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松村禎三:ゲッセマネの夜に

松下俊行(フルート)


接吻と裏切り
 ユダがイエスを裏切る。この事は誰もが良く知るところだが、その行為の実体を知る人はそれに比較して意外に少ないのではないだろうか。それは何か。イエスを「売る」報酬として銀貨30枚を受取った事か。或いは彼の裡にそもそも裏切ろうという意志が芽生えた事か。


 ジョット(Giotto di Bondone1267?~1337 イタリア)の絵はその裏切り行為の瞬間を凍結している。捕縛に来た祭司長をはじめとした敵対者に対し、彼らと結んだユダが、接吻によって相手がイエスである事を示す。所謂『ユダの接吻』の場面(注1)である。それはゲッセマネに於けるイエスにとって最後の夜に起き、翌日彼は十字架に架けられる。
 実はユダに限らず、弟子たちは様々な形でこの夜イエスを裏切っている。ある弟子の一群はイエスから自分が祈っている間は眠るなと命じられるが、眠ってしまう。ペテロは「自分は決してイエスを『知らない』とは言わない」と師の予見を否定するが、結局夜が明けるまでに師の言葉どおりの行為を、自ら気づかぬままにする事になる。師から「~するな」と言われた事を犯し、片や「自分は~しない」と明言していながらそれを破る。この世の中に存在する裏切りとは人の心の弱さを反映して、大抵そのような形をとるものだ。


 だがユダの「裏切り」はこれと全く異なる。彼は群集の中でイエスを指差し、声高にその存在を知らせはしなかった。ただ師に対し弟子がとるべき礼節と愛情を示す、日常的な所作を行っただけである。ここにあるのは人の弱さとは異質の、より深い意図と強い意志であると捉えざるを得まい。そしてその行為のさりげなさ故に、裏切りの罪はより深まる。
 イエスはこうした数々の裏切りを弟子たちに明言し、自身に訪れる運命を見据えていた。そしてこのゲッセマネの一夜、全てその通りとなった。この地の名は、彼の生地であるベツレヘムや終焉の地たるゴルゴダなどに比較して知名度は低い。だがジョットのこの絵と共に、もはやそれが記憶から去る事はないだろう。
 「ゲッセマネの夜に」の作曲を進める間、松村禎三は絶えずこの絵と向き合っていた。彼が特に注目していたのはイエスのユダを見つめる目だ。接吻による裏切り…それを予期していたはずのイエスも、さすがに怒りのまなざしを向けているようにも見える。或いは悲しみに充ちた予見に対する寸分違わぬ回答として、諦念を以ってこの弟子を見つめているのかもしれない。そしてそのいずれの場合も、師への裏切りという大きな罪に対する許しを与えようとする意志を、その視線から読み取る事ができよう。取り巻く群衆の描写を背景としたふたりの間に、神学的解釈とはまったく別の様々なドラマをこの絵から見出すのはそれほど難しい事ではない。
 だが作曲家の視点はより遠く深く透徹している。作品を書き上げた後の言葉。


 …イエスのまなざしはユダを突き刺し、通りこして永遠のかなたに人間の悲しい営みを見とおしているように思える。この透徹さにあやかりたいという思いがこの曲を書くためのエネルギーの基盤となった。


 作曲家はこの絵のイエスのまなざしを見つめ続けた。そして見つめ続ける作曲者自身のその目は、通常の音楽家が持つものと異なる。その由来と性格とを知る事は、我々がこの作品と対峙する際にきわめて重要に思える。


