HOME | E-MAIL | ENGLISH

〈マーラーとシェーンベルク: 新時代への扉を開いた 巧みな音楽表現と挑戦〉

新響と高関先生とのマーラー交響曲への取り組みも4回目を迎え、いよいよ交響曲第5番の登場となります。そこで今回のプログラムについて先生にインタビューを行い、ざっくばらんなお話を伺ってきました。

mahler6-1.jpg

2011年9月10日
構成:土田恭四郎(テューバ)


― シェーンベルクは久しぶりですか?

高関:実はこの曲はこれまで1回しか振ったことがないのです。

― 意外です!もう何百回も振っていらっしゃるのかと。今回の編成でやったのが一回?

高関:そう、1回のみです。そもそも日本では演奏されてないですね。ヨーロッパでは歴史的に大事な曲としてよく聴かれます。

― このバージョンを選ばれたのは?

高関:楽譜が手に入りやすいからです。演奏用のパート譜は今もうほとんどこの版しか手に入らないのかな。この作品は出版について言えば、ウニベルザール社(※1)と契約できなかったのです。現在はペータース(※2)から出ていますが、ペータースの社長の名前で、ヒンリクセン(※3)というレーベルで、いわば自費出版の形ですね。

― 当時は生活も苦しく、演奏されるたびに、当時の音楽界から攻撃されながらも、新しいものをやっていこうという挑戦を感じます。

高関:だいたい彼の作品番号10番台はめんどくさい曲が多くて、20番台に入ってくると、作品として安定してくる。今回の作品16というのは、まさにその過渡期の曲ですよね。作曲家自身が作品に相当愛着を持っていたようで、改訂を重ねています。オーケストラだけでも4つの演奏版があり、但しウェーベルンの作品6のように、異なる音響に変更されるということはあまり無い。その意味では完成度は最初から高かったのでしょうね。今回の1949年版は演奏効果が上がるバージョンだと思います。

― 確かに、最初に作曲された大編成の版を聴いても違和感がありません。

高関:他にも室内オーケストラ版が出版されていて、2台ピアノの8手版っていうのもある。この8手版の原稿はシェーンベルクセンターのホームページ(※4)で見ることができます。室内オーケストラ版もまた演奏する価値があると思います。

― 5曲ともそれぞれ個性がありますが、12音ではないですね。

高関:まだ12音技法は確立されていません。先ほど申し上げたように過渡期にあたり、「グレの歌」(※5)を作曲中です。「グレの歌」と同様に、この曲も楽章ごとにどんどん作風が変わっていきました。機能和声の終わりから無調になっていきます。作曲技法も複雑を極め、1曲目は完全に複リズムですよね。4拍子と3拍子が同居している。錯綜そのものがテーマでしょうね。2曲目も異なる音価が同居しています。3曲目はいわゆる色彩だけを追求するような実験、そして4曲目以降は完全に無調で書法がほぼ12音技法になっている。移り変わる時期の作品だと思います。家庭的にも奥さんの駆け落ち事件が勃発したり大変な時期ですね。特に5曲目が、その後の「月に憑かれたピエロ」や、12音になってからの「管弦楽のための変奏曲」(※6)、「セレナーデ」(※7)などに似ている感じはあります。

― シェーンベルクは絵画の方でも素養があり、自画像なども有名です。マーラーのことも描いています。仲良しだったのですね。

高関:ええ、仲良しです。マーラーの葬送の絵を描いていますよね。

― マーラーの手紙に関して多くの本が出版されていますが、シェーンベルクとも手紙のやりとりが多く、シェーンベルクとアレクサンダー・ツェムリンスキーがウィーンで「創造的音楽家協会」を立ち上げ、マーラーが名誉会長になっていますね。当時の音楽界からコテンパンにやられた時にマーラーが弁護して、ということが奥さんのアルマ・マーラーの手紙に書いてありました。

