HOME | E-MAIL | ENGLISH

黛敏郎:ルンバ・ラプソディ

〈アプレゲールの反逆児:フランス近代音楽とジャズの融合〉

土田恭四郎(テューバ)


 黛敏郎(1929~1997)が亡くなって16年。新響では、近年故・小松一彦の指揮で彼の代表作である「涅槃交響曲」や「BUGAKU」を演奏したこともあり、馴染みのある作曲家だが、若い方と話す機会が多くなった昨今、「黛敏郎」の話題に及んでも、案外知っている人が少なく、年月の流れを痛感している。


黛敏郎という人物
 「黛敏郎」というキーワードから思うがまま列挙してみよう。まず企画・監修・司会を自ら行った歴史的長寿テレビ番組「題名のない音楽会」。東京藝術大学講師。「作曲家協議会」「日本著作権協会」会長。東京音楽学校旧奏楽堂の保存運動などの公的活動。憲法記念日でのニュースで登場するナショナリズム溢れる論客。「自由国民会議」代表世話人。「日本を守る国民会議」運営委員長。「三人の会」。そして三島由紀夫との交流。
 生涯の後半はどちらかというと政治的な側面で語られることが多かったが、多方面に活躍していた黛敏郎の本質は作曲家であったといえる。


作品と来歴
 黛敏郎の作品には、一貫してモダンなムードの中に、作曲者独特の逞しく力強い音楽が流れている。「涅槃交響曲」「曼荼羅交響曲」をはじめとする多数の管弦楽作品、歌曲、オペラ「金閣寺」「古事記」、バレエ「BUGAKU」「ザ・カブキ」「M」、そして190本以上にわたる映画音楽、例えば「カルメン故郷に帰る」「赤線地帯」「東京オリンピック」「黒部の太陽」、日本人として初めてハリウッドに招かれた作品「天地創造」もある。また日本テレビのスポーツ番組のテーマ曲として「スポーツ行進曲」は、作曲者や曲名を知らなくても、誰もが耳にしたことがあるに違いない。


 彼はアプレゲール(戦後派)として第二次世界大戦後の日本音楽界に颯爽と登場。パリ国立音楽院に1951(昭和26)年留学して1年で帰国後、〈アヴァンギャルド〉〈モダニスト〉として電子音楽をはじめ最先端の前衛音楽様式へのアプローチを重ね、梵鐘や読経といった日本の伝統的音文化に係わる要素と、音列技法としての前衛という手法を融合した作品を生み出し、日本文化や思想にも深く探求していった。彼の言動は常にマスコミを刺激し続け、シリアスな音楽もポピュラーな音楽も分け隔てなく係わっていった姿勢は、作曲家のあり方のひとつといえよう。
 センセーショナルな出来事として特筆すべきは、團伊玖磨、芥川也寸志と共に、従来の作曲家グループとは大いに性格を異にする「三人の会」を1953(昭和28)年に結成したことである。会は当時のスター作曲家のグループとして日本の作曲界に多大な影響を与えた。


「ルンバ・ラプソディ」の時代
 戦前日本の都市部の盛り場や劇場では、米国風のジャズとかハワイアンが幅を利かせ、日本がアジアへ進出していくとアジアの民族音楽が国内に流入してきた。米国との開戦により米国音楽は禁止されたが、アジアや中南米の音楽はそうでもなく、黛敏郎は多感な十代の少年期、異国趣味の中で東洋や中南米の音楽に影響を受けていた。
 終戦の年1945(昭和20)年春に東京音楽学校作曲科に入学した時、芥川也寸志は2年上級、そのさらに1年上には團伊玖磨がいた。音楽学校では、当時生粋のモダニストであった橋本國彦に師事、ストラヴィンスキーをはじめとする先鋭的な様式から戦意高揚音楽に代表される大衆的音楽の世界に触れていく。終戦後に橋本國彦が辞職した後、新任の池内友次郎と伊福部昭に師事、池内友次郎からパリ音楽院流の作曲法(和声学、対位法)、伊福部昭から管弦楽法を学び、結果としてラヴェルを理想とするフランス・アカデミズム風音楽、民族的でダイナミック、オスティナートを多用したオーケストレーションが彼の音楽的関心として作品に深く刻まれている。


 敗戦でジャズの演奏禁止が解けたこの時代、黛敏郎はアルバイトでジャズ・ピアノを弾き始める。約2年間進駐軍クラブ等で演奏し、「ブルーコーツオーケストラ」の前身であるジャズバンドにも在籍、実地でジャズを学び大いに惹かれていく。ジャズは彼の異国趣味をますます駆り立て、アプレゲールの新時代を謳歌していった。


 学生時代のエピソードのひとつが、『芥川也寸志その芸術と行動』(東京新聞出版局)の黛敏郎著『「三人の会」は不滅である』の中で紹介されている。本科2年生(17才)の時に書いた「ヴァイオリン・ソナタ」を、学内の大スターで1級上の江藤俊哉、園田高弘両氏が学内演奏会で取り上げてくれることになったが、上級生より、2年生の分際でこのような前例もなく、要するに生意気だとクレームがあった。その時に敢然と支持し、前例があろうとなかろうと演奏に値する作品をやるのは当然だと頑張り、実現にこぎつけてくれたのが、最上級生であった芥川也寸志であった。芥川也寸志の、過去の因習にとらわれず良いと思ったことは進んでやっていく実行力もさることながら、東京音楽学校はじまって以来の天才と注目された黛敏郎の実力が垣間見える。