凝視の確立
 松村禎三(1929~2007)は生地京都にある旧制第三高等学校卒業後の1950(昭和25)年、東京音楽学校作曲科の受験に失敗している。学科試験後の検査で、両肺結核の診断を受けた為である。その後、都下北多摩郡清瀬村(現在の東京都清瀬市内)の療養施設に入る。いつまで続くかも知れぬ療養生活と繰返し受けねばならなかった手術の苦痛、日常にはびこる周囲の死との対峙…そうした環境下、所内で盛んに行われていた句作に親しむ様になる。作曲の師である池内友次郎(高濱虚子の次男)の勧めでもあったが、こうした療養所内の文学創作活動は、現在では想像も出来ぬほどに盛んで、外部の俳人や文学者らとの接点も確固たるものがあった。
 例えば彼の療養所と同じ地域にはハンセン病患者の収容施設、国立療養所多磨全生園がある。社会から完全に隔絶されたこの園内ではより本格的に小説が書かれ、「文壇」を形成する作家群の中には『いのちの初夜』で知られる北條民雄(1914~1937)がいた。彼は文通によって若き日の川端康成(1899~1972)に師事し、それが一連の作品が世に出る契機となっている。松村禎三の入所時期は北條の死後10年以上を経ていたが、長期の療養生活を送る環境の中で、文芸の占める地位に変りは無かったろう。「療養俳句」という語さえあった時代である。
 「松村旱夫(ひでりお:これはベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」にちなむ)」の俳号で句作を重ねてゆく中で、秋元不死男(1901~1977)に師事。いち早く頭角を現し、師の主宰する『氷海』のほか『天狼』『環礁』など、当時の俳壇を代表する各誌への投稿で、しばしば巻頭を争うようになる注2。そして北條民雄に於ける川端のような存在である秋元を介して世に問うた一連の作品は、1953(昭和28)年、24歳の折に第1回氷海賞を受賞する。その時期の受賞作や代表的な句。


・オリオン落ちて寒き日本中明ける
・照るも翳るも村の藤棚一斉に


 繰返し手術を受けて生死の境界に足を踏み入れる事もあったこの年の俳句に対し、ともすれば我々は死の影や生への希求を読取ろうと努めるが、多くの場合それは徒労に終わる。松村の凝縮された俳句表現には、極めて僅かな心象が時にほのめかされるに過ぎないからである。
 いかなる作品であっても創作する側は眼に映る対象を、ぎりぎりの言葉に削り込む作業に没頭し、鑑賞する側はその過程とその間の作者に訪れた裡なる風景を、結果として示された言葉から読み取る他にすべは無い。一切の説明的な表現が省かれた個々の作品を解読するためには、鑑賞する側が同レヴェルの感度を要する。これは他の文学ジャンルとは異種の、対象への「凝視」を求められる世界である。作る側と受け手がその凝視の姿勢と対象とを共有する事が、鑑賞に於いて不可欠な条件となっている。松村禎三は外界から閉ざされた長い療養生活の中で、句作を通じてこの透徹した凝視の姿勢と能力を得たのである。
 結核が治癒し、療養所生活から解放されて以前の生活に戻ると、作曲活動を再開注3し、俳句と訣別する。結局彼の句作期間は1953年をピークとする前後5年でしかないが、この長くも短くもある時間に句作を通じて培われた「目」は、その後音楽を創作して行く中でも、彼の芸術を形成する強固な根幹となっていた。


その作曲姿勢~音楽と俳句~
 作曲の世界に復帰した松村禎三には確固たるひとつの視点があった。それは「現代ヨーロッパ音楽」に対する閉塞感についてである。ひとつの文明も人間の一生のように、ピークを迎えやがて衰退する。かの地の音楽について言えば300年も前にそのピークを過ぎ、20世紀半ばの現在は完全に行き詰まっており、実験という名で発表される作品群は、混迷を糊塗しているだけに堕しているという考えである。この打破の道筋の中で「日本」「民族」「汎東洋」を基盤とした作風と理論とを確立していた伊福部昭(1914~2006)との接点が生まれる。伊福部の下にはそのような閉塞感とその打破の気概を共有する、若き作曲家らが集まっていたのである注4。その環境下で弟子たちは研鑽を積み、やがてそれぞれ独自の方法で自らの課題を克服して行ったが、松村禎三が作曲という行為に対し行き着いた姿勢は、他の弟子たちとは終生異なっていたと言える。
 それは対象への凝視・冗長の排除・本質の摘出というべきもので、彼は常に事象を見つめ続けていた。その対象は絵画や写真のように形あるものには無論限らず、無形の思想や理念に於いても同じだ。そうした創作の契機となった対象へのあくなき観察と、結果としての音楽への細心の反映は彼の作品の明確な特徴となっている。説明的なものは一切無い。彼の音楽に対峙する我々が、作曲者と同様に、最小限度に与えられた対象を、作曲者と同じ次元で凝視し、それによって両者を我々ひとりひとりの感性の奥底で関連付ける。そのような音楽の受止め方は、まさに凝縮された言葉から、対峙する者が個々に無限の宇宙を描くほかない俳句の世界と表裏を共にするものだ。
 ここにかつて一度は離れていた句作と、その後の作曲活動との間を結ぶ本質的な融合があった。それはやがては彼自身に再認識され、年齢を重ねるに従い、更に強まっていった。


