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ムソルグスキー/ラヴェル:組曲「展覧会の絵」

志村 努(トロンボーン)

●少年時代から展覧会の絵作曲まで
 モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーは1839年にロシア、プスコフ県トロペツ郡カレヴォというロシア最西部の小村に生まれた。西へ100kmほどで現在のベラルーシとの国境である。ムソルグスキー家は由緒ある貴族の家系であり、小村と言ってもその領地は広大であった。母親も音楽に優れた人だったが、ピアノと音楽に対する息子の非凡な才能にいち早く気づき、7歳から音楽の専門家の家庭教師をつけた。当時のロシア貴族は、幼少時は家庭で教育されるのが常であり、音楽以外の学科もこの家庭教師が教えた。
 カレヴォ時代は自家の農奴や近くのトロペツの町の人々とも接し、ロシアの民話、歌、故郷の歴史等に親しんだ。後の民族的、民衆的音楽への志向は、この時代の環境が少なからず影響していると思われる。
 10歳になると、これまた当時のロシア貴族の子弟の常として、ペテルブルクの寄宿学校に入り、13歳で近衛士官養成学校に入学したが、並行して当時人気の音楽教師ゲルケからピアノと音楽の教育も受けた。この時期はピアニストとして成長著しく、学内やサロンでしばしば演奏していたようである。士官学校での成績も一貫して優秀で、17歳で当時の花形部隊に配属された。
 軍勤務の中でも音楽活動は継続していた。その中で1857年にバラキレフと出会う。バラキレフはムソルグスキーの音楽の師であると同時に、経験不足を理由にしり込みする弟子たちに、積極的に作曲活動を進めるよう扇動する役も担っていた。
 バラキレフの周りには、彼の強烈な指導力の下、音楽家を中心としたサークルが形成されていた。メンバーには音楽家だけでなく、音楽以外の芸術家、学者なども含まれていた。その中に以後ムソルグスキーと深く関わりを持つ人物がいた。考古学者、芸術史家、芸術評論家のスターソフである。彼は生涯にわたって多方面からムソルグスキーの音楽活動を支えた。このサークルの作曲家たちを「力強い一団(仲間)」と呼んだのもスターソフである。ロシア国内では5人組というより、こちらの呼称の方が一般的であるらしい。
「力強い一団」は1860年代の10年で大きく成長し、様々な紆余曲折はあったもののロシア音楽界での評価を高めていった。しかし個々の作曲家が力をつけ自立していった結果、バラキレフの指導力は低下し、サークルは徐々に解体し、ムソルグスキーはメンバーとも疎遠になっていった。
 わずかな例外の一人がスターソフで、ムソルグスキーは頻々と彼の家を訪ねていた。スターソフ家では多くの人々と知り合ったが、その中の一人にハルトマン(ロシア語の発音ではガルトマン)という建築家がいた。ハルトマンは1834年ペテルブルクの生まれで、画家でもある。二人はたちまち親しくなり、そこから親交が始まった。しかし出会って3年後の1873年、ハルトマンは動脈瘤の破裂により急死してしまう。
 翌年1874年の2月から3月にかけて、スターソフらにより、故ハルトマンの遺作展が開かれた。会場はハルトマンの母校であるペテルブルク美術アカデミーである。遺作展では水彩画、建築デザイン、舞台装置や衣装のデッサン等の他、工芸品なども展示された。その中には、お伽噺のバーバ・ヤガーの家の形の暖炉時計もあり、作品総数は400点にのぼった。
 この遺作展を見たムソルグスキーは、これらの作品にちなんだピアノ組曲を書くことを思いついた。
ある種興奮状態にあった彼は、1874年6月にこの曲をわずか3週間で完成させた。筆の遅いムソルグスキーには異例の速さである。

