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フランク:交響曲ニ短調

藤原 桃(ファゴット)


 本作品は、フランスの交響曲を代表する名作とされるが、正直あまり取っつきやすい曲ではない。四角四面で重苦しく、妙にねばっこい。批評家の小林秀雄は初めてこの曲を聴いたとき、気持ち悪くなって1楽章と2楽章の間で吐いたという。それでもこの、ほとんど体臭のようなフランクの音楽の匂いには、他のどの作曲家にもない独特の魅力がある。それは彼の人間性と生き方から醸造されたものだ。フランクは孜々たる瞑想の人だった。楽壇だの楽派だのまったく関係なく、ただ神に対する自分の言葉として、一生かけて音楽を練り上げていったのである。

■フランクの生涯
 セザール・オーギュスト・フランクは、1822年に当時オランダ領だったベルギーの古都リエージュで産まれた。母親はドイツ人で、祖先もゲルマン系。「フランス音楽の父」と言われるフランクだが、正式にフランスに帰化し「フランス人」となったのはようやく50歳になってからのことだ。父親は銀行員だったが、幼いフランクと弟にピアノとヴァイオリンを仕込み、すでにフランクが12歳のときには「神童」として各地で演奏させ金儲けをしていた。さらにフランクが14歳になると、より高度な教育を受けさせようと一家をあげてパリへ移り、フランクはパリ音楽院に入学する。ここで5年ほどピアノやオルガン、作曲を学び、在学中にはフーガ、ピアノ、オルガンで賞をとるなど(オルガンは興が乗ったフランク少年が即興パートを長大に弾きすぎて二位にされたとか)才能を見せるものの、「ピアノの軽業師」への復帰を急ぐ父に半ば引きずられ途中で自主退学、その演奏活動も強引な父のやり方が災いして次第に行き詰まっていった。
 結局パリでピアノ教師およびオルガン伴奏者として生計を立てはじめたフランク。1848年にはピアノの教え子で女優のデムソーと結婚、これに大反対だった父と決定的に袂を分かち、実家を飛び出してしまう。勘当された若夫婦の生活は(よくあるパターンだが)決して楽なものではなく、フランクは家庭を支えるために日々働き暮らした。生徒たちにピアノやオルガンや作曲を教え、礼拝日には教会のオルガン廟にうずもれて演奏に没入し、そうした中でも毎日早朝に1~2時間は「思索の時」をとってコツコツと作曲する。この生活スタイルは彼が死ぬまで碌々と続いた。
 そんなフランクの周りには、作曲の教えを受けるために、また彼の誠実で情に篤い人柄に惹かれ、多くの弟子が集まるようになっていた。彼らは師を「Père Franck(フランク親父)」と呼び慕い、フランクの音楽を世間に紹介しようと奔走する。こうした弟子たち《フランキスト》の中には、ヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソンなど、後にフランスを代表する作曲家となる若者が数多くいた。
 オルガンの確かな腕前、それに弟子たちの担ぎ上げもあってじわじわと知名度が上がっていたフランクは、1872年にパリ音楽院のオルガン教授に任命される。しかしオルガン弾きでありながら自己流で作曲し、そのくせ生徒にも人気があるフランクを快く思っていなかった他の教授陣は、フランクを冷遇し、作品を正当に評価しようとしなかった。
 1889年に初演された「弦楽四重奏曲」が初めて聴衆から喝采され、ようやく彼の音楽が受け入れられ始めた矢先、フランクは乗合馬車で事故にあう。これがもとでその後こじらせた風邪から腹膜炎にかかり、翌1890年には亡くなってしまう。皮肉なことに、フランクの作品は彼の死後になって急に評価されはじめ、特に本日演奏する交響曲と、ヴァイオリンソナタ、弦楽四重奏曲、ピアノ協奏曲である「交響変奏曲」など、彼が50歳を過ぎてから書いていった晩年の作品群が、現在でもひろく知られる代表作となっている。これらの作品は、狙ったかのように1ジャンル1曲ずつしかない。フランクにとっては、それで十分だったのだろう。彼が弟子たちに、口癖のように教えていたのは「少しを、きわめてよく書くように」だったという。この教えに、フランクと彼の音楽の真髄が表れている。

