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ブラームス:交響曲第1番ハ短調

坂田 晃一(チェロ)


伝わらなかった愛のメッセージ
 この曲についての音楽的な解説は、数多ある名解説に譲り、ここではブラームスとクララ・シューマンとの関係に焦点を当てた解説を試みたい。


 ブラームスといえば、その恩師ロベルト・シューマンの妻クララとの特別な人間関係が思い起こされる。興味本位には謂わば“禁断の恋”とも伝えられる一方、ふたりは終生プラトニックな愛を貫いたとも言われている。
 そのふたりの間では1854年(ブラームス20歳、クララ34歳)からクララが亡くなる1896年まで多くの手紙が交わされた。ところが、それらの往復書簡は1887年にクララの意志により、特に濃密な関係を築いたと推測される年代のものの大半が破棄されてしまった。ふたりの愛がどのようなものであったのかを知るための最も重要な手がかりが隠されてしまったのだ。それでも、クララの長女マリエの機転によって破棄を免れた手紙やクララ自身が残した日記から、後世の研究者たちはふたりの愛のかたちについてさまざまに推測を試みてきた。しかし、結局確かなことはわからないままだ。だが、仮にそうした詮索がなにか確かな答えを得たとしても、ブラームスの遺した偉大な業績とその芸術的価値をなんら左右するものではない。
 残された書簡などから読み取れることは、どのような愛の形であったとしても、ふたりは終生互いの尊敬の念に支えられた、このうえない親密な友情と、清透な恋愛感情との綯ない交ぜになった崇高で高貴な愛を貫こうとし、そうした愛の交歓はブラームスの創作活動にとってかけがえのない精神的支えであったということである。少なくとも私にはそのように思える。
 実際の音楽活動において、ふたりはそれぞれの活動についてさまざまに情報をやり取りしていたし、演奏会があれば互いに聴きに出かけることもしていた。また、作曲が完成すると、ブラームスはクララに楽譜を送って講評を求め、あるいは、居所が近ければ必ずクララにピアノで聴かせてもいた。クララはブラームスの音楽的才能を高く評価していたので、彼の才能が存分に生かされていれば大いに賞賛し、彼女の期待を裏切るような場合には仮借なき辛辣な批評を述べることもあった。完成したばかりの未出版の作品であれば、ブラームスはクララの意見を取り入れて書き直すことも厭わなかったようである。
 こうしたことからも察せられるように、ブラームスは誰よりもクララからの好評価を望んでいたのであり、それはすなわち、ブラームスにとってのクララとの愛の交歓は、彼がその全情熱をかたむけて作り出す作品をも支配するほどのものであったということである。
 つまりは、ブラームスの作品そのものにこそ、ふたりの愛の結果が移し込まれているのだ。
 そうしたことが窺える、ふたりの書簡とクララの日記の一部を紹介したい。
 「…私の作品について、長いお手紙をください。汚い音調のところ、退屈なところ、偏へん頗ばな芸術性、感情の冷たさ等について、どうぞたくさん叱ってください。」(1860年9月/ブラームスからクララへ)i
 「あなたはまたも芸術の深淵への道を見いだしたのね。…合唱の加わるところの和声は硬いと思います。…ホ長調のコラールは素晴らしく(中略)私を喜ばせましたが、終わりに近いテノールのホの音は重すぎます。なぜ嬰ヘの音を使わなかったのですか。…」(1860年9月/クララからブラームスへ)i
 「『セレナーデ』は驚くばかりの詩想に満ち(中略)私は完全に音楽に引き入れられ、感動のあまりヨハネスの腕に身を投げ入れたい気がした。聴衆の冷たい態度は、心臓から血が溢れるように私の胸を痛めた。彼のために、彼の阻そ碍がいをのぞく力が私にあったら…」(1860年11月/ヨアヒムによるブラームスの諸作品を聴いた際のクララの日記)i


 さて、この交響曲第1番は1876年11月に初演された。遡ること8年前の1868年9月12日、ブラームスはクララの誕生日を祝って一通の書簡を彼女に送った。そこには本文もブラームスの署名もなく、“ヨハネスからクララへ”と題して9小節のメロディが歌詞を伴って記されていた。
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 このメロディこそ、この交響曲第1番の終楽章に現れる、アルペンホルンを想起させるあのメロディだった。歌詞の内容は「山の高みから、谷の深みから、きみに幾千回もの挨拶を送る!」というものである。その後8年を経て、ブラームスはこの交響曲第1番を完成させ、前述のとおり、その終楽章にこのメロディを引用した。着想から20年余を経て紆余曲折の後に漸く完成させたこの、音楽史的にも圧倒的な価値を持つ交響曲に、ブラームスは至極個人的なメッセージを密かに込めたのだった。しかし、当事者以外は知ることのなかったはずのこの事実は、後世の研究によって多くの音楽愛好家の知るところとなった。
 このような、この上なくロマンティックに仕組まれた愛のメッセージが、果たしてクララに伝わったのかどうか、以前から私は疑問に感じていた。以下に、私なりに検証してみたい。