●リムスキー=コルサコフによる改訂と出版
 このピアノ組曲は彼の生前には演奏されることなく埋もれていた。長年のアルコール摂取過多が原因で1880年に42歳の若さでムソルグスキーが亡くなると、使命感に駆られたリムスキー=コルサコフが、未出版あるいは未完の楽譜の整理と校訂を行った。作業は2年間にわたり、その間、自分の作曲活動を縮小してまで精力的に行った。展覧会の絵も、改訂を経て1886年に出版された(通称リムスキー=コルサコフ版、以下RK版と略す)。
 バラキレフのサークルでも年少で、年齢が近いことからこの二人は特に仲が良く、1872年から約1年間は、リムスキー=コルサコフの結婚まで、同居生活を送っていた。夜ごと音楽議論を戦わせていたようで、その点からも彼は自分がムソルグスキーの音楽の最大の理解者であると自負していたのではないだろうか。
 この改訂作業は、今となっては作品本来の力強さや独創性を損なうものとして批判的に捉えられる傾向がある。だがリムスキー=コルサコフの目には作品の多くは未完成であると写り、これらを完成させる使命を自らに感じたのであり、また、この作業により多くの曲が出版され、世の知るところとなったゆえに、自筆譜までさかのぼって調べようという音楽家が現れたわけで、その意味で彼の貢献は多大であると言える。

●ラヴェルによるオーケストラ編曲版
 ピアノ曲としての展覧会の絵は、楽譜出版後もほとんど演奏されることはなかった。この曲が一気に有名になるのは1922年にラヴェルによるオーケストラ編曲版が初演されてからである。ラヴェルに編曲を依頼したのは指揮者のクーセヴィツキーで、このオーケストラ編曲版の成功により逆にピアノの原曲が注目されるようになった。ただし使用された楽譜は、まずはRK版で、ムソルグスキーの自筆譜に基づくいわゆる原典版が演奏され始めるのはさらに後の事である。
 ラヴェルがベースにしたのもRK版であり、その時点で原典版から和音、ダイナミクス等の若干の変更がある。有名な違いは、第4曲ビドロの冒頭で、原典版ではffで始まるのに対し、RK版ではppとなっている点と、もうひとつ、第6曲サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレの最後が、原典版ではC-D♭-B♭-B♭であるのに対し、RK版ではC-D♭-C-B♭となっている点である。ラヴェル版もこの2点はRK版と同じである。加えてラヴェルは第6曲の後のプロムナードを割愛している。

●曲とハルトマンの絵の関係
 展覧会の絵という曲は、ハルトマンの絵をそのまま音で描写した、というものではない。事実、曲から感じられる壮大さ、強烈さからすると、対応すると言われている実在の絵のサイズは驚くほど小さい。小さいものはハガキ大、大きくてもA2サイズ程度である。
 絵を見る限り「展覧会の絵」の各曲がそれらを直接に音で表現したものとはとても思えない。象徴的なのは第6曲で、2人のユダヤ人の絵は、実は別々の2枚の小さな絵なのである。どちらが金持ちとも貧乏人ともわからないし、会話をしているわけでもない。ムソルグスキーはこの2人に性格をつけ、会話する絵を頭の中に作り上げ、それを曲にしたのである。
 要するに、この曲は「音によるハルトマン回顧展」なのである。もちろん、実際の回顧展の出品作品からインスピレーションを受けたことは間違いないが、直接知るハルトマンの人となり、思想などからムソルグスキーが作り上げた架空のハルトマンの絵を、音で表現したものなのではないだろうか。

●曲の構成
Promenade プロムナード
 まずは有名なトランペットソロで始まるプロムナードである。回顧展に足を踏み入れたムソルグスキーの、作品たちへの期待、故人を偲ぶ気持ち、などがないまぜになった心持ち、というところか。

I.Gnomus グノムス


 地の底に住むという、伝説の小人の妖怪である。悪賢くていたずら好きだが、ロシアの人々には愛されているという。速く細かい動き、静止、ゆっくりした動き、の繰り返しが、小さい妖怪の動作なのか。

Promenade プロムナード
 一つ見て、次の絵に進むムソルグスキーの心持は、やや穏やかになったようである。

II. Vecchio Castello 古城
 題名はイタリア語だが、一貫してロシア的な雰囲気のこの曲からすると、ムソルグスキーの思い描いたのはロシアの城かもしれない。薄暗い感じなのは天気が悪いせいか、夕暮れなのか。

Promenade プロムナード
 暗い絵の後だが、なぜか元気が出てきた。振る手もちょっと大きい感じだ。

III.Tuileries チュイルリー
 チュイルリーはルーブル美術館に隣接する公園。現存する。ピアノ版には遊びの後の子供たちの喧嘩という注釈がある。公園の絵は無いが、喧嘩する子供たちのデッサンはいくつかある。