■交響曲について
 曲が完成したのはフランクが66歳のときで、最晩年の作品の1つである。初演時の評判は芳しくなく、荒涼として陰気だとか、雅趣も魅力も愛嬌もないとか、辛辣な批判の声が浴びせられた。たとえばグノーは「ドグマの域にまで高められた不能性の断言」(自分が無能なことを教義さながらに述べたような曲だ)と酷評した。それでも当のフランク自身はそういった外からの不評を気にすることなく、初演の出来栄えを心配する家族に対して「ああ、私の思った通りに響いたよ」と満足げに答えたという。
 3楽章構成。ポイントは「循環形式」を採用していることであり、以下の譜例に示す3つの主題が全楽章にわたって何度も登場する。

主題A

主題B

主題C

 フランクの一番弟子ダンディは、この交響曲を「堂々たる、造形的な、完全な美を具えた曲」と絶賛しているが、これらの主題がほとんど形を変えず徹頭徹尾使われていることによって、全曲の統一感と構造美が保たれているのは確かである。また転調が非常に多いことも(この曲に限らず、フランクの作品に共通する)特徴の一つだが、同じ主題であっても、転調することによって色彩や空気感が次々と変化していき、ロジカルでいて感情がうねるようなフランク独特のスタイルを効果的に創りあげている。
 第1楽章は、主題Aと主題Bが繰り返し、しかも次々と転調しながら展開される(演奏する側としては、ほんの1小節だけ目を離した隙に、1つだった譜面上のフラットが6つに増えていたりするので油断ならない)。がっちりと重厚に組み上げられた大聖堂のような印象は、同じく敬虔なカトリック教徒でオルガン奏者だったブルックナーの作品に通ずるものがある。
 第2楽章は、コールアングレのソロで奏でられる主題Cから始まり、次いで主題Bの要素を含むヴァイオリンのメロディが登場。

第2楽章Vn 主題

 続いて、ヴァイオリンのごく弱いトレモロで急に霧がかかったようになる部分からスケルツォとなる。

スケルツォ

 スケルツォの中間部ではマズルカ風の明るい旋律がクラリネットに表れる。

スケルツォのトリオ

 このスケルツォは、いつの間にか回帰したコールアングレの主題Cとないまぜになっていく。全体に陰鬱として、遠く虚ろな景色。
 第3楽章で曲はニ短調からニ長調になり、ベートーヴェンよろしく苦悩は歓喜になる。唐突に爆発して始まり、すぐに新しい主題「歓喜の動機」が登場する。

歓喜の動機

 このメロディには強弱記号が付いておらず、「dolce cantabile」(優しく、うたうように)と指示があるのみ。この書き方がなんとなくフランクらしく感じられて、筆者は最も好きな部分である。続いて登場する金管楽器によるコラール風の主題も、壮麗で光り輝いている。

第3楽章第二主題

 主題A、B、Cが代わる代わる繰り返され、最後は喜びに満ちて曲を閉じる。

初  演:1889年2月17日、ジュール・ガルサン指揮 パリ音楽院管弦楽団

楽器編成: フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ハープ、弦五部

参考文献 フランソワ・ポルシル(安川智子訳)『ベル・エポックの音楽家たち セザール・フランクから映画の音楽まで』水声社 2016年
今谷和徳/井上さつき『フランス音楽史』春秋社 2010年
ノルベール・デュフルク(遠山一行/平島正郎/戸口幸策訳)『フランス音楽史』白水社 1972年
エマニュエル・ビュアンゾ(田辺保訳)『不滅の大作曲家 フランク』音楽之友社 1971年
ヴァンサン・ダンディ(佐藤浩訳)『セザール・フランク(音楽文庫69)』音楽之友社 1953年
吉田秀和『主題と変奏(中公文庫)』中央公論新社 1977年
河上徹太郎『河上徹太郎全集』第一巻および第四巻 勁草書房 1969年
『最新名曲解説全集 第2巻 交響曲Ⅱ』音楽之友社 1979年
『(ミニチュアスコア)フランク 交響曲ニ短調』全音楽譜出版社 2009年
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