ストラヴィンスキーとの交わり
 ストラヴィンスキーは、黛敏郎が愛した作曲家のひとりであり、ストラヴィンスキーが1958(昭和33)年4月に来日してNHK交響楽団を振る、というニュースに、黛敏郎はすぐにNHK交響楽団のエキストラを志願、「鶯の歌」「ペトルーシュカ」「花火」でチェレスタにて出演、ストラヴィンスキーが最初にNHK交響楽団の練習場に現れた時の感激的一瞬を「『音楽之友』1959年7月号」にて回想している。


「ルンバ・ラプソディ」という作品
 新響は、2012年10月にガーシュウィンがルンバのリズムをオーケストラに取り入れた「キューバ序曲」を演奏した。「ルンバ・ラプソディ」は、明瞭で陽気な「キューバ序曲」とは趣を異にしており、粗削りだがスタイリッシュさと独特なモダニズムを感じる(本稿執筆に際して、あらためて「ルンバ」をwebで検索すると、最近人気の自走式掃除機が最初にずらりと出てくるのが気になっている)。


 1948(昭和23)年4月9日に完成、師の伊福部昭に楽譜を渡して初演の斡旋を依頼した。伊福部はいろいろと動いたが、色良い返事が得られず、そのうち黛自身がこの曲の材料を「シンフォニック・ムード」の第2部で活用、という経緯もあり、結果的に「ルンバ・ラプソディ」はお蔵入りという状況となり、そのまま伊福部のところに預けられていた。伊福部昭は楽譜の返却を何度も黛敏郎に申し出たそうだが、黛敏郎としては師匠の手元に残してもらいたいという希望から結局受け取らず、そのまま作曲者が逝ってしまった。最近まで発行されてきた黛敏郎に関する本や資料のディスコグラフィーにもこの曲の掲載がなかったほどで、幻の曲であった。


 半音ずつ下がって始まる基本動機が現れ、派生する特徴的な動機群は「シンフォニック・ムード」とも共有しており、「シンフォニック・ムード」は、ラテン音楽と東洋的でガムラン音楽のような色彩が特徴的だが、「ルンバ・ラプソディ」は、それ以上に原色的で、ストラヴィンスキーの、特に「ペトルーシュカ」をモデルとしていることが伺える。
 序奏(Adagio)は霧の中から徐々にルンバのリズムが聴こえてくる、という、まるでラヴェルの「ラ・ヴァルス」のような展開が印象的。序奏の後、ルンバのリズムで軽快且つお洒落に音楽が進み(Doppio movimento→Poco mosso)、突然、弦楽器とピアノ、続いて金管楽器の荒々しく力強いファンファーレ風の動機が出現(Piu agitato)、ビッグバンドのホーンセクションが生み出す力強さ(音圧)への憧憬を思わせる。その後、一瞬まるで「春の祭典」のような音が聞こえてきて、中間部(Tempo di Fox trott Medium)でスタイリッシュなダンス音楽が登場する(ワルツの様式であるFox trottは、キツネとは全然関係ない)。その後に、ピッコロとクラリネットによるカデンツァ風音楽を経て(Tempo Rubato)、ルンバに戻り(Tempo di Rumba)、次第に高揚して(Piu mosso)、まるで「火の鳥」の「魔王カッチャイの踊り」のような半音上昇進行形を経て8ビートで叩きつけるような爆発的な頂点を迎え、最後(Sostenuto)は静かに、そしておしゃれに終結していく。唐突な場面転換などに早熟さが感じられるが、19歳の学生が作曲した作品であることを思えば、若さに満ち溢れた爽やかなドライブ感が面白い。近代フランス的な新古典主義風のスタイル、洒脱なテクスチュアにジャズのイディオムを柔軟に取りこんで、「戦後」という時代に〈アプレゲールの反逆児〉として颯爽と登場した新鮮な息吹が感じられる。


「ルンバ・ラプソディ」演奏に際して
 時間芸術といわれる音楽は譜面のことではない。音楽を演奏するということは、確立された約束事(記譜法)に従って記載された譜面を元に、一瞬で消え去る音を奏者の技術と感性を頼りに生み出される瞬間の創作を集積したものである。作曲者が創造した音楽を知るには、作曲者が残した譜面を絆としてその想いをくみ取ることが重要であり、特に演奏に接する機会は貴重な体験となる。
 「ルンバ・ラプソディ」を初演された湯浅卓雄先生の指導により、黛敏郎の黎明期の輝きを体験できることは、新響にとって望外の喜びといえよう。


 この度の演奏に際しては、西耕一氏、東京藝術大学演奏藝術センターにお世話になった。あらためて感謝の意を表したい。


世界初演:CD録音『日本作曲家選輯 黛敏郎』
2004年8月25日~27日マイケル・フォーラー・センター(ニュージーランド・ウェリントン市)にて
湯浅卓雄指揮 ニュージーランド交響楽団


日本初演:2009年6月20日 東京藝術大学奏楽堂
湯浅卓雄指揮
東京藝術大学音楽学部学生オーケストラ


楽器編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、シンバル、小太鼓(Tamburo)、小太鼓(Petite caisse)、タムタム、マラカス、拍子木、グロッケンシュピール、ピアノ、弦五部


参考文献
『芥川也寸志 その芸術と行動』出版刊行委員会編(東京新聞出版局)
『黛敏郎の世界』西耕一、市川文武共編 京都仏教音楽祭2010実行委員会企画(株式会社ヤマト文庫)

このぺージのトップへ