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マーラー:交響曲第7番

箭田昌美(ホルン)

 今年2010年はグスタフ・マーラーの生誕150年そして来年2011年が没後100年と2年連続のマーラー・イヤーを迎えメディアやコンサートにマーラーが取り上げられる機会が多い。しかしマーラー・イヤーでなくても現代のオーケストラレパートリーとしてマーラー作品が重要な位置を占めていることは言うまでも無い。マーラー・ブームと言われてからも久しいが、近年ではマーラー作品はプロのオーケストラだけでなくアマチュアにおいても日常的に取り上げられる定番となっている。しかしながら第7交響曲についてはマーラー・ブーム以後においても一般には分り難い曲とされ敬遠される傾向にあった。だが最近では演奏される機会も増え、この曲の持つ魅力が広く受け入れられてきている。

■マーラーの交響曲
 「交響曲は一つの世界のようなものでなければならない。すべてを包摂するものでなければならない。」

 これはマーラーがヘルシンキでシベリウスに会った時に様式と形式、モチーフの内的関連の重要性を主張したシベリウスへのマーラーの返答である。また次のナタリーエ・バウアー=レヒナーによる伝文の内容も良く知られるものである。

 「私たちがその後、日曜日にマーラーといつもの道を歩いていてクロイツベルクの祭りに通りかかり、さらに腹立たしい乱痴気騒ぎに出くわしたときのことだった。そこではメリーゴーランドやブランコ、射的店、指人形劇、はては軍楽や男声合唱もが数え切れないほど軒を連ねて活動し、それがすべて同じ森の草地で他を顧慮することなく信じがたい音楽を奏でていた。そこでマーラーは次のように叫んだ。-『ねえ聞こえるかい?あれがポリフォニーというもので、僕はこういうところから学んだんだ。だって、こうしたざわめきも何千羽の鳥の声も、嵐がヒューヒューいうのも波がピチャピチャするのも火がパチパチ音を立てるのも、みな同じように多くの音があるということじゃないか。主題はまさにこのようにまったく違った方向から現れ、リズムも旋律も全く違っていなければならない。(そうでないものはみな単に声部が多いものというだけにすぎず、偽装されたホモフォニーだ。)ただ作曲家はそれらの音をともに調和して響き合う全体へと秩序づけ、一体化させるだけなんだ。』」

 マーラーの交響曲の特徴は既成の様式や形式に収まるものではなく、様々な要素がポリフォニックに共存する多様性と発展性にあるといえる。マーラーにとってはシリアスな音楽も軍楽や俗謡も同じ次元・価値をもって世界を構成しており、そこに示される多面的で壮大なる世界がマーラーの音楽の魅力であることは間違いない。

■中期の器楽交響曲
 1901年から1905年に作曲された5番、6番、7番の交響曲は声楽を伴わない純粋な器楽だけの交響曲としてグルーピングされる。この数年間はアルマ・シントラーとの出会いと結婚、そして子供の誕生、また指揮者としてもウィーン宮廷歌劇場の監督として最高の地位にありマーラーの生涯でも充実した幸福な時期にあたる。長女の死という悲しい出来事が訪れるのは1907年とまだ先のことである。これら中期の交響曲は標題を持たない絶対音楽であり、バッハ研究の成果としてきわめてポリフォニックな作曲様式が取り入れられた円熟したものとなっている。この後に声楽と器楽が完全に一体化する壮大な第8交響曲へと新たな世界を切り開いて行くことになるが、第7交響曲はマーラーの円熟期に書かれた器楽交響曲の集大成といえる。

■夜の歌
 第7交響曲は一般的に「夜の歌」(Lied der Nacht)という副題を付けられることが多いが、マーラー自身はこの交響曲に副題は付けていない。「夜の歌」はマーラーが第2、第4楽章を夜曲(NACHTMUSIK)としていることに由来している。従って第2、第4楽章が「夜の歌」であるのは間違いないが、それをあたかも作品全体の標題として拡大解釈するのは間違いであろう。マーラー自身はこの作品の内的テーマについて何も語っていないということを重視すべきである。この曲についてマーラー自身の考えを知る手がかりとなるのはアルマ・マーラーの回想録にある次の一文である。