 この交響曲の完成の14年前の1862年6月、ブラームスはこの曲の初期稿の第1楽章(序奏を欠いている)をクララにピアノで弾いて聴かせたが、彼女はそのときの感想をヨーゼフ・ヨアヒム(ヴァイオリニスト・指揮者・作曲家、ブラームスの盟友)へ手紙で書き送り、絶賛している。ところがその14年後の1876年、この交響曲の初演の1か月前の10月にブラームスは再度自らピアノを弾いてその全曲をクララに聴かせたのだが、彼女はその日の日記にかなり否定的な感想を書いている。
 それは、こののちの初演後の批評家たちの反応も「この新作の交響曲は一度聴いてみて、多くの曖昧なところを残している。…」ii、「…真ん中の2つの楽章には問題ありだ。…どちらかといえばセレナーデか組曲向き…」iiiなど、あまり芳しくないものが多かったが、クララも同様に感じたのか、「私は悲しみ、打ちのめされたことを隠すことができません。…まさしくヘ短調の五重奏曲、六重奏曲、ピアノ四重奏曲と同等のものに思えるからです。旋律の活気が欠けているように思われ…」iiと書いているのだ。
 クララのこの感想に私は違和感を覚える。不可思議でもある。なぜ悲しんだり打ちのめされたりしたのであろうか。たしかに、ブラームスはこの曲の初演後すぐに改訂を加えたと伝えられる。特に、2楽章についてはかなり手を入れたとも言われている。であるとすれば、クララがブラームスのピアノ演奏で聴いたのは、私たちが現在聴いているものとは同じではない箇所があったと推測できるが、そうした、私たちには今や耳にすることのできない部分をクララは特に気に入らないと感じたのかもしれない。また、オーケストラそのものではなくピアノ演奏で聴いたため、オーケストラとしてのダイナミズムやニュアンスが伝わらなかったためだったのだろうか。
 このような仮説を立て、私自身を多少なりとも納得させることができても、それでも尚かつ私が腑に落ちないのは、彼女はアルペンホルンのメロディが引用されていることには全く気づいていなかったと思われるからである。もし気づいていれば、少なくともなんらかの喜ばしさを示したはずである。しかし、この日記にはそのような記述は全くない。後世の研究者たちも戸惑いがあるのか、この日記の内容についてなにか論評した形跡が見当たらないのだ。
 そもそも誕生日を祝う件の書簡が送られた2年ほど前から、ふたりの間にはあるわだかまりが生じており、1868年のクララの誕生日当時にはまだそのことを解消できずにいた。そのため、クララは多分この書簡を複雑な思いで一度は読んだが、すぐどこかにしまい込んでしまい、そのメロディを記憶として留めることはなかったと思われる。そのため、その後8年を経て完成されたこの交響曲に、そのメロディが用いられていることに彼女は気づかなかったのではないだろうか。クララの日記はまた、彼女が気づかないことに、ブラームスは一言も触れることはなかったことも示唆している。


 伝えられるべきことが伝わらなかったのだ。長年の逡巡ののちに完成させた初めての交響曲のフィナーレに、感動とともに受け止めてもらえるはずの愛のメッセージを託したのに、嗚呼、なんということか。ブラームスは大いに落胆したに違いない。


 私のこのような推測が正しければ、ほんの少しの気持ちのすれ違いが遠因で、ブラームスの個人的な愛のメッセージが企てどおりに伝わらなかったわけだが、しかし、そのことによってこの終楽章の音楽的価値が左右されるわけでは全くない。この点は強調しておきたい。また、私たちがそのメロディに隠された個人的ないきさつなど知らなくても、この交響曲の芸術的な価値が減ずることでもないのだ。
 それでもしかし、私はなにか残念な思いに囚われる。
 私は更に、クララがこの秘められたメッセージに終生気づかずにいたのかどうか、ということも知りたいと思い、さまざまな資料をあたってみたが、どこにもクララが気づいた形跡や、ブラームスが打ち明けた痕跡も見つけることはできなかった。
   

 この上なくロマンティックに仕組まれた愛のメッセージは最後まで伝わることなく、1886年5月20日、クララは76歳でその生涯を終えた。クララの最期をブラームスは看取ることができず、やっとの思いで埋葬の場に駆けつけたと伝えられる。翌年の4月3日、ブラームスもクララのあとを追うようにその64年の人生の幕を閉じた。19世紀ドイツ・ロマン主義の終焉でもあった。


第1楽章
 Un poco sostenuto-Allegro-Meno Allegro
 序奏部とコーダを両端に置いたソナタ形式、動機労作。
第2楽章
 Andante sostenuto
 リート形式 (A-B-A’)。
第3楽章
 Un poco Allegretto e grazioso
 コーダ付きのリート形式 (A-B-A’-Coda)。
第4楽章
 Adagio-Più Andante
 -Allegro non troppo, ma con brio-Più Allegro
 序奏部-変則ソナタ形式(呈示部-展開的再現部)
 -コーダ。


初演: 1876年11月4日、オットー・デッソフ指揮による、カールスルーエのバーデン大公宮廷管弦楽団 第1回予約演奏会にて。
楽器編成: フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部
参考文献
 [ⅰ]ベルトルト・リッツマン(原田光子訳) 『クララ・シューマン/ヨハネス・ブラームス「友情の書簡」』みすず書房 2013年
 [ⅱ]西村稔『作曲家・人と作品シリーズ ブラームス』音楽之友社 2006年
 [ⅲ]ウォルター・フリッシュ(天崎浩二 訳)『ブラームス 4つの交響曲』音楽之友社 1999年

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