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ショスタコーヴィチ:祝典序曲

野田俊也(ファゴット)

 本日演奏する「祝典序曲」と「交響曲第10番」は共通点があります。それはいずれの曲もスターリンの死後(1953年)に発表されているということです(祝典序曲は1954年、交響曲第10番は1953年)。独裁者スターリンは政治・経済・文化へ大きな影響と恐怖を与え、ショスタコーヴィチも例外でなく彼の作曲家人生は大きくスターリンに左右されました。それ故スターリンの死後に作曲された曲には、スターリンに対する思いが込められているようです。まずはショスタコーヴィチの生涯からみて行きましょう。


 ドミトリィ・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチは1906年9月12日にペテルブルクに生まれました。父親のドミトリィ・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチと同じ名前なのは、洗礼式の日に司祭が父親の名前をとってドミトリィにすべきと押し切ったためだそうです。ショスタコーヴィチは天才児で、絶対音感があり、一度演奏した曲はすぐに暗譜で繰り返し演奏できる驚異的な記憶力がありました。ペトログラード(ペテルブルクが改称)音楽院に13歳で入学しますが、入学試験の準備期間中にショスタコーヴィチの母ソフィアはペトログラード音楽院院長であったグラズノフにショスタコーヴィチの作品を聴いてもらい、グラズノフから「音楽院の
中で、かつて、あなたの息子さんほど才能のある子供がいたことは記憶にありません。」とお墨付きを貰っての入学でした。18歳の卒業時には交響曲第1番を発表して一躍注目を浴び作曲家としての地位を得ました。
 若いころのショスタコーヴィチはたいそう辛辣で気が強かったそうです。その性格と残忍性を嫌う性格から、スターリンを特に忌み嫌っていたみたいです。ショスタコーヴィチのスターリンへの憎悪は次のように記載されています。「一般的にいって、粗雑さと残虐は、わたしがなによりも憎んでいる性質である。〈中略〉そのかずある例のひとつはスターリンである。」(「ショスタコーヴィチの生涯」より)
 そのスターリンが1936年1月にショスタコーヴィチのオペラ「マクベス夫人」の上演中に退席してしまう事件が発生します。要は曲がよく分からなかったみたいです。そして、その二日後に発行されたプラウダに「音楽の代わりの支離滅裂―ConfusionInstead of Music」と題する論文が発表され、これに端を発してショスタコーヴィチに対する批判が始まります。所謂プラウダ批判です。「人民の敵」とのレッテルが貼られたショスタコーヴィチは汚名返上のために有名な交響曲第5番を作曲します。実は同時期に交響曲第4番が作曲されていたのですが、この曲を発表して更に立場が危うくなることを恐れショスタコーヴィチは抽斗ひきだしの中に楽譜を隠しました。交響曲第4番が日の目を見たのは完成後25年経った1961年です。交響曲第5番は当局に好まれる曲に仕上げていますが、シニカルなショスタコーヴィチは終楽章に強制された歓喜、果てしない悲劇を込めて作曲したそうです。
 その後もスターリンによるイデオロギー統制が続く中でショスタコーヴィチは作曲活動を続けますが、ショスタコーヴィチが交響曲第9番を作曲するにあたり、当局からファンファーレ、賛歌が必要だと言われ、ベートーヴェンをイメージした荘厳な第9交響曲を書くことが要求されました。それは4管編成のオーケストラと合唱と独唱によるスターリンへの賛歌を書くことでした。ショスタコーヴィチ自身も当初は当局に賛歌を書いていると公表していましたが、完成した交響曲第9番は合唱もなければ独唱もなく賛歌もない室内楽的な交響曲でした。
 これにスターリンはひどく腹を立て、中央委員会書記であったアンドレイ・ジダーノフの文化政策におけるイデオロギー統制「ジダーノフ批判」の対象となってしまいました。ショスタコーヴィチはモスクワ音楽院を解雇され、作品の演奏も禁じられることになり、家族の生活のためにはイデオロギー的に更正したことを証明する作品を書くことが必要となり、1949年にオラトリオ「森の歌」を書き上げました。この曲はスターリンの大植林計画に捧げる曲として作曲されましたが、要は露骨なスターリン賛歌です。スターリン万歳!と終始唄われるこの曲は大成功を収めますが、初演後ショスタコーヴィチはホテルで号泣し、気を落ち着けるためにウォッカを何杯もあおったが酔えなかったそうです。
 ショスタコーヴィチは生涯に交響曲を15曲作曲し、バレエ音楽、オペラ、管弦楽曲、室内楽曲、そして彼の生活を支えた映画音楽などを多数作曲し1975年8月9日に息を引き取りました。遺作(作品番号147)となったヴィオラ・ソナタのヴィオラを弾いたドルジーニンは、初演後に聴衆の鳴り止まない喝采を残らず作曲者に注ぐため楽譜を頭上高く掲げたそうです。


