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フランツ・シュミット:交響曲第4番ハ長調

内田智子(ヴァイオリン)


 19世紀から20世紀への転換期におけるウィーン、このハプスブルク帝国の首都は、グスタフ・クリムトの華麗な絵画をはじめとして、いかにも装飾的な様式の造形芸術で知られている。しかし、パリがフランス革命を経て、19世紀の首都たる世界都市への変貌を遂げていったのに対して、ウィーンは内政的には豊かであっても、いまだに宮廷文化を模範にせざるを得ないような、時代遅れのバロック都市のままだった。19世紀後半に進行した、時代錯誤的な帝政の支配体制とブルジョワ中心の市民社会的秩序との乖離は旧来の文化価値の形骸化をもたらしていた。このように残骸と化した文化価値の空白である「価値真空」(ブロッホ『ホフマンスタールとその時代』)を覆い隠す装飾として、かの有名なリングシュトラーセ(環状道路)が作られたのもこの時代である。
 芸術のための芸術、装飾のための装飾を過剰なまでに追求したこの19世紀末ウィーンにおいて、新たな道を切り拓こうとしていった芸術家のひとりがシェーンベルクである。彼の唱導した十二音音楽は弟子のヴェーベルンやベルクに受け継がれ、この時代における最大の音楽潮流となった。しかしこの時代のすべての作曲家が十二音技法を採用していたわけではない。そうした、あくまで調性を捨てることのなかった「保守的」な作曲家の一人に、シェーンベルクと同年生まれのフランツ・シュミットがいる。
彼の同時代的意義についての考察は後ほど述べるこ
ととする。


 フランツ・シュミット(1874-1939)は当時オーストリアであったプレスブルク(現スロヴァキアの首都ブラティスラヴァ)に生まれる。幼少の頃より傑出した天賦の楽才をみせ、音楽アカデミーを卒業後は宮廷歌劇場管弦楽団のチェロ奏者として採用され、ほどなくウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも加入した。マーラーにその能力を買われて首席奏者の座についたこともある(シュミットが1896年から1911年に宮廷歌劇場のチェリストだった時期は、ちょうど、マーラーが実権を握っていた1897年から1907年と重なる。絶対者として君臨するマーラーに対しては反感をもち、マーラー嫌いを公言していたようである)。またピアニストとしても一流であり、音楽理論にも秀でていた上、高等音楽学校の学長まで務めている。
 寡作であったフランツ・シュミットの作品は4曲の交響曲、室内楽曲、オルガン曲、そして最高傑作とされるオラトリオ『七つの封印の書』といったアカデミックな傾向のものが多い。そのためオペラ作曲家として成功をおさめたツェムリンスキーやシュレーカーのように大衆的人気を得ることはなかった。また最後まで調性を放棄しなかったがゆえに、メシアン、ブーレーズら戦後現代音楽の旗手たちに注目されることもなかった。そして「ブラームスとブルックナーの遺産の番人」などといった皮相な評価を与えられ、第二次大戦後オーストリア国内を除いてほとんど忘れられた存在であった。
 また同時期にウィーンで活動していたにもかかわらず、フランツ・シュミットとシェーンベルク楽派の音楽家たちの間には、個人的な交際はほとんどなかったようである。しかしお互いの存在と能力は充分に認め合っており、音楽活動には深い関心を寄せていた。
 そうしたフランツ・シュミットが、なぜ十二音音楽の方向へ進まなかったのか。それは、われこそはウィーンにおける保守本流の作曲家であるという強い自意識のなせる業ではないかと考えられる。しかし決して時代錯誤的な懐古趣味でウィーンの伝統的な音楽様式を復古させようとしたのではなく、伝統の蓄積に敬意を払いつつ、その上に新たなる様式を創造することに心を砕いた。そしてそのためには「現代的」でないという批判など恐れるに足らないと考え、あえて十二音音楽という時流に逆らったのである。この姿勢は特に作曲家が力を入れたであろう4つの交響曲の分野に顕著である。


