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シューベルト:交響曲第7番「未完成」

兼子尚美(フルート)

 人間の創造力の深淵を知るという意味で、この曲は特別である。「神の啓示」を受けたという表現を単なるレトリックではなく、信じさせてしまう力を持つ。
 これほどの曲を作るのに、どんな呻吟があったのか、特別な境遇が創作を後押ししたのか。「未完成」のままにした理由には作曲家の特別な思いがあったのか。後世に生きる私たちは、そうあるはずであると、シューベルトの周辺をさぐる。しかし、そこにあるのはむしろ、淡々とした日々の生活のような創作活動であった。

■はにかみやの神童
 どこかで一度は目にしたことがある、彼の肖像画は、そのはにかんだほほえみの中にナイーブな内面をのぞかせている。ふくよかな顔、柔らかそうな巻き毛、結ばれた口元には芯の強さもうかがえる。

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 後世、「歌曲の王」と冠された、しかし生前は、ごく一部の人たちの中での名声にとどまったフランツ・ペーター・シューベルトは、父、テオドールと、母、エリザベートの第12子として1797年ウィーン郊外に生まれた。当時のウィーンは、イタリアオペラ、特にロッシーニの全盛期だった。シューベルト家のならいで、6歳で父の経営する学校に入学したフランツは、父にヴァイオリン、長兄イグナーツにピアノを習う。彼の音楽に対しての特別な才能を見抜いた父は、翌年には、教会オルガニストのホルファーにオルガン、声楽、和声法を習わせた。ホルファーをして「彼は私が何か教えようとしてもすでに知っていた」と言わしめた早熟の天才は、その後、11歳で、コンヴィクト※に入学を許可された。
 ここで、宮廷楽長サリエーリの指導も受ける。その栄誉に心躍らせたのも束の間、イタリアの曲に重きを置き、ドイツの作曲家のことを評価していないサリエーリとの個人授業に、フランツは、だんだん苦痛を感じるようになる。彼は、ハイドンや、モーツアルト、ベートーヴェンに心酔していたのだ。

■才能と経済的困窮と
 そのころから、時間を見ては作曲をしていた。残念ながら、それらの作品は残っていないが、13歳には、現存する最初の曲を書いている。コンヴィクトの学生オーケストラでは、第1ヴァイオリン首席奏者にも抜擢され、音楽的に、どんどん開花しようとしていた時期であった。しかし、ここでのフランツは、必ずしも幸せではなかった。家からの仕送りも少なく、「せめて、おやつに小さなパンか、りんごのひとかけを食べられたら、どんなにうれしいか。」と金の無心のための手紙を、兄に送ったほどである。
 幼いころから息子の音楽的な才能を認めた父テオドールであったが、彼は息子に、自分の経営する学校で助教師として勤めることを希望し、作曲家となることをよしとしなかった。1789年のフランス革命以降、ウィーンも二度、革命フランス軍に占領され、社会不安やひどいインフレに悩まされていた。音楽家を支えていた裕福な貴族たちも、資産を失うものが多く、そんな社会情勢の中、作曲家を目指すよりは、当時社会的評価の高かった教師の道を考えるほうが、賢明な選択だったのだ。
 父の経営する学校は貧しい家庭からは授業料をとらないことなどで評判を呼び、多くの生徒が集ったが、経営状況は厳しく、自分の息子たちが助教師として学校で教えることでその状況を軽減しようともしていた。
 幼いころから神童ぶりを発揮していたフランツだったが、モーツアルトの父のように、それを熱心に世の中に知らしめようとする人や、メンデルスゾーン家のような経済力が彼のまわりにはなかった。

※コンヴィクト
帝室王立寄宿制学校。宮廷合唱隊(現在のウィーン少年合唱団)員はこの学校の給費生徒だった。教育程度は大変高く、有能な官吏や芸術家を輩出した。ウィーンで最も権威のある学校であった。

■あふれ出る音楽を譜面に
 コンヴィクトを退学して、師範学校に入学した後、父の学校の助教師となったフランツだったが、子どもたち相手の授業に集中できず、思い立ったら授業中でも作曲をしている有様であった。
 どんどんあふれ出てくる音楽を譜面に書き留め、しかし、その扱いには鷹揚であり、書いた曲をほしがるものがあれば気軽に与えたり、友人に貸した楽譜がそのままになっていたり、仲間から仲間へとまわって最後になくなったりしても気に留めなかった。
 この間、「糸を紡ぐグレートヒェン」「野ばら」「魔王」といった歌曲や、「交響曲第2番」「交響曲第3番」を作曲する。歌曲を、敬愛していたゲーテに送るも、評価されず送り返されてしまうというつらい出来事はあったものの、その歌曲が世に出るようになり、「シューベルティアーデ」という彼の心酔者たちによるサロンができた。そういった内輪の人々の中で、自作を披露し、演奏するという生活が彼にとって、居心地のよい世界となった。
 その後、多くの曲を怒涛のように作曲し、そして心酔していたベートーヴェンの今際の際に面会かない、しかし自身も、その1年後、31歳の若さでこの世を去ることになる。

