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イベール:祝典序曲<伝統的洗練と古典性>

土田恭四郎(テューバ)

 淡い雲海の中を抜けると、まるで3Dのように突然雄大な大地が目の前に広がり、そして歓喜に沸く大勢の人々が上空を穏やかに飛ぶ飛行機に搭乗している私たちに手を振って迎えてくれる。まるで映画のごとき情景が飛び込んでくるような、それでいて厳粛な雰囲気に満ちた曲は、ジャック・イベール(1890-1962)にとって意味のある作品と言えよう。


■イベールという人物
 鋭く豊かな才気に満ち、緻密なデッサンと生命感にあふれる現代的な感覚で詩情と機知に富んだ作品を創作したイベールは、フランス近代楽派の重鎮としてラヴェル亡き後のフランス楽壇にて重要な役割を果たしている。フランスを代表する要職や仕事を要請されながら、燦々と降り注ぐような洗練と個性は時に炸裂し、数多くの作品を幅広い分野に書き残している。


 パリで生まれ、コンセルヴァトワール(国立音楽院)に入学。1919年に「ローマ大賞」を受賞して翌年から3年間ローマに留学、その時に書いた曲が、新響の第202回演奏会で取り上げた代表作の交響組曲「寄港地」であり、その作品は彼の名を一躍全ヨーロッパに広めていった。1925年、管弦楽法についての総合的な教本を書くという重要な仕事を任せられているが、それはローマ留学によって身に付けた技法の確かさの証明であり、1937年から、かつての留学先として滞在したローマのフランス・アカデミーであるヴィラ・メディチ(Vila Medici)の館長という要職に就いている。その時にフランス政府より、1940年に紀元2600年を迎える日本のために祝典序曲の作曲を依頼されたのである。


■紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会
 1940年(昭和15年)、当時の大日本帝国は、幕末以降皇紀として数えられていた紀元2600年として国民意識高揚を狙い、音楽界でも様々な参画があったが、中でも政府と音楽界を挙げての奉祝行事として奉祝楽曲発表演奏会が1939年より企画された。盟邦諸国に奉祝楽曲の献納を依頼、ドイツのR.シュトラウス、イタリアのピツェッティ、ハンガリーのヴェレッシュ、イギリスのブリテン、フランスのイベールによる作品が送られた。演奏会に際して企画・楽譜出版・連絡のため委員会が組織され、さらに当時の主たる演奏団体が合同し、大編成による管弦楽団が
結成されて、結局はブリテンを除く4曲が1940年12月に延べで6回の演奏会(東京と大阪)にて披露されたのである。


■「祝典序曲」解説
 自信に満ちた稀にみる精巧なオーケストレーションは、活気と色彩があり、交差しながら追いかけていくような楽器間のバランスによって更に際立っている。具体的には、フランスの伝統的洗練と古典性をもって声部間の交差を多用し緊密さを獲得して、楽器群同士の重複を避けながら、響きの明るさを生み出す澄んだ音を選びとっている。


 アレグロ・モデラート、4分の4拍子にて短い序奏から祭典の期待が高まり、喜びが高らかに告げられる。続いて8分の6拍子にて低弦から歓喜に満ち溌溂とした第1主題が提示され、次第にフーガのように高まりをみせていく。


 クラリネットにより何かを暗示させる旋律を経て、4分の3拍子にて、まるで大都会の夜景の如く、煌びやかな全管楽器によるコラールが、第2主題としてハープとトランペットの主導によりfffでジャズ風に鳴り響き、弦楽器も加えて頂点を極めていく。そして静まっていくと、トロンボーンとテューバによる荘厳な雰囲気が準備されて、バスク
ラリネットとアルトサクソフォーンが4分の4拍子にて奏する厳かで且つ抒情的なテーマが第3主題として登場する。


 宗教的な聖なる高まりを感じさせるがごとく、まるで天から燦々と降り注ぐ眩い光の中を上昇していくように、楽器を替えてその霊的な興奮を高めていき、8分の6拍子にて第1主題の動機とリズムが更に加えられ、fffにて第1主題と第3主題が一緒になって登場、更に4の3拍子で第2主題も現れて各主題が交錯、8分の6拍子から歓喜の情が一つにまとまって高らかに第3主題が歌いあげられ、炸裂した祝福と共に賛歌が響き渡っていく。


 とにかく大成功を収めた日本の初演時における評価として、音楽評論の草分けとして著名な太田黒元雄の「祝典序曲」に対する批評は注目に値する。


荘重な「祝典序曲」奏祝演奏会
 歌舞伎座における紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会の曲目を飾った四つの曲のなかではフランスのイベールの「祝典序曲」が最も引き締まった印象を与えた。殊に旋律的な穏やかな部分には荘重な美しさがある。以下略。


■「祝典序曲」の真意
 「祝典序曲」が、当時の日本の国策として紀元2600年を祝う演奏会のために、フランス楽壇を代表して作曲・演奏されたことは歴史的事実ではあるが、作品自体は日本的なものとは無縁であることは紛れもない。


 この作品が創作された時代は、ドイツを中心として国際緊張が高まり、作曲された前年1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻、第2次世界大戦に突入した政情不安のときである。
 1940年6月にドイツ軍がパリへ入城し、フランスが対独降伏をした時代、イベールはフランスに帰国する際に自筆譜が紛失、再度楽譜を書きなおして手を加えている。ドイツ軍のパリ占領に伴いフランス初演はすぐには実現せず、1942年1月18日にパリ音楽院管弦楽団/シャルル・ミュンシュ指揮にて行われた(このコンサートは大成功を収め、当時南仏アンティーブに避難していたイベールに精神上の慰めを与えた)。
 1944年8月20日にパリが解放され、8月26日にシャルル・ドゴールがシャンゼリゼを行進、ドイツ軍残党による銃声の中、ノートルダム教会でミサを挙げて全世界にパリが解放されたことを告げた。解放後のパリ音楽院演奏協会のコンサートは、シャルル・ミュンシュ指揮のもと、同年10月22日にこの「祝典序曲」と、オネゲルの「解放の歌」(初演)が演奏されている。


 因みに同時代の日本で「交響譚詩」を1943年春に脱稿した伊福部昭は、アレキサンドル・ニコライエヴィチ・チェレプニンによる日本人を対象とした作曲賞「チェレプニン賞」を1935年に受賞したが、「チェレプニン賞」の審査員としてイベールは係わっていた。伊福部の作品に紛れもない民族の生活に根差した日本の国民音楽を見出したチェレプニンは1936年に横浜にて作曲法や管弦楽法を伊福部昭に対して示唆に富んだ個人授業をしている。


 イベールの「祝典序曲」は、伊福部作品に共通する国民音楽と同様なもの、言い換えれば創作活動の根本理念として国民音楽的な精神が内在しており、それは「紀元二千六百年奉祝」という日本の国策とは全く関係なく、当時の国際情勢の中でのフランスの解放を示唆しているのではないだろうか。


初  演:1940年12月7日 山田耕筰指揮 
紀元二千六百年奉祝交響楽団
楽器編成:フルート3(3番ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ、クラリネット2、バスクラリネット、アルトサクソフォーン、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット4、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、タムタム(低音)、グロッケンシュピール、ハープ2、弦五部


参考文献
『受容史ではない 近現代日本の音楽史
一九〇〇~一九六〇年代へ』
(現代日本の作曲家, 別冊3)小宮多美江著(音楽の世界社)

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