高関:アルマ・マーラーの言っていることはほとんど嘘で脚色です(笑)残念ながら。

― シェーンベルクの演奏会では、聴衆が騒ぎだして、そうするとマーラーが立って諌めたとか。そのようなことが2回あったと書いてありました。

mahler6-2.jpg

高関:マーラーは席を立たなかったという話です。最後まで残っていた何人かのひとりだった。彼らの音楽はとても理解できないが、自分が応援しないと、彼らの居場所がなくなってしまう、そういうスタンスだったみたいですね。マーラーが亡くなってから「私的演奏協会」をシェーンベルクが主宰した。相当の回数の音楽会をやって、ウェーベルンとベルクを含めた自分たちの曲と併せて、当時の先進的な作品を色々紹介しています。客が居ようと居まいと関係なく実施した。マーラー交響曲第7番のカゼルラ(※8)編曲ピアノ4手版を、カゼルラとツェムリンスキーが弾いた、そういう演奏会だった。ピアノ連弾で1時間20分…(笑)。因みに交響曲第6番はツェムリンスキー編曲の連弾版がありますね。

― ところで、マーラーは交響曲第5番作曲のころから、多忙にもかかわらず色々な国を回って演奏会もやる、作品の校訂はする、とそのパワーには驚きます。

高関:すごいバイタリティですよ。1907年を例にとりましょう。10年にわたって務めてきたウィーン王立歌劇場音楽監督をこの年いっぱいで辞任します。最後の公演が10月15日の「フィデリオ」です。そして翌1908年1月1日には、すでに契約が整っていたニューヨークのメトロポリタン歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」を振ってデビューしています。この間を縫ってマーラーは、なんと北欧に演奏旅行をしています。サンクト・ペテルスブルクでは10月26日にベートーヴェンの第7交響曲を含むプログラム、11月9日に第5交響曲の最後の自作自演を行い、その間の11月1日にはヘルシンキに客演して、ベートーヴェンとヴァーグナーのプログラムを振っています。そして翌2日に、滞在先のホテルに訪ねてきたシベリウスと会っています。街を歩きながら互いに交響曲談義をしたそうですが、物別れに終わったというお話ですね。シベリウスは第3交響曲を初演したばかり、一方のマーラーは第 8交響曲を完成していたのですから、意見が合わなかったのも当然と言えるでしょう。この間、契約の問題などいろいろ雑事に追われながらも、サンクト・ペテルスブルクとヘルシンキまで旅行しているのです。マーラーはウィーンをクビになって、失意のうちにアメリカに行ったというのは全くの嘘です。実際はすごい希望を持ってアメリカに旅立ったのですね。

― マーラーはチャイコフスキーの前で「エフゲニー・オネーギン」を指揮して絶賛された、という話を聞いたことがあります。

高関:そうですね、当時を代表する大指揮者だったから、ものすごく色々な人との交流があったようです。

― マーラーは交響曲第5番を書いて、その10年後に亡くなっていますね。え?そんなに短い生涯?という感じがします。

高関:1901年から翌年夏にかけて第5番を書いているわけですが、この頃がマーラーの人生の絶頂期ですね。王立歌劇場での仕事も好調で、11月にアルマ・シントラーと出会い、翌3月には結婚しています。こうした経緯が第5番にすべて反映されている。本当に不思議な曲ですね。第1楽章では葬送行進曲を書いているわけでしょう。もう俺は死ぬか、というような。第2楽章でこれからどうやって生きていこう、と悩み抜いているところに、突然彼女が現れ第3楽章で有頂天になって、第4楽章で「大好き!」って告白して、第5楽章で結婚できました、と報告している(笑)。第5楽章のスコアを見て驚くのは、一回も短調にならない!

― 一瞬たりともですか!色々な作曲家のD-durの良いとこ取り、という感じがします。

高関:いわゆる借用和音はありますが、楽想が短調になることはないのですよ。もう本当に、徹底的にD-Durです。

― 実際にマーラーが、この曲は君のために書いたとアルマに言っているのでしょうか?