 俳句は物事を凝視するところから生まれ、音楽は情動の流れに沿うものであり、併存しないように思われたのです。齢を重ね、今の私にはいささかの矛盾もなくなりました。


 これは彼が60歳を前にしての言葉だが、70歳を超えた晩年には「俳句への回帰」とも言うべきこの傾向がはっきり顕れ、「ゲッセマネの夜に」作曲の前後には、特定の俳句をテーマとした作品がいくつも書かれている。


 「ゲッセマネの夜に」も題材が絵画であるという違いこそあれ、根底にある姿勢は同じである。作曲者はジョットの『ユダの接吻』の介在以外の情報を我々に遺してはいない。現れる旋律のひとつひとつが何を表現し、意図しているかも示していない。具体的メッセージを示す固定された動機がある訳でもない。
 どこか虚無的で空疎な旋律から始まる音楽は、切り裂く悲鳴のような高音域の饒舌を経て、やがて暗く重々しい響きと荒々しい旋律の繰返しに変る。向き合う我々は、そこから「裏切り」という言葉に附帯する虚無や苦悩や非難、贖罪やイエスの許しといった、ある種具体的なストーリーやメッセージを汲み取ろうとしがちである。何らかの「意味」を見出せないものを容易に受入れられないからだ。作曲者も当然それを想定している。
 だが真に落ち着くべき最終地点は、作曲者と同様にユダに向けられたイエスのまなざしを凝視し、そこから彼によって紡ぎ出されたひとつの音楽と虚心に向き合い、我々ひとりひとりが音楽から受取れるある種の感情を素直に享受する…困難は伴うものの、真に許されているのはこれだけという気がする。この作品に対峙する誰しもが感じるであろう峻厳さは、対象への凝視によって松村禎三が晩年に行き着いた境地の表象と言うべきだろう。


 この稿を擱筆した今、これまで遠かった俳句の世界に対する想いが去らない。松村禎三の音楽とその創作の元となった対象への凝視とによって、逆に俳句の本質への道すじを我がものにできまいかとの考えにずっととり憑かれている。


注1 この『ユダの接吻』の記述はマタイ・ルカ・マルコ・ヨハネの4福音書のうち、マタイ・マルコの2書にしかない。ルカによる福音書ではユダは接吻するために近づくが、イエスに退けられている。またヨハネによる福音書には接吻そのものの記述が無い。
注2 この時期10代ながら既に秀句を次々投稿していた寺山修二(1935~1983)と知り合い、その後終生交流を続ける事になる。
注3 療養所生活を送る間、彼は作曲活動と全く絶縁していた訳ではない。「弦楽四重奏による交響的断章」「序奏と協奏的アレグロ」などの作品を書いている。
注4 例えば門下のひとりである黛敏郎は、東京音楽学校作曲科卒業後パリ音楽院に留学するも、「もはや学ぶ事なし」と1年で帰国している。


初演:2002年9月8日
石川県立音楽堂コンサートホールにて
岩城宏之指揮 オーケストラ・アンサンブル金沢
トロンボーンを加えた最終稿初演:
2005年6月10日 東京文化会館大ホールにて
小松一彦指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
楽器編成:フルート2(2番はピッコロ持ち替え)、オーボエ、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット、コントラファゴット、ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、ティンパニ、大太鼓、タムタム、シンバル(大・中)、ヴィブラフォン、木琴、マリンバ、テューブラベル、弦五部


参考文献
『新約聖書』新共同訳(日本聖書協会)
『旱夫抄 松村禎三句集』松村禎三著(深夜叢書社)
『松村禎三 作曲家の言葉』アプサラス編(春秋社)
『火花―北条民雄の生涯』高山文彦著(飛鳥新社)
『松村禎三 年譜』アプサラス第2回演奏会プログラム 西耕一編
CD『松村禎三:交響曲第1番、第2番/ゲッセマネの夜に』解説 西耕一著(NAXOS)

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