 「1905年の夏、マーラーは一気に<<第7交響曲>>を書き上げた。彼の言うところの"青写真"は1904年の真夏にできたものだが。セレナーデの章を書いている時はアイヒェンドルフ的な幻想につきまとわれていたようだ---ささやく泉に、ドイツ・ロマンティシズムに。それはそれとして、この交響曲に一貫した表題はない。」

 ここにあるように第2、第4楽章にあたる夜曲が第6交響曲とともに1904年の夏に作られており、特に第2楽章は第6との関連も見られる。他の楽章については着想に苦労したようだが翌年1905年の夏に一気に書き上げられている。つまりマーラーは第7交響曲を作曲する上で全体構想を最初から持っていたわけではない。「この交響曲に一貫した表題はない。」こそが真実なのである。

■第7交響曲の解釈をめぐって
 スケルツォ楽章を中心とする5楽章構成で暗から明へという流れ、ロンド形式のフィナーレという点で第5交響曲との類似性がみられる。有名なアダージェットを含む第5番は楽章間の動機の関連性や一貫した流れが感じられ親しみやすいが、第7番については一貫性がなく雑多な印象を受けるため分かり難いと言われている。それでも第1楽章から第4楽章については夜のイメージとして捉えることも出来るため、一般的には「夜の歌」という副題を手がかりに解釈しようという傾向が多く見られる。その場合に突然世界の変わるハ長調のロンド・フィナーレをどう捉えるかが問題となり様々な解釈がされている。単純には夜に対する昼の音楽とするもの、あるいは夜のカーニバルであるとするもの、はたまた第4楽章の最後クラリネットに書かれたersterbend(死に絶えるように)という指示が死を暗示するものとし第5楽章は天上の祭典であるというものもある。またベートーヴェンの第5交響曲の終楽章に代表される栄光、勝利、歓喜を表すハ長調を用いての華やかな音楽が偽りの栄光、あるいは実現不可能な栄光を表現しているというシニカルな見方もある。「苦難を乗り越え栄光にいたる」という定型的な図式へのパロディ、音楽のための音楽、メタミュージックという指摘もある。しかしながら、学者、研究者、あるいは一音楽ファンの意見であろうとも全てを解明する定説とはなり得ない。先に述べたように第7交響曲についてマーラー自身が何の説明も行っていないという事実と、標題のない絶対音楽であるという点において全ては書かれた譜面の中にこそあり、何を感じ取るかは演奏者および聴き手一人一人に委ねられているからである。
 アルマは晩年にラジオ番組の対談にて7番に限定した話ではないがマーラーの後期作品について次のように述べている。

 「でも内容を理解する必要など本当はなくて、感じ取るだけで良いのです。それが分かればマーラーの作品はずっと身近なものになってきます。」

■調性について
 一般に交響曲第7番ホ短調と表記されることが多いが、これは単に第1楽章の第1主題がホ短調であるということに過ぎない。スコアには調性も副題も記されておらず単に「交響曲第7番」と書かれている。といって無調音楽であるという意味ではなく5番と同様に発展的調性を取っているため作品全体を代表する調性は意味を持たないからである。