 交響曲のうち第3番から第4番にかけてオルガンの響きや教会音楽を離れ、濃厚で芳醇な末期ロマン派色に染まってゆく。明朗で健全な曲想から、病んだ世界への変転(メタモルフォーゼ)。最初の妻カロリーネは精神に変調をきたし精神病院に収容され、1932年には娘エンマが、出産の直後に死去する。そういった経験は、32年から33年にかけて作曲された交響曲第4番に暗い影を落としている。
 この第4交響曲は構成自体が非常にユニークである。単一楽章で書かれている上に、曲中のすべての
主題が冒頭のトランペット・ソロの主題(※譜例)に由来するという手法で有機的統一が図られている。曲の中間には四楽章制の交響曲におけるアダージョ楽章やスケルツォ楽章に相当する部分が存在するが、同時に曲全体が一つの大きなソナタ形式となっている。この構成について作曲者はこう語っている。「ソナタ形式における展開部は、ソナタ楽章の内部における実験のための空間であり、作曲者の仕事場である…交響曲を展開部で始めることですら可能である。それは必然的に単一楽章を生みださずにはおかない。」
 冒頭のトランペットにより静かに奏でられる主題は、調性と無調の間をたゆたいながら我々の心に言い知れぬ不安感を呼び起こす。この第1主題は作曲家が黄泉の世界にいる娘に発した呼びかけ(モールス信号)である。すると第2主題で娘の幻影が立ち現れる。「死」の想念は、第2主題にあたるパッショナート(情熱的に)と指示された箇所にも現れる。そしてこのパッショナート主題を再び奏でる独奏チェロによって、葬送行進曲を間に挟んだアダージョ部分が導入される。
 アダージョ部分に続くスケルツォは、またもや「死」を連想させるタランテラのリズムが支配している。様々なモチーフはさながら行き交う人の動きのようでもあり、それをシニカルに見つめる作曲者自身の視点も感じられる。こうしたモチーフの動きが目一杯詰め込まれ、ついにホルンの咆哮により示されるスケルツォの終結部分は、作曲者自身が語るように、「破滅」なのである。
 そうした個々の部分にとどまらず、この交響曲自体が深い憂いと悲しみを湛えているのは言うまでもない。冒頭のトランペットの旋律は、作曲者自身の言によれば「人を永劫へと導く最後の音楽」であり、それゆえに、どれだけクライマックスを構築しても、それが栄華の表現にはならず、諦観の裏返しになったり、この世を儚む慟哭になったりする。聴き手はロマンティックな音楽に身を任せようとした途端に裏切られる。豊かな情感を保ちながらも、やがて、ある焦燥を感じさせながら、疾駆していく何物かを聴衆に残す。ツェムリンスキーを思わせるような、ロマンティックではあるが、調性に挑戦するかの如く危うげな雰囲気を伴って、新たな時代に挑んでいく姿勢を見ることができる。オーストリアがファシズムに呑み込まれていく、困難で不安な将来を予感させる時代を象徴している、これが彼にとっての《不安の時代》の和音とでも言うべきものだろう。


 フランツ・シュミットがオーストリア共和国の消滅とともに世を去ったというのは、実に象徴的な出来事である。7年の後に再びオーストリアという国が地上に姿を現したとき、ヨーロッパの音楽界は一層急速にボーダーレス化が進み、もはや各国特有の音楽的伝統はさほど意味を持たなくなった。ウィーンの伝統に深く根ざしたフランツ・シュミットの音楽は、それゆえに他国に伝播せず、戦後の作曲家たちにも注目されなかった。
 私がウィーンに留学し、世紀末ウィーンの文化に係る文献を探っていた時も、この作曲家の名前はシェーンベルクなどの大きな存在の陰に埋もれ、目にすることは稀であった。しかし戦後現代音楽に大きな影響を与えた両大戦間のウィーンにおける様々な音楽活動を顧みるとき、作品それ自体の価値は勿論、「場所の価値」としてもフランツ・シュミットの名は欠かすことができない。本日は今一度彼の音楽に耳を傾け、その歴史的意義に思いを馳せながら、「保守」と「革新」との相剋が生んだ豊かな音楽と向き合っていただきたいと思う。


初演:1934年1月10日、オスヴァルト・カバスタ(被献呈者)指揮、ウィーン交響楽団
楽器編成:フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、Esクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、バステューバ、ティンパニ、大太鼓、
小太鼓、シンバル、タムタム、ハープ2、弦五部
参考文献:『ウィーン音楽文化史 下巻』渡辺護著(音楽之友社)
“Das Ende der Symphonie in Österreich undDeutschland zwischen 1900 -1945”Carmen Ottner, Musikverlag Doblinger, Wien, 2014
“Die österreichische Symphonie im 20. Jahrhundert”Hartmut Krones, Böhlau Verlag, Wien, 2005

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