高関:言っていますね。楽譜の最初のところに「アルマに捧ぐ」と献呈文が書いてある。それは結婚してからだから、後から書いているのですけど。

― スコアをおこす仕事をアルマ本人が手伝っていたそうですね。

高関:第5番についてはアルマが写譜したスコアが残っています。それが出版のときの版下になった。なんとアルマは紫色のインクで書いています。わたしは女よっていう感じで(笑)このアルマの写譜も自筆原稿とは違うのですよ。自筆原稿はモーガン・ライブラリー(※9)で公開されています。ニューヨークにある大コレクションですけど、沢山の作曲家の自筆原稿を持っています。ぜひホームページを見ていただくと良いと思います。

― アルマはウィーン社交界でとてもモテたそうですね。

高関:アルマは、実の母親が早く亡くなって父親が再婚している。家庭環境としてはちょっと複雑だったようです。大変に早熟で15~16歳で既に大人の社会に頻繁に出入りしていたようですね。マーラーとは19歳離れていて1902年に結婚した時は22歳。その前にグスタフ・クリムトとアレクサンダー・ツェムリンスキーと結構良い仲だった。マーラーと会ったときは、ツェムリンスキーの弟子として紹介されているはずです。写真を見て判る通り、ものすごく立派な体格の人ですね。並んで立つマーラーのほうが小さいですから。そして美貌にも恵まれ本当にきれいな人だったらしいですよ。クリムトが書いた「Der Kuss(接吻)」という有名な絵がありますよね。相手はアルマだっていう話があります。

― マーラーを選んだのは権力があったから?あと才能を感じたのでしょうか?

高関:権力は十分ありましたね。しかし何と言ってもアルマはマーラーの才能に惹かれたのでしょう。ただ相性はそんなに良くなかったようです。マーラーが多忙を極めていて、あまりアルマのことを省みなかったのです。マーラーは仕事が好きで演奏活動の他に、空き時間に作曲に没頭してしまう。アルマは欲求不満がだんだん溜まっていた。そこに、自分より若いグロピウス(※10)さんが現れて、という話。それが1910年の最後の夏です。マーラーは第10交響曲の作曲を中断してアルマのところへ飛んで行き、3人で話し合って、グロピウスは一度身を引いた。しかしマーラーは大きな衝撃を受け、8月下旬に夫婦でオランダにいたフロイトを訪ね、精神分析も受けていますね。この件で数週間を費やし、9月12日には第8交響曲の初演が予定され、その準備に掛かってしまったので、第10番のオーケストレーションができ上がらなかったのです。

― アルマ・マーラーは交響曲第10番の作曲を止めちゃった!

高関:完全に止めたのですよ(笑)。マーラーのプランでは夏休みの間に全曲がParticell (=下書き)の形で完成するはずだった。それが不倫騒ぎで中断してしまい、それなら来年の夏に持ち越し、と決めて11月からニューヨーク・フィルの仕事に専念したつもりが、翌年の2月演奏旅行中に病気になって、そのまま回復できずにヨーロッパに戻り、5月に亡くなったというわけです。

