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芥川也寸志:交響曲第1番

土田 恭四郎(テューバ)


 芥川也寸志(1925~1989年)は、桁外れな行動力と企画力を持った「作曲家」「社会運動家」であり、その生涯を音楽活動に挺身した。作曲活動だけにとどまらず、まさに獅子奮迅の多面的活躍で、日本 の音楽文化向上に多大な貢献を残した「音楽家」であった。
 作曲家としてあらゆる分野での音楽の創作活動はもちろんのこと、特に後半生での顕著な活動として「音楽は人間が生きていくうえで、なくてはならないもの。音楽はみんなのもの。」という信念のもとに、音楽の啓蒙と音楽家の権利を守るための活動、平和のための社会運動にも奔走し、多くの作品や著作と共に業績を残している。團伊玖磨の弔辞「黛敏郎の言葉を借りれば、芥川也寸志の最後は壮烈な文化への戦死であった、ということです。」(1989年2月27日青山斎場葬儀)と言わしめた。
 桁外れな行動の一つとして、1954年に当時国交のなかったソヴィエトへ、常識では帰国が保証されない状況の中での潜入(密入国)を敢行、ショスタコーヴィチやカヴァレフスキーと親交を結び、ソヴィエトでの作品出版による印税を手にして帰国、という冒険譚が有名である。


 芥川也寸志の全貌に触れるには、紙面が限られているので「交響曲第1番」作曲までの前半生に集中して筆を進めていきたい。


生涯の前半
 芥川也寸志は、文豪芥川龍之介の三男として東京府北豊島郡滝野川町大字田端(現北区田端一丁目)に生まれた。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属高等学校)4年の時に音楽の道へ進むことを決意、1941年から橋本國彦に作曲、井口基成にピアノを「バイエル」から手ほどきを受けている。1943年東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)本科作曲部入学、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下總皖一と細川碧に対位法、永井進にピアノを学ぶ。翌1944年に学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊し、テナー・サキソフォンを担当する。この時に「第三種兵器」として与えられた楽器には “Made in USA”の刻印があったという。軍楽隊では実技の傍ら連歌隊や行進曲の作・編曲にもたずさわり、その作業から管楽器に関する知識を得た。
 1945年東京音楽学校に復学後、講師として着任した伊福部昭の講義に感銘を受け、以後生涯の師弟関係を結んでいる。1947年に本科卒業作品として「交響管絃楽のための前奏曲」、1948年に自己のキャラクターを明確に打ち出した「交響三章」を発表、そして事実上の出世作ともいえる「交響管絃楽のための音楽」を1950年に発表し、NHK放送開始25周年記念管弦楽懸賞の特賞に入選、名声を確立した。(その賞金で家を買ったという話は生前よく伺った。)
 1953年、当時のスター作曲家のグループとして「三人の会」を團伊玖磨、黛敏郎と共に結成。センセーショナルな出来事として日本の作曲界に多大な影響を与えた同年、弦楽に対しても並々ならぬ手腕を発揮した「絃楽のための三楽章―トリプティーク」を発表し、以上の三作で作曲家としての不動の地位を築き上げる。
 このようにして芥川也寸志は、日本が太平洋戦争に敗れて低迷していた戦後という時代の楽壇に、彗星の如く颯爽と登場したのである。
 橋本國彦が、戦後の自由な環境の中で創作の腕を揮った1947年発表の「交響曲第2番」(新交響楽団第229回演奏会[2015年4月19日 湯浅卓雄指揮]で演奏)でみられる開放的で抒情性がありながら、どこか内向性と懐古的表現に充ちた音楽とは根底が異なり、新しい時代の中で躍動感と推進力に満ちた作品を次々と発表。まさに時代の寵児として活躍の第一歩を踏み出したと言える。


明快な音楽
 芥川也寸志の音楽はとにかく解り易い。フランス・アカデミズム風音楽から、深く心酔していた伊福部昭の土俗的で強靭なオスティナート(執拗な反復)を多用した音楽、橋本國彦に通ずる都会的モダニズムといったスタイリッシュな音楽、ロマン的でセンチメンタルな節回しで甘くカンタービレな志向、そしてソヴィエト流社会主義リアリズムに傾倒し、ショスタコーヴィチやプロコフィエフといったロシア国民楽派の流れを汲むソヴィエト現代音楽をそれぞれ範として、見事に共存相乗させている。
 明快でダイナミック、そして甘美なリリシズム、ストレートで魅力的な旋律、独特な躍動するリズム、生き生きとした生命力あふれるリズム構成、多面的な表現力は、芥川也寸志の作品の魅力といえる。そして「交響曲第1番」にはその魅力が満載である。


交響曲第1番
 1954年「三人の会」第一回発表会にて「シンフォニア」として発表、その後、前述のソヴィエト渡航を経て1楽章と2楽章の間にスケルツォ楽章を加えて4楽章形式として改作した。
 重苦しく暗い抒情を持ち、またこの作品以前に試みられた書法が集大成され、交響曲を作曲するにあたり並々ならぬ意気込みが窺えるスケールの大きな重量感ある大作である。
 ショスタコーヴィチやプロコフィエフへの共感を強く滲ませ、ところどころに伊福部昭が出現、という印象があるが、ショスタコーヴィチのような冷徹で強靭な曲想を分かり易く解釈し、厳しさと謙虚さを同居させ、現実認識への鋭い批評精神と使命感を、全曲にわたって循環主題の如く登場する「リズム動機」(譜例1~4)として自己を表現しているものと思われる。そして躍動感と推進力は、根底として「リズムは生命に対応するものであり、あらゆる音楽の出発点であると同時にあらゆる音楽を支配している、リズムは音楽を生み、リズムを喪失した音楽は死ぬ」という信念の表現ともいえるだろう。
 尚、改作初演された1955年12月8日の直前、11月9日に当時の「労音アンサンブル」が初めて指揮者に芥川也寸志を迎え、翌年1956年3月1日、新交響楽団が正式に発足(規約発効)、芥川也寸志は音楽監督・常任指揮者に就任している。


