的な下降には、苦難の歩みを表すバロック時代の修辞音型「Passus duriusculus(辛苦の歩み)」が用いられる。嘆息の動機とともにすでに標題の性格が提示される。第1主題はテンポが上がったAllegro non troppoから、まずヴィオラで嘆息の基本動機が現れ発展していく。そして金管楽器群の挿入により始まる主題の行進曲的な変奏は、短3度ずつの転調を繰り返しながらニ長調へ落ち着き、ロマンティックな第2主題へと導かれる。
 展開部は突如激烈に始まり、ロシア正教のパニヒダから「主よ、眠りし汝の僕しもべの霊に安らぎを与えよ」の引用である金管のコラールを経て、嘆息の動機が再び現れ激しいクライマックスを形成した後、静か
に祈るように終わる。

第2楽章  Allegro con grazia  ニ長調、5/4拍子、三部形式
 交響曲の歴史上前例のない5拍子のワルツだが、スラブ民族の音楽では珍しいことではなく、チャイコフスキーは同年に書いたピアノ曲(作品72)にも用いている。
 ワルツ主題が2・3拍に分割されるのに対し、伴奏がしばしば3・2拍に分割されることで、旋律と伴奏の間にリズム的対位法が生み出されている。また、中間部は嘆息に基づいていることがわかる(譜例2)。

第3楽章  Allegro molto vivace  ト長調、4/4(12/8)拍子
 この楽章はタランテラの様式のスケルツォと行進曲からなる。初めはタランテラの旋律に対し行進曲のリズムが伴奏の役割を果たしているが、この伴奏は次第にスケルツォの対旋律として成長し、徐々に行進曲として移行してゆく。そして後半再現されるト長調の行進曲はスケルツォの影響を受けずほとんど自立した姿になる。
 しかし、軽やかだったオーケストレーションには、この行進曲の発展により、重苦しく激しく、追い立てられるような切迫感が生み出される。この楽章でのみ用いられるシンバルと大太鼓もその変化を効果的に演出する。また、行進曲を導く金管楽器のファンファーレは、ベートーヴェンの運命の動機を想起させる。最後には、タランテラも再び現れる派手に高潮した行進曲となり、低音域に押し潰されるように荒々しく終わる。

第4楽章  Adagio lamentoso  ロ短調、3/4拍子、三部形式
 交響曲としては異例の遅い終楽章で、作曲者自身がレクイエムの気分に満ちていると指摘した、この曲の性格をはっきり打ち出す楽章である。そして さらなる特色は、第1主題の旋律を第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンに分散させている点である。 (譜例3)
 チャイコフスキーの時代、2つのヴァイオリンセクションは向かい合って座っていたこともあり、旋律は引き裂かれるように第1、第2ヴァイオリン間を揺れ動く。余談だが、実はこの試みは、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第4楽章にも見られる。どちらが先に考えたのかと思うが、両作品とも1893年の作曲でその結論は分からない。クライマックスでは、繰り返されてきた第1主題は次第に嘆息の動機へ収束してゆき、金管のコラールがこの動機を反芻しながらコーダへと導く。そしてここまで回避されてきたロ短調の主和音が確立され、消えるように曲が終わる。

初演:
1893年10月16日、作曲者自身の指揮でサンクト=ペテルブルクにて。

楽器編成:
フルート3(第3奏者ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シンバル、大太鼓、タムタム、弦五部

参考文献:
マイケル・ポラード(五味悦子訳)『伝記 世界の作曲家7 チャイコフスキー』偕成社 1998年
寺西春雄『チャイコフスキー』音楽之友社 1984年
ゲ・ア・プリベーギナ(不破湘太訳)『楽聖・チャイコフスキー』新英社 1989年
池辺晋一郎『チャイコフスキーの音符たち 池辺晋一郎の「新チャイコフスキー考」』音楽之友社 2014年
千葉潤(解説)『チャイコフスキー 交響曲第6番《悲愴》ロ短調 作品74』音楽之友社 2004年
園部四郎(解説)『チャイコフスキー交響曲第6番〔悲愴〕』全音楽譜出版社
溝部国光(解説)『チャイコフスキー交響曲第6番《悲愴》』日本楽譜出版社

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