■テノールホルンについて
 第1楽章で用いられているテノールホルンという楽器について正しく認識している人は金管奏者であっても少ない。誤解を生む要因として軍楽隊や金管バンドで使用される楽器は国や地域によって異なり、同じような楽器が異なる名称で呼ばれていたり、同じような名称が全く異なる楽器に付けられていたりすることによる。金管バンドの活動が盛んなイギリスでは他の多くの国ではアルトホルンと呼ばれるE♭管の楽器をテナーホーンと呼んでいる。マーラーが指定したテノールホルンとはドイツやチェコなどで使われている楽器で、音域的にはユーフォニアムやイギリス式バリトン、ドイツ式バリトンなどと同じB♭管の楽器である。これらの楽器の違いは主にヴァルブ構造と管の太さで、ユーフォニアムやイギリス式バリトンはピストンヴァルブを用い、ドイツ式のテノールホルンやバリトンはロータリーヴァルブを用いている。管の太さではイギリス式バリトンが最も細く、ユーフォニアムとテノールホルンは中程度、ドイツ式バリトンは最も太い。ホルンで有名なドイツの金管メーカーであるアレキサンダー社でもテノールホルンとバリトンを製造しており、カタログによればテノールホルンのボア(内径)が13.5mmでありバリトンは15.5mmとなっている。このテノールホルンのパートはオーケストラの実演ではトロンボーン奏者が担当することが多く、ユーフォニアムやバリトンで代用されることもあるが、マーラーは具体的な楽器を指定していることに留意すべきであろう。但し一般的なホルンやトランペットといった楽器も国や地域により使う楽器や音色が異なることを考えれば実際に使用する楽器そのものにあまり拘る必要はないのかもしれない。

■楽章構成について
 これまで述べてきたように第7交響曲は全体を一貫した世界観で捉えるのでなく、個々の楽章をマーラー世界のオムニバス的なものとして捉えた方が違和感なく聴くことが出来る。同じナハト・ムジークである第2楽章と第4楽章でさえ、全く異質な音楽となっている。とはいえ第1楽章とフィナーレは主題の関連性、対比という点でも密接な関連があり、ソナタ形式である第1楽章とロンド形式のフィナーレは形式的にも構築性の高いものであり、これらの間に自由度の大きなロマン的な中間楽章が配置されている。また最初の3つの楽章は暗い楽想であり、和やかなセレナーデを経て明るいフィナーレに至るという点では交響曲としての構成も維持しているのである。

第1楽章 ゆっくりと~アレグロ(約20分)
 序奏付きのソナタ形式である。ロ短調による暗く不気味なリズムの上にテノールホルンが序奏の主題を演奏する。テノールホルンはこの楽章しか用いられてないが、楽章全体に出現するその音は独特の効果をもたらしている。葬送行進曲ともとれるこの序奏部は第6交響曲の悲劇的な結末からの継続も暗示させる。長い序奏部を経てアッチェレランドしたのち、ホルンとチェロによりホ短調の第1主題が力強く提示される。第1主題はロ長調に転調し、再びホ短調に戻った後第2主題へと繋がる。第2主題はハ長調でヴァイオリンによる叙情的なもので印象的な部分であるが比較的短く、長大な展開部へと繋がる。展開部は各主題が様々に展開され調性と表情はめまぐるしく変化する。展開部の後半でトランペットによる弱音のファンファーレの後に展開される世界は実に印象的であり、マーラーらしい自然描写を感じさせる。特にハープのグリッサンドと共に現れる第2主題に長調に転じた第1主題が交錯する箇所は美しく神秘的であり、人智を超えた大自然の深遠さを想像させる感動的な音楽となっている。そのままクライマックスを形成した後で再び序奏が提示され再現部へと到る。コーダはホ長調に転じ華やかに終わる。

第2楽章 夜曲1(約16分)
 一般にはハ長調とされることが多いが、長調と短調の交錯する不思議な世界が展開する。形式的には拡大された三部形式とも2つのトリオをもつ行進曲ともされているが、序奏+A+B+A+C+A+B+A+コーダの構成をとる。いわゆるセレナーデ的な音楽ではなくアルマの伝えるアイヒェンドルフ(注)的な幻想であり、マーラーの描く不思議な世界として自由な想像を呼び起こすものとなっている。曲は2本のホルンの掛け合いによる序奏に始まる。第6交響曲で多用された長調から短調に転じるモットー(動機)を経てゆったりとした行進曲風なAの主部に到る。主部も長調と短調を行き来して定まらない。Bの部分は変イ長調でチェロにより示される。Cの部分はヘ短調でオーボエが物悲しい旋律を歌う。なお序奏部は途中各部の接続的にも用いられ、カウベルが効果的に用いられている。またコーダも序奏をカデンツァ風に扱ったもので終止もあいまいなまま含みを持たせて終わる。