第1楽章 アンダンテ 4/4拍子
 ソナタ形式。四六の短三和音のクロマティックな下降に支えられて深刻な旋律が上行する。この旋律は、前述の「リズム動機」と共に曲の進行につれて形を変えて登場することで交響曲の有機的な統一と一貫性を導いており、また和音の平行進行、クロマティックな下降、上声部と下声部の反進行は、交響曲の構造を支配している。その後発展して短三和音の響きの中で「リズム動機」が明確に登場。「リズム主題」から導かれた弦楽器のシンコペーションに乗って木管楽器により出現する第2主題ともいえる旋律は、抒情的な美しさに満ちている。そしてショスタコーヴィチのような厳しさをもって弦楽器に冒頭のモチーフと似た旋律が登場。伊福部昭のような壮大で重厚な響きを経て、他の様々なモチーフと組み合わされて再現部に進み「リズム動機」を回顧して静かに終わる。


第2楽章 アレグロ 2/4拍子
 軽快なスケルツォ。弦楽器で提示される主題が木管楽器、さらに金管楽器に渡されて、というように小気味よく進行。「リズム動機」を思わせる主題が、弦楽器のユニゾンから、木管楽器、金管楽器と加わって、各楽器群が各々鳴りやすい音域の中で自然に最強音に達するよう周到な配慮が施されて圧倒的なユニゾンで終わる。


第3楽章 「Chorale」アダージョ 2/4拍子
 長短三和音の組み合わせによるコラールは、パッサカリアのごとく反復されるごとに重層的に塗り重ねながら発展していく。対位法的な中間部ののちに「リズム動機」が復元され、コラールが再現されていく。


第4楽章 アレグロ・モルト 4/4拍子
 短三和音が主体となって律動的で時には諧謔味も効かせて快活に進行。プロコフィエフのバレエ音楽に登場するような転調を続ける速いリズムパターンがオスティナート的に展開、長三和音と短三和音のクロマティックな下降の対比が鮮やか。突然fffで1楽章冒頭のメロディーに似た旋律が、映画のワンシーンのごとく登場、増三和音が響き渡る中で金管楽器により朗々と鳴らされ、強奏の後に「リズム動機」が回顧されてくる。そして冒頭のリズムパターンが再現されて、不屈な魂を表現するかの如く、増幅された圧倒的なエネルギーと共に一気呵成に駆け抜ける。


音楽に対する限りない憧れと情熱
 音楽だけにとどまらない多面的な行動力は、新交響楽団の創立以来、音楽監督としての生涯にわたる活動にも生かされている。緊張に満ちた練習と妥協を許さない厳しい要求、「アマチュア」という言葉を音楽的能力の不足の言い訳には決してさせないという厳しい姿勢、技術の巧拙とは無関係に、愛する音楽を損得抜きで徹底的に高めなければならない、という決然とした理念がそこにはある。音楽への憧れと情熱を具現化し、「音楽」を社会の中に育て広げていくのには何が必要かを問い続けた表れの一つとして、アマチュアのオーケストラや合唱団への地道な指導と指揮活動があった。
 三代続く江戸っ子としての矜持とも思える感激屋的な気質と実行力は、自己の主張は曲げず、しかし相手の言うこともよく聴くという生来の長所として時々「照れ屋さん」となって垣間見え、新交響楽団の企画と運営、演奏面での向上に大きな足跡を残している。新交響楽団の中だけでも残された数多くのメッセージ、思い出や証言等をまとめると、きっと「芥川也寸志大全集」として何十冊もの分量となるにちがいない。
 新交響楽団は、「交響曲第1番」を1986年に創立30周年記念「日本の交響作品展10」(113回演奏会)で作曲者本人の指揮で初めて演奏、その後も没後1年として1990年に故山田一雄(第126回演奏会)、トレーナーの森山崇(松伏町)、没後10年の1999年に飯守泰次郎(第166回演奏会)で演奏してきている。
 本日はおよそ20年ぶりの再演となるが、新交響楽団創立60年を迎えた最初の演奏会の初めに「交響曲第1番」を湯浅卓雄の指導により演奏することは、単なる「再演」ではない。すでに没後27周年を迎え、この作曲家の謦咳に接したことのない団員も多くを占めるに至った今、「指揮者」「指導者」「社会運動家」「文化人」「タレント」ではなく「音楽家」としての芥川也寸志の作品に真摯に対峙することによって、新交響楽団の新たな音楽創造の第1歩としての「演奏」が実現するものと確信している。(文中敬称略)


初演:‌‌1954年1月26日「三人の会」第1回演奏会
   日比谷公会堂 東京交響楽団
   指揮/芥川也寸志
改作初演:‌‌1955年12月8日‌東京交響楽団第74回定期演奏会
   日比谷公会堂 東京交響楽団
   指揮/上田 仁
楽器編成:‌‌ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン6、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、シンバル、小太鼓、タムタム、木琴、ハープ、弦五部


参考文献
 『芥川也寸志 その芸術と行動』 ‌出版刊行委員会編(東京新聞出版局)
 『芥川也寸志 交響曲第1番』(全音楽譜出版社)
 『芥川也寸志 没後10年』 ‌新交響楽団第166回演奏会パンフレット(新交響楽団)

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