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                    シューベルティアーデ

■なぜ未完成?
 今日演奏する交響曲は、完成されたスコアが第1、第2楽章しかないため「未完成交響曲」と呼ばれて いる。第3楽章以降は最初の9小節だけがオーケストレーションされ、残りはピアノ譜の下書きがあるのみ。この天から降ってきたような曲がなぜ完成されずに終わったのか、多くの人が様々な憶測をしている。
 この曲は、25歳(1822年)のときに、オペラ「アルフォンソとエストレラ」を完成させた後、一気に書かれたもので、ほとんど直しの跡がないという。その作曲のスピードも驚くばかりなのだが、この曲がすでに頭の中に出来上がっていてそれを紙面に落としただけに思えるのも、まるで、神のほほえみのもと、インスピレーションを得たかのようだ。
 作曲の翌年、1823年にシュタイエルマルクの音楽協会から名誉会員に推薦してもらったそのお礼にと、同協会の役員だったアンゼルム・ヒュッテンブレンナーに、この2楽章を送った。しかし、彼は後で残りの楽章が届くものと思い、協会に引き渡すことをせず、そのうちこの自筆譜の存在は忘れ去られてしまい、1865年5月にウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックが発見し、同年12月に初演するまでの43年間、世に知られずにいた。
 なぜ未完成のままだったのか、については以下のような説がある。
・最初の2楽章までがあまりに美しく、まとまりがあったので、書きかけたスケルツォが先行楽章ほどの質の高さを持っていないことに気づき断念した。(ハンス・ガルの仮説)
・スケルツォのトリオ主題が、ベートーヴェンの交響曲第2番のそれに酷似していることに気づき、中断した。(マーティン・チューシッドの仮説)
・この曲に着手したころ悩まされ始めた難病を思い出させるので、この曲に嫌悪感を抱くようになった。(チャールズ・オズボーンの仮説)
・当時「H管」の金管が存在しなかったため、「ロ短調」の交響曲の完成が困難であることに気づき、作曲の継続を放棄した。(ブライアン・ニューボールドの仮説)
・当時、多くの曲を書き、未完成のままにしている作品も多いフランツにとって、この曲も多くのうちの一つ。そのうちに書こうと思っているうちにそのままになってしまった。
・第1、第2楽章ともに、3分の1拍子で、次の3楽章も同じ3分の1拍子に、困難を感じた。
・より高い収入につながりそうだったピアノ曲「さすらい人幻想曲」を書きあげるためにこの曲の完成を放棄した。
 もちろん、今となっては、どれと判ずることはできないが、「未完成」であることで、より高い「完成」を見た稀有な作品の例だと思える。

■曲について
第1楽章:アレグロ・モデラート ロ短調
 不安な心を表すかのような低弦の序奏の動機(H-Cis-D)で始まり、ヴァイオリンによるさざ波のような律動に乗ったオーボエとクラリネットの憂いに満ちた主要主題に発展する。第2主題は、ト長調でチェロが朗々と奏でる。当時珍しいロ短調でかかれたこの曲は、運命に抗しきれない人間の悲劇を描いているように感じる。

第2楽章:アンダンテ・コン・モト ホ長調
   コントラバスのピチカート下降音階の導入後、ヴァイオリンに天上から降りてきたかのような旋律が奏でられる。ホ長調の明るさのなかに、苦痛、不安が顔をのぞかせる曲調である。転調の妙味、木管により奏でられる旋律の美しさに特徴がある。

■8番それとも7番?
 さて、このロ短調の交響曲、私自身、高校生の時に演奏をしたのだが、その時は第8番であった。シューベルトの交響曲については、番号が変わっていて不思議に思う人も多い。その理由は、未完の作品が多いこと、作曲されたのは確実だが、現在行方知れずになっている作品があること、のちの指揮者が補作を行い、補作版にも番号が与えられて出版されていること、などにより整理が難しくなっているからだそうだ。

■ロ音を主音として
 演奏する立場として、この緊密な構成、人々に愛され続けている旋律に身を置けることに幸せを感じる。また、ロ音を主音にして短調の曲を書いたシューベルトに、この世を超えた先を見ていたのか、死の世界を意識していたのか、神の申し子として作曲したのか、と思いを馳せる。
 フランツ・シューベルトにとっては、普段通りの生活、作曲が、すでに天啓そのものであったのかも しれない。

参考文献
『作曲家別名曲解説ライブラリー シューベルト』音楽之友社
『作曲家◎人と作品シリーズ シューベルト』村田千尋著 音楽之友社
『シューベルト』バリー・カーソン・ターナー著橘高弓枝訳 偕成社
『シューベルトとウィーンの音楽家たち』青島広志著 学習研究社
シューベルト! http://schubertiade.info/(最新アクセス2010年3月8日)

初  演:1865年12月17日ヨハン・フォン・ヘルベック指揮 ウィーン楽友協会ホール

楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦5部
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