HOME | E-MAIL | ENGLISH

マーラーの第7交響曲 本日の演奏について

高関 健

 生誕150 年を記念する今年、マーラーの作品を演奏する機会に恵まれ、指揮者として非常に光栄に思う。新交響楽団とは第9 番、第6 番に引き続き今回で3 曲目となるが、演奏が難しく、また楽譜について最も問題が多い第7 交響曲を取り上げる。曲の成立に加え、その後の作曲者による校訂および今回の演奏のための補筆について幾分かの解説を試みたい。

 交響曲の作曲でマーラーは、これまで複数を同時進行することはなく、約2 年をかけて1 曲に集中して完成させていた。しかし第7 番は例外的に、第6 番を作曲中の1904 年に並行して作曲が始められ、第6 番の完成(8 月)と前後して、2 つの「夜の音楽」(Nachtmusiken)がすでに書き上げられている。翌1905 年8 月15 日に全曲が完成。2 曲の深い関連は、特殊な打楽器(カウベルと低い鐘の響き)の使用や、長和音と短和音を並置するモティーフからも明らかであろう。また、第6 番の最終楽章では当初、第7 番で使われるテノールホルンがオーケストレーションされていた。2 曲が共通の響きの中で作曲されていったことが想像できる。

 第7 番では、テノールホルンの他にもマンドリンとギター、たくさんの打楽器が登場するが、他にもコントラバスに対し弦を引っ張り上げて指板に叩きつける指定をはじめ特殊奏法を多用、新しい響きを追求している。また表現上でも極端なテンポや強弱の変化、楽器間のアンバランスの指定を敢えて行うこともあり、このような書法は明らかに次の世代、つまりシェーンベルク(例えばセレナーデ作品24)を筆頭とする新ウィーン楽派に大きな影響を与えている。

 同時にマーラーは、古い音楽への興味を以前から抱いており、第1 楽章のフランス序曲風の序奏(ロ短調!)や最終楽章での古典舞曲への接近は、明らかにバッハの管弦楽組曲を意識したものと考えられる。(最終楽章のテンポAllegro ordinario はヘンデルが好んで使ったもの。)しかし序奏部分のリズムの表現には苦心したようで、表記の錯誤が今もスコアに残る。バロック時代の記譜と演奏の実際について現在では研究も進んでいるが、マーラーが作曲当時すでに、この問題で頭を悩ましていたことは非常に興味深い。16 分音符や32 分音符だけでは、自身が持っていたイメージを表現しきれなかったようだ。こうした不統一は、第3 楽章スケルツォのレントラー(Ländler)舞曲における2 拍目の表記でも散見される。

 完成から3 年後の1908 年、プラハではフランツ・ヨーゼフ一世の即位60 年を祝う博覧会が開かれていた。第7 交響曲は9 月19日、その会場内に建てられた演奏会館Koncertní Síň でチェコ・フィルと新ドイツ劇場のメンバーからなる祝祭管弦楽団により初演された。マーラーは9 月5 日にはプラハに到着し本番まで2 週間、分奏を含む24 回の集中した練習が行われた。その合間には、当然の如く寸暇を惜しんで改訂が繰り返された。クレンペラー、ヴァルター、プリングスハイムたちが手助けを申し出たものの、マーラーはそれを断り、パート譜をホテルに持ち帰ると、独りで改訂を続けた。14 日にヴィーンから到着した妻アルマは、書き込まれたばかりのパート譜で足の踏み場もないほど散乱した部屋の奥に作業を続ける憔悴しきったマーラーの姿を確認する。初演の結果は評価の分かれるものであった。第7 番はその後同年10 月にミュンヘン、翌1909 年10 月にはオランダで3 回、作曲者の指揮により演奏された。ヴィーン初演は同年11 月3 日、フェルディナンド・レーヴェの指揮により行われている。