 祝典序曲は第37回ロシア革命記念日の祝典のためにソヴィエト共産党中央委員会からの委嘱によって1954年に作曲された説と、1947年8月に十月革命30周年を記念して作曲した説がありますが、ここでは1954年に作曲され発表された曲として紹介します。
 前述の通り、第37回ロシア革命記念日の祝典のためとも1952年のドン=ヴォルガ運河の開通に捧げられたとも言われている祝典序曲は、1954年11月6日にモスクワのボリショイ劇場に於いて初演されました。演奏会当日のわずか数日前になってショスタコーヴィチは大至急で序曲を書き上げて欲しいと指揮者に打診され3日で作曲したと言われています。確かに天才ですので3日で書き上げることも可能だと思います。
 とはいえ何か題材がありそうなので、調べてみると過去に作曲した作品が引用されているのが分かりました。まず、冒頭のファンファーレ。これは娘ガリーナの9歳の誕生日のために1944年頃に作曲された7つのピアノ小品曲「子供のノート」の第7曲の「誕生日」の冒頭から引用されています。そしてプレストに入りクラリネットが奏でる第一主題が、前述のオラトリオ「森の歌」の第5曲「スターリングラード市民は前進する」で用いられた旋律です。特に5曲目は「スターリングラード市民は前進する」のその題名通り、スターリンにちなむこの地名が何度も歌われています。1953年にスターリンが死ぬと、次のソ連書記長フルシチョフのスターリン独裁体制批判に伴い1962年に歌詞を大幅に変更し、地名をヴォルゴグラード(市名は1961年に改称)、題名を「コムソモール(共産党の青年団)は前進する」に変更しています。そして終盤には「ジャズ組曲第2番」の第3曲が顔を出し、最後に冒頭と同じく「誕生日」のファンファーレが奏でられると、曲はコーダへ続き華々しく曲を閉じます。
 第一主題はホルンとチェロの第二主題が始まると段々と第二主題の伴奏側に回り始め、曲の後半に向かって断片的になり、第二主題が主役にとって代わります。そして最後は「誕生日」のファンファーレを再度引用し、そのファンファーレもわざわざバンダ(オーケストラ本体とは別に、多くは舞台裏、観客席等の離れた位置で演奏する別働隊のこと)まで付けて壮麗に演奏します。これはまさに忌み嫌っていたスターリン(=第一主題)の忌まわしい思い出を抹消し、芸術緩和・復興の「誕生」を祝った曲ではないかと思うのです。そしてショスタコーヴィチのシニカルさもまさに表れている曲ではないかと思うのですが、考えすぎでしょうか?


初演:1954年11月6日ボリショイ劇場にて
楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ3、クラリネット3、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングル、弦五部、バンダ(トランペット3、ホルン4、トロンボーン3)
参考文献
『ショスタコーヴィチの証言』ソロモン・ヴォルコフ著水野忠夫訳(中央公論新社)
『ショスタコーヴィチ』千葉潤著(音楽之友社)
『ショスタコーヴィチ 祝典序曲』大輪公壱著(全音楽譜出版社)

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