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R.シュトラウス:ドン・ファン

八重樫妙子(チェロ)

 本日は新交響楽団の演奏会に足をお運びくださり、ありがとうございます。これから曲目解説を始めます。クラシック音楽に詳しい方にとってはもう知っている事かもしれません。では、はじめましょう。


■リヒャルト・シュトラウスはこんなひと
その1 幼年時代から青年時代

 リヒャルト・シュトラウスは1864年6月11日にミュンヘンで生まれました。父はミュンヘン宮廷歌劇場管弦楽団首席ホルン奏者にして王立音楽院の教授であったフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス、母はミュンヘンの有名なビール醸造業者プショル家の娘ヨゼフィーネ。リヒャルトは、生活に何の不自由のない豊かな家庭に生まれたのでした。子供時代の彼は、活発で利発、持ち前の集中力で勉強したことはすぐに覚えてしまい、また、それが楽しいのでますます勉強に励む、といった素晴らしく優秀な生徒だったそうです。それは音楽の学習にも言える事でした。リヒャルトは父の仕事の同僚たちからあらゆる音楽の教育を受けました。父はベートーヴェンやモーツァルトといった古典音楽の信奉者で、当時世間で大人気であったリストやワーグナーの音楽を徹底的に嫌っていました。その影響で、幼いリヒャルトもワーグナーに対して嫌悪感を抱いておりました。
 こうして、ギムナジウムを卒業し大学に入学するころには、作品番号のついていない作品を数多く作曲しており、リヒャルトの音楽の才能、知識は誰から見ても音楽学校に行く必要がないくらいに優秀なものでありました。そこで、彼はミュンヘン大学の哲学科を進学先に選んだのでした。

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1886年頃のR.シュトラウス


その2 交響詩の時代
 1882年秋、ミュンヘン大学に進学したリヒャルトですが、結局卒業できませんでした。音楽家としての仕事が忙しくなってしまったようです。ここで、リヒャルトはハンス・フォン・ビューローに出会います。ビューローはマイニンゲン宮廷管弦楽団の指揮者で、リヒャルトの作品を高く評価していました。自分の楽団の演奏旅行の演目にまだ19歳のリヒャルトの作品「管楽セレナード」を加えていたぐらいです。ビューローは、指揮棒をあまり握ったことのないリヒャルトをマイニンゲン宮廷管弦楽団の副指揮者に推薦したのでした。ビューローの様々な取り計らいにより、1885年21歳のとき、リヒャルトはマイニンゲン宮廷管弦楽団の副指揮者の地位に着きます。
 ビューローの下で指揮者修行を進めたリヒャルトですが、ここで、マイニンゲン宮廷管弦楽団の第1ヴァイオリン奏者アレクサンダー・リッターと出会います。リッターの粘り強い解説によって、リヒャルトのワーグナーやリストに対する偏見はなくなりました。
 リヒャルトは交響詩の作曲を始めました。その後、ミュンヘン、ワイマール、ベルリン等さまざまな土地の管弦楽団の指揮者を務めながら、「ドン・ファン」「ツァラトゥストラはかく語りき」「家庭交響曲」等の10作品を書き上げていきます(「ツァラトゥストラはかく語りき」は次回新響で取り上げます。乞うご期待)。ところで、リヒャルトの作品は物語や神話から題材をとっているものが多く、お話に付随したおまけみたいな音楽なのでは、なんて思われそうですね。これに対してリヒャルトは次のように語っています。

 物語から着想を得ているけれども、そこから自己の内で論理的な展開をしていかなかったらただの文学の伴奏音楽になってしまいます。


その3 愛しのパウリーネ
 1887年、リヒャルトは友人から「弟子をひとり引き受けてくれないか」と頼まれます。その弟子とは、才能あふれる女性歌手パウリーネ・デ・アーナ。リヒャルトは彼女をオペラの歌手として起用できるまでに育て上げ、最初のオペラ「グントラム」に彼女を起用します。この作品は歌手にとって歌うのが大変な曲だそうですが、パウリーネは文句のつけようがないほど見事に歌いました。そのため、リヒャルトはリハーサルの時に上手なパウリーネを放っておいて、他の歌手に多く注意を与えていたそうです。放っておかれたパウリーネは「なぜ私に注意してくださらないの?」と言ってリヒャルトに譜面を投げつけたとか。二人はこの年の9月に結婚することになります。リヒャルトは30歳、パウリーネは33歳、姉さん女房ですね。リヒャルトはパウリーネのことをとても愛し、「四つの歌曲」等彼女のために多くの歌曲を作っています。

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左からリヒャルト、妻パウリーネ、息子フランツ

その4 オペラの時代
 交響詩や歌曲等を作曲していたリヒャルトは、友人のアレクサンダー・リッターに薦められ、当時社会の中で騒がれていた事件を元にしたオペラの作曲に取りかかります。そして出来上がったのが先述の「グントラム」でした。しかし、この作品は、たいした評判にもならず、結果は失敗に終わりました。この失敗でリヒャルトはオペラに対する創作意欲を失っていましたが、ついで作曲した「火の試練」が少々の成功を収め、気を良くしたリヒャルトは「サロメ」を発表します。この作品は大成功し、また、多くの批判も受けました。聖書を題材にしている物語であるにもかかわらず、あまりにも露骨なエロティシズムに満ちていたからです。しかし、リヒャルトは臆することなくオペラの製作に突き進んでいきます。ここで、リヒャルトはフーゴー・フォン・ホフマンスタールという詩人に出会います。ホフマンスタールの戯曲「エレクトラ」を見たリヒャルトは、この作品をオペラに仕立てようと考えたのでした。「サロメ」の成功の後、リヒャルトはホフマンスタールとの交流を開始します。二人の間では頻繁に手紙が交わされており、現在本となって出版されています。二人の作り出したオペラは「エレクトラ」「ばらの騎士」「ナクソス島のアリアドネ」「影のない女」「エジプトのヘレナ」「アラベラ」の6作品です。すべての作品は大成功を収めました。しかし、二人の間の友情、協力は1929年にホフマンスタールの突然の死によって終わりを告げたのでした。ただ、この後もリヒャルトはオペラを作り続け、最後の作品は「カプリッチョ」となりました。