― そのようなアルマとの関係がグジャグジャになる前の、もうとにかく大好き!というのが、この交響曲第5番ですね。

高関:1楽章cis-mollから5楽章D-durへという…あまりにも出来すぎた話です。

― 今回使用する版の経緯について伺います。どのようなバージョンがあるのでしょうか。

高関:先ほど触れたように、まず自筆原稿はニューヨークのモーガン・ライブラリーにあり、ホームページで公開されているので、私たちも閲覧できます。それから、先ほど申し上げて初版の版下になったアルマによる写譜、これにはマーラー自身の訂正加筆を含めたくさんの書き込みが含まれます。次にシェーンベルクの蔵書の中に、なぜ彼の手許に行ったのかが不明ですが、マーラーの訂正書きの入った第2版の出版前のゲラ(1904年)があります。今演奏されている基本の楽譜のさらに前の状態です。古いパート譜の原型は1919年のペータース版で、いわゆるゲーラー版というものです。交響曲第5番の価値を見出したライプツィヒのゲーラー(※11)という指揮者が、きちんと演奏したいからもっと整備された楽譜がほしいとマーラーに言って、マーラーがそれを認めて楽譜を作り直させた。ゲーラーは第8交響曲のミュンヘンでの初演の際に、ライプツィヒから派遣された合唱団の下 振りをしましたが、その時にマーラーと交流を持ったようです。出版のペータース社がライプツィヒにあったので、出版社とも話がまとまった。ゲーラー版により、それまで不備だった楽譜の状態が統一され、基本となる楽譜が出来上がった。現在手に入る全音の小型スコアもドーヴァー(※12)もカルマス(※13)も、すべてゲーラー版のコピーです。その後、1964年にエルヴィン・ラッツの校訂による最初の全集版が出ました。この版が最近まで演奏に使われてきました。しかしパート譜はまだ手書きで、スコアとの不一致も多く見られました。その後に細かい訂正を加えた1989年版が出ましたが、2002年にさらに多くの資料を評価したうえで、全く新しく編集されたクビークによる新全集版が出版されました。今回の演奏に使いますが、コンピュータ製版により、スコアとパート譜との不一致も解消されています。

― 10年前に新響が使用した譜面から1000箇所以上も変わっていると、練習のときにおっしゃっていましたね。

mahler6-3.jpg
高関先生のマーラーのスコア。版ごとの訂正個所が、色とりどりのペンでびっしりと書き込まれている

高関:クビークによる新全集版の底本となったのは、作曲者がニューヨークに滞在中の1910年から11年にかけて、将来の演奏を見据えて行った改訂を新たに書き込んだパート譜のセットです。実はマーラー自身が最終の改訂を書き込んだスコアは行方不明になっているのですが、幸いにもパート譜には改訂が良い状態で書き込みが行われていました。これまで不明瞭だった強弱をはじめとして、松葉の位置がずれているとか、忘れているとか、音が違っているところもかなりあります。今回の演奏では、新全集版に更に私が書き込みを行いましたが、フレージングと表現の整合性を得る目的に限られます。

 全集版の編集における大原則ですが、基本は作曲家が書いた楽譜を最も尊重します。しかしマーラーが残した資料は、スケッチや下書きから、演奏に使ったスコアやオーケストラのパート譜など、多岐にわたります。こうした資料を詳しく調べながら、自筆原稿での間違いや書き損じなどを訂正し、編集者が付け加えたり変更したりする場合は、例えばカッコを付ける、破線にするなど、それがはっきりと読者にわかるように楽譜に表現することだと思います。疑問点については議論を尽くし、違う意見が考えられる際は、違う可能性を併記することもありますね。たとえば高関音楽学者が(笑)、これは違っているだろ?といって自分だけの判断で勝手に書きこんでしまうと、その時点で楽譜としての価値、整合性が失われてしまうのです。だから新全集版としては、あらゆる資料をあたって、マーラーがここまで変えた、という段階までで止まっている。そこから先は演奏するほうの判断で変える事は構わないよ、と書いてあるのです。

― それが、校訂報告ですね。

高関:はい。例えば自筆原稿はこういう状態だった、ゲラ刷りはこうである、ゲラを書くための写譜の人が書いた楽譜の状態はこう、といくつもの段階が校訂報告に書いてあるのです。それでマーラーの場合、特に面倒なのは、初演の時のパート譜がここにある、再演された時のパート譜が別にここにある、その次に新しく演奏するために作ったパート譜だけど演奏しなかった、というのもある(笑)

― 基本的に一番新しいのが、一番マーラーの意志を反映している、ということでしょうか?