IV.Bydlo ビドロ
 ビドロとは牛の曳く荷車のことである。この曲の解釈は最も議論が多い。圧政に苦しむポーランドの人々を牛車に喩たとえた、という説もある。苦役にあえぐロシアの農奴かもしれない。ppで始まるラヴェル版、RK版だと目の前を通り過ぎる牛車の傍観者の視点、ffで始まる原典版は重い荷を引く当事者の視点、という解釈が一般的になっているようだ。

Promenade プロムナード
 ちょっと心が冷えてしまったようだ。歩く速度も心なしか遅い。

V.Ballet des poussins dans leurs coques 殻をつけたひよこの踊り


 ちょこまか動く、まだ殻をつけたままのひよこたち。絵はジュリアス・ゲルバーのバレエ「トリルビー」のための衣装デッサン。

VI.Samuel Goldenberg und Schmuyle サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ

 金持ちと貧乏人という設定はスターソフが生前のムソルグスキーから聞いていたようで、出版譜の解説に書かれている。高圧的な金持ちと、卑屈でなにやら言い訳している貧乏人。

(Promenade)
 ピアノ版にはあるこのプロムナードはラヴェル版では割愛されている。

VII.Limoges - Le marchè リモージュ:市場
 リモージュはフランス中部やや西よりの陶器で有名な都市。数年前に筆者は訪れたことがある。早速市場に行ったが、今は屋根がついて薄暗い感じで、屋台や小さな店が並んでいた。曲の感じからして当時は青空市場だったに違いない。自筆譜には女が取っ組み合いをしている、と書かれた文字が線で消されているという。

VIII.Catacombae - Sepulchrum Romanum, Cum mortuis in lingua mortua
カタコンベ:ローマの墓地、死者たちと共に死せる言葉で

 骸骨が壁一面に積み上げられた地下墓地である。この曲は2つに分かれている。前半は金管主体でカタコンベの雰囲気を表し、途中からヴァイオリンの高音のひそやかなトレモロが始まる。ここからが「使者たちと共に死せる言葉で」に相当する。闇になれた目に映る骸骨が燐光を放っている。

IX.La cabane sur des pattes de poule(Baba Yaga)
鶏の足の上に建つ小屋(バーバ・ヤガー)


 森にすむ骨と皮だけにやせこけた老婆の妖怪、バーバ・ヤガーの住む小屋である。臼に乗って移動し、その跡をほうきで消すという。曲の感じでは、かなり激しく動き回っているように思える。中間部では神秘的な森の様子も描かれている。

X.La grande porte de Kiev キエフの大きな門
 キエフはモスクワ遷都以前のロシアの中心であり、その時代の栄光を象徴する壮麗な凱旋門があったが、老朽化していた。この門を再建するための建築コンペがあり、ハルトマンもこれに応募した。結局門は再建されなかったが、ムソルグスキーはそのハルトマン設計の門をこの曲で音として構築し、曲の最後に据えることにより、ハルトマンの業績と人物を讃えた。途中挿入されるロシア聖歌は故人を悼むためとも考えられる。ハルトマンと共にロシアの栄光も讃えるような、壮大なフィナーレは、大伽藍が目の前に現れたかのようである。



ピアノ版初演:不明
ラヴェル編曲版初演:1922年10月19日、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮、パリオペラ座にて
楽器編成:フルート3(うちピッコロ持替)、オーボエ3(うちコールアングレ持替)クラリネット2、バスクラリネット、アルトサックス、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、グロッケンシュピール、鐘、木琴、トライアングル、ガラガラ、ムチ、小太鼓、大太鼓、シンバル、タムタム、ハープ2、チェレスタ、弦五部
参考文献
『ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ―嵐の時代をのりこえた「力強い仲間」(作曲家の物語シリーズ)』ひのまどか(リブリオ出版)
『追跡ムソルグスキー「展覧会の絵」』團伊玖磨、NHK取材班(NHK出版)
『ムソルグスキーその作品と生涯』アビゾワ(伊集院俊隆訳)(新読書社)
『ムソルグスキー、「展覧会の絵」の真実』一柳富美子(東洋書店)

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