第3楽章 スケルツォ(約10分)
 「影のように」と書かれており、幽霊の飛び交う奇怪でグロテスクな音楽であり、死者の踊るワルツ、死の舞踏を想起させる。主部はニ短調で中間部はニ長調で明るい兆しが見えるものの、すぐにもとの雰囲気に戻る。バルトークピチカートや多用されるグリッサンド、打楽器の効果的な使い方などマーラーの演出効果が際立つ、きわめて性格的な楽章となっている。

第4楽章 夜曲2(約12分)
 愛情に満ちたアンダンテと指定されており、この楽章は窓辺で愛を奏でる本来のセレナーデであり、三部形式による。大音量を排した室内楽的な響きが用いられており穏やかで愛らしい楽章であり、この楽章にのみギターとマンドリンが加わることでセレナーデの雰囲気をよりいっそう演出している。主部はヘ長調で思わせぶりなヴァイオリンソロの短い序奏の後で素朴な主題がホルンにより提示される。中間部は変ロ長調となり朗らかな旋律をチェロとホルンが奏でる。この楽章で用いられているモチーフはそれぞれには単純なものであるが、それらが複雑に絡まることで味わい深い音楽となっている。

第5楽章 ロンド(終曲)(約17分)
 ティンパニの強奏に導かれ金管による輝かしいハ長調の主題から開始される。このロンドの主部はエピソードを挟みながら、また形を変えながらも8回出現する。これまで標題は無くとも描写的であり陰影に富んだ音楽が展開されていたところに影の無い眩いばかりの世界に終始するフィナーレへの戸惑いが様々な解釈を生んでいる。しかしひねくれた解釈をするよりもバッハを手本とし対位法を極めてきたマーラーが自らの想像力と作曲技法を注ぎ込んだ純音楽であると捉えればこの楽章の真価が見えてくるのではないだろうか。アレグロ・オルディナレオという速度指定からもバロックを意識したものであることが伺え、弦楽器のソロの扱いなどを見てもバロック時代の合奏協奏曲を大編成のオーケストラに拡大しているようでもある。大音量に埋もれがちな細部にも耳をかたむければ実に複雑で精緻な音楽が展開されているのである。ロンドの主題はワーグナーのマイスタージンガーの引用も指摘されているが、第1楽章の主題の変形でもある。この楽章の終盤では第1楽章の主題がそのまま提示され、その主題が最後にはハ長調にて高らかに示され輝かしく曲を閉じる。このハ長調で示される主題は第1楽章との連続性を示しているだけでなく、次の第8交響曲の冒頭に歌われる「来れ、創造主なる聖霊よ」をも予感させるものとなっている。

注:アイヒェンドルフ(1788-1857)
ドイツの後期ロマン派の小説家、詩人

参考文献
『マーラー 未来の同時代者』クルト・ブラウコプフ(白水社)
『マーラー―音楽的観相学』アドルノ(法政大学出版局)
『マーラー』村井翔(音楽之友社)
『グスタフ・マーラー全作品解説事典』長木誠司(立風書房)
『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』
アルマ・マーラー 石井宏訳(中公文庫)

初  演:1908年9月19日(プラハにて作曲者自身の指揮による)
楽器編成:ピッコロ、フルート4(4番はピッコロ持ち替え)、オーボエ3、コールアングレ、クラリネット3、小クラ リネット、バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、テノールホルン、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、タンブリン、シンバル、トライアングル、タムタム、グロッケンシュピール、ヘルデングロッケン(カウベル)、ティーフェス・グロッケンゲロイテ(低音の鐘)、マンドリン、ギター、ハープ2、 弦5部
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