高関:その通りだと思います。1989年版までは最も大事な実際の演奏に使われたパート譜までは参照されていなかったのです。例えば第3楽章のオブリガート・ホルンが前に出てくる話についても、新全集版では校訂報告のなかで、どの演奏会で舞台のどこで吹いたのかを検証した記事があります。

 マーラーの発想は他のホルン奏者とはっきり分離して立体的に聴こえること、つまりオペラ的な遠近感の獲得にあります。マーラーと交流の深かった指揮者メンゲルベルクが使ったスコアが残っています。マーラーは第5番を1906年3月にコンセルトヘボウで振っていますが、メンゲルベルクは事前の練習を買って出て、マーラーの練習にも出席、作曲者の指示を細かくメモしています。このスコアにはマーラー本人も赤いインクで多数書き込んでいます。その中に「(第3楽章の)ホルン・ソロはいつもはっきりと、そのためにソリストのようにコンサートマスターの前に位置すること。」と書き込まれています(編者注:今回の演奏会ではこれを踏まえ、第3楽章のオブリガート・ホルンは指揮者横の位置で演奏します!お楽しみに)。

― パート譜にはもしかしたら奏者が書き込みをしたかも。

高関:ええ、奏者はマーラーが言ったことを書きこんでいます。あるパートには奏者のサインまで入っている(笑)。

― まさにその場で、そのパートでは駄目だからこうしろとか、やったのかもしれませんね。

高関:そういうようなところはありまして、例えばもともとホルンに書いた動きをファゴットに移したりしています。理由はホルンで吹いたら重すぎる、音量が大きくなってしまうから…。

mahler6-4.jpg

― バランスに関して、あと管楽器のベルアップ、ものすごくしつこいですね。

高関:ええ、ものすごくうるさいです!どこからベルアップするかにもこだわっている。しかし指示通り楽器を上げることに意味があるのです。例えば指示が頭からではなく、2拍目からになっていたりします。クレッシェンドをする段階でベルを上げていくのです。そこまで判ってマーラーは指定しています。決して効率的ではないけど、彼はその響き方が好きだったのですね。

― 視覚的効果とあわせてダイレクトに聞こえてほしいということでしょうか。

高関:そうです。直接音がほしい、という意味ですね。それから面白いのは第5楽章最後のティンパニのパー ト。4個全部使うじゃないですか、♪レー・ド・シ・ラ・レードーシーラー…というのは、

mahler6-5.jpg
ウィーンではティンパニは基本的に1人で3個しか使えず、瞬時に音程を変えることができないという認識でした。現在でもウィーン・フィルはペダルでなく、レバーを手回しでチューニングしていますが、当時すでに同じシステムだった。したがって、当初マーラーのアイデアには無かったのです。自筆原稿をみると♪レ・ラ・レ・ラしかないのです。初版の楽譜も同様です。ところが1880年代にドレスデンでペダル・システムの楽器が開発されて、例えば「サロメ」では4個のティンパニを、音程を変えながら豪快に鳴らしているわけですね。マーラーは1904年にライプツィヒのゲヴァントハウスに客演していますが(第3交響曲)、そのころペダル・ティンパニの存在を知ったらしいのです。どうやらティンパニ奏者が、それは叩けますよ、とマーラーにアピールしたのね。それでドとシが追加され た、ということのようです。

― 最初のトランペットのソロについてマーラーによる有名な但し書きがありますね。

高関:トランペット・ソロについて、3連符は詰めてアッチェレランドしているような、軍隊のファンファーレのように吹くように、という但し書きを自筆原稿ではトランペット・パートの上に書きました。しかし後になって自分で削って消しているのです。初版にも但し書きはありません。当時楽譜に但し書きをすることはあんまり良いことじゃないという、品格の問題があって。しかしどうしても必要で、ゲーラー版ではスコアの欄外に復活しています。ところで、このファンファーレはメンデルスゾーンの結婚行進曲からの引用ですね。同時にローエングリンのイメージもある。マーラーの音楽は本当にそういう引用が多いから、原曲が判ってくると、そこにウラの意味を読み取ることができます。
 いずれにせよ、どこまでがマーラーの意志かというのを判定することはすごく難しい。昨年新響で第7番を演奏した際、編集者のクビークさんとかなり突っ込んだ意見の交換をすることができました。