 出版についてはマーラー自身も相当腐心したが、1909 年にベルリンのボーテ&ボック(Bote & Bock 以下B&B)社からスコアとパート譜が出された。出版に関するマーラーと出版社とのやり取りの記録は、残念ながら第2 次世界大戦の戦火によりほとんど失われた模様である。B&B 社にとって、マーラー作品の出版は初めてで、作曲者に対する理解が十分行き届かず、度重なる改訂の要請に対応するのが難しかったようである。初版を出版の後、B&B 社は楽譜自体に改訂は行わず、「訂正と改訂リスト」を添付するに留めたが、この訂正表そのものが不十分で、「訂正表の訂正表」を出す事態となり、結果として校訂が非常に不徹底なままになってしまった。実際に第7 番では、同じ動きをする複数のパート間の不統一が、他の作品に比べ極めて多い。(作品が完成しているので、第9 番とは事情が異なる。)ある部分については、マーラーに独特の細かい音色の操作と判定できるが、譜割りがずれたり、パートが途中から脱落したり、音程が違うこともあり、そのままでは響きが明らかに濁る。強弱が全く記されていない部分も残る。

 このような状態の改善を目的に国際マーラー協会が設立され、生誕100 周年にあたる1960 年、最も問題の多かった第7 番からエルヴィン・ラッツ(Erwin Ratz)の校訂により批判全集版の出版が開始した。これにより作品のあるべき姿が初めて提示され、現在のマーラー・ルネッサンスの契機となった。

 その後は作品研究も格段に進み、演奏側からもラッツ校訂版に代わる新しい楽譜の登場が待望されていた。マーラー協会は要望にこたえ、ラインホルト・クビーク(Reinhold Kubik)博士を中心に新校訂版の編集に取り掛かり、最初に第5 番が2002 年に公刊された。これまでと一線を画した優れた出版で、出来る限り多くの資料を参照し、編集を最初からやり直している。またコンピュータ製版により、スコアとパート譜の錯誤もなく、大変読みやすくなった。新校訂版はすでに第2 番と第6番の編集が完成しており、間もなく出版される。第7 番についてもクビーク博士による校訂は終了しており2007 年3 月、マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団により試演が行われた。現在は製版の段階に来ているとのことである。

 群馬交響楽団と私が前回演奏に取り組んだのは、偶然にもヤンソンス氏による試演と同じ2007年3 月であった。ラッツ版の校訂に使われた資料のうち、自筆原稿(ファクシミリ)、初版および訂正表を書き込んだ初版を所持しているので、自分なりの検証を試みた。しかし、作曲者自身の訂正が書き込まれた版下、メンゲルベルク所有のスコア、コンセルトヘボウでの自作自演に使われたパート譜(メンゲルベルクが事前に入念に準備した)は参照できず、私の検証は当然かなりの憶測を含んだものになった。

 前年(2006 年)に第2 番の新校訂版を試演した際に、国際マーラー協会と交流する機会を得たので、ラッツ版に残る錯誤または疑問点についてクビーク博士に照会を思い立ち、連絡を取ったところ、博士からはすぐに、自分の校訂の評価にも役立つと思うので疑問点をぜひ知らせてほしい、との返事を頂いた。時間も迫っていたが、私は疑問点をまとめて送ったところ、数日後に私のリストを丁寧に添削したお答えを頂いた。800 箇所を超える私の照会に対し、クビーク博士からはそのうち約350 箇所について、新校訂版ですでに訂正済み、あるいは今後も議論の対象になる、ということであった。私の間違った見解、特に軽率なパートの追加および音程の変更に対しては、版下など原資料の状態を示し、明快に否定された。その後新校訂版に含まれるはずの訂正表も送って頂いたので、もちろん本日の演奏にも反映させる。

 新校訂版では、散見される表記の錯誤について、作曲者自身による改訂の最後の段階として、編集意見を付けた上で残される模様だ。演奏者は信頼できる楽譜を基に、各自が判断して演奏に取り組むことになる。クビーク博士とのやり取りを踏まえた上で、私は疑問点の整理と練習の効率化のために、自分なりの補筆が必要と考え今回も実行した。ただし、それは曲想に従って強弱やリズムの整合性を取り、不要な響きの削除などその純度を高める目的だけに留めたつもりである。たとえ分量が多くなったとしても、本日演奏を聴かれる皆さんにその変更が気付かれないとすれば、私の補筆は十分成功したものといえるだろう。
このぺージのトップへ