その5 ナチス・ドイツ政権下
 1933年にアドルフ・ヒトラー率いるナチスがドイツの政権を握ると、世界的作曲家にして指揮者のリヒャルトはドイツの国威を世界に示す道具として利用されることとなります。この年、彼は帝国音楽局総裁の地位につきました。しかし、1935年にはこの地位を下りることになります。オペラ「無口な女」の台本がオーストリア在住のユダヤ人シュテファン・ツヴァイクによるものであったからです。このことについて、リヒャルトは次のように述べています。

 私にとっては二種類の人間しか存在しません。才能のある人とない人です。

 ユダヤ人迫害はドイツにとって不名誉な恥であり、頭の悪い証拠である。才能のない怠惰で凡庸な人間がより高い精神性、より大きな才能の持ち主と戦うために思いついた最低の手段である。

その6 最期
 1949年9月8日にリヒャルトは85歳の生涯を閉じました。遺言により葬儀では「ばらの騎士」の終幕の三重唱が歌われました。人生の後半において戦争に巻き込まれて大変なこともありましたが、豊かな家庭に生まれ、才能に恵まれ、常に挑戦的で革新的であり、あらゆる名誉を手にした天才作曲家でした。


■作品20「ドン・ファン」について
 「ドン・ファン」はリヒャルトが25歳のときに初演された作品です。本当はこの曲の前に「マクベス」を完成させていたのですが、ビューローに手直しすることを忠告されました。そのためこの作品が最初の交響詩となったのです。
 ドン・ファンというお話は、もともとスペインの伝説であったものをスペインの聖職者が宗教劇として仕立てたのがはじまりです。その後はさまざまな戯曲、オペラ、詩などの題材に使われています。特に有名なのは、モリエールの戯曲、バイロンの詩、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」あたりでしょうか。最近ですと1995年の映画「ドン・ファン」(フランシス・F・コッポラ製作、ジョニー・デップ主演)です。あらすじは次のとおり。


 ドン・ファンという女好きな貴族がいました。彼は「おお、素敵な女性だ」と思ったら、即座に「結婚しよう」と口説き落としてしまいます。身分の違う人だろうと、聖職者の尼さんであろうと、お構いなしです。しかも満足したらすぐ飽きて次の女に手を出すものですから、泣いた女、恨んでいる男は数知れず。全く、神をも畏れぬ所業です。父親が怒って「このままなら親子の縁を切るぞ」と言っても聞く耳を持ちません。ある日、過去に自分が殺した男の石像に向かって話しかけたところ、なんと、その石像が動いたのです。実は、この石像は死神だったのでした。ドン・ファンは、その石像を晩餐会に招きます。石像は招待されたとおりに晩餐会に現れ、ドン・ファンを地獄へ連れて行ってしまいましたとさ。


 もともと世の人々に教訓をもたらすための宗教劇だったのですが、後世は宗教訓話から離れて、理想の女性を追い求める男のロマンへと変わってきたようです。リヒャルトがこの曲を作るにあたって基にしたニコラウス・レーナウの詩はまさに、理想の女性を求める熱き男の血潮を歌ったものでした。リヒャルトはこの詩を曲の冒頭に掲げています。

 出でよ、そして絶えず新たな勝利を求めよ
 青春の燃える鼓動が躍動する限り!


 おそらく、リヒャルトは「理想の女性」を求め続けるドン・ファンの姿に、理想の芸術を求め続ける自分の姿を投影したのではないでしょうか。とにかく、自分をネタに作曲することが多い人でした(交響詩「家庭交響曲」や歌劇「インテルメッツォ」が極端な例)。


 この曲、演奏するのが「超」大変です。分散和音、半音階、跳躍音程、転調、と演奏者にとって嫌なものの連続で、息つく暇がありません。練習中はリヒャルトが憎らしくなります。にもかかわらず、アマチュア・オーケストラは結構この曲をとりあげています。やっぱり、かっこいいですもんね。今回、聞きに来てくださっているお客様の中にも演奏した人が多数いらっしゃるのではないでしょうか。リヒャルト・シュトラウスはまさに「アマチュア・オーケストラの熱き血潮をたぎらす」作曲家ですね。新響も熱き血潮で演奏しますのでご期待ください。最後までお読みくださってありがとうございました。では、舞台でお会いしましょう!


初  演:1889年ワイマールにて、作曲者自身の指揮による


楽器編成:フルート3(3番はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、ハープ、弦五部


参考文献
DVD『ドン・ファン』
(制作:フランシス・フォード・コッポラ1995年アメリカ映画)
(Shochiku Home Video)
『ドン・ジュアン』モリエール(鈴木力衛訳)(岩波書店)
『R.シュトラウス(作曲家別名曲解説ライブラリー9)』(音楽之友社)
『大作曲家R,シュトラウス』ヴァルター・デビッシュ(村井翔訳)(音楽之友社)
『リヒャルト・シュトラウスの「実像」―書簡、証言でつづる作曲家の素顔』
日本リヒャルト・シュトラウス協会編(音楽之友社)

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