― これからも研究が進みますね。

高関:先ほども申しあげましたが、第5番ではマーラーがニューヨーク滞在中(1910~11年)に最終の改訂を書き込んだスコアが行方不明なのですよ。しかし、すでに燃えてしまったとか無くなったとかではなく、おそらくどこかにはあるだろうと。まだ出てくる可能性はある。最近も第9番の最終楽章の下書きがアルマと交流のあったピアニストの遺品の中から発見されました。マーラーの作品研究はこれからも進んでいくと思います。

― 今回のプログラム、シェーンベルクもマーラーもすごく立体的な音楽と感じています。マーラーとシェーンベルクは後期ロマン派として20世紀にまたがっていますが、マーラーはロマン派の最後のスタイル、いわゆる19世紀末の音楽でその先には行かなかった。シェーンベルクはそれをあえて破壊したことで、現代音楽への出発点の位置を確立したと思います。

高関:そうですね!交響曲第5番は、マーラーがポリフォニーに目覚めた作品です。それまでの歌曲との関連から抜け出て、いわゆる主題労作だけで曲を書いた、ベートーヴェンのように書こうとした最初の作品です。歴史的にはマーラーのちょっと後にシェーンベルク、最近話題になっているハンス・ロット(※14)、それからシマノフスキ(※15)が居て、という時代です。ツェムリンスキーも近くに居て、みんなで切磋琢磨してやっていたわけです。その中から、シェーンベルクだけが抜きん出てきたのです。発想の勝ちなのです。それを見て追随したのが、やはり一緒に居たウェーベルンとベルクだった。そして彼らの作品も残った。実はシマノフスキにも相当面白い作品があります。当時ウィーンではオリエンタリズムが流行して、マーラーが唐詩をテキストに「大地の歌」、ツェムリンスキーが同様にインドの詩作をテキストに「抒情交響曲」(※16)、シマノフスキがイスラムに没頭して「交響曲第3番“夜の歌”」を書いています。しかしシェーンベルクはそこには目もくれず、ひたすら形式の追及に向かった。そこの差ですね。当時異国情緒の作品はたくさんあるわけですが、今では廃れて演奏されないですね。

― 高関さんにはマーラーの交響曲を、第9番、第6番、第7番と指揮していただいて、いよいよ第5番に来た!という思いです。新響としては、第5番の演奏は今回4回目となりますが、とても難しい曲と感じています。

高関:指揮者にとっても難しい曲です。俗な言い方をすれば、発想だけが盛り上がって、前のめりな演奏になることが良くあります。複雑な作品なので時間をかけて練習しないとできないところがありますね。新響の皆さんとの十分な練習の成果が、本番で発揮されると良いですね(笑)!

1)Universal Edition
2)Peters Edition
3)Henri Hinrichsen(1868-1942)
4)http://www.schoenberg.at/index.php?lang=en
5)Gurre-Lieder(1900-11)
6)管弦楽のための変奏曲― Variationen für Orchester(1926-28)op.31
7)Serenade(1920-23)op.24
8)Alfredo Casella(1883-1947)
9)The Morgan Library & Museum www.themorgan.org/
10)Walter Adolph Georg Gropius(1883-1969)「バウハウス」創立で著名なドイツの建築家。1910年にアルマと不 倫関係にあったとされる。
11)Georg Göhler
12)Dover Publications
13)Edwin F. Kalmus & Co., Inc.
14)Hans Rott(1858-1884)
15)Karol Maciej Szymanowski(1882-1937)
16)Lyrische Symphonie(1922)op.18
このぺージのトップへ