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ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

川辺亮(ヴァイオリン)

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 ドミトリー・ドミトリエヴィッチ・ショスタコーヴ ィチは、1906年から1975年までの69年間の生涯に、 合計15の交響曲を作曲しました。但しこの全部をし っかりと聴いた事のある人は世の中に余りいない筈 で、クラシックおたくの精鋭が集う我が新交響楽団 でもせいぜい数人程度と思われます。
 その中でこの第五交響曲は1937年に初演されて以 来今日に至るまで、世界中の交響楽団の主要レパー トリーの一つとして頻繁に演奏されてきました。特 に旧ソ連時代には「苦悩を通じての勝利・歓喜」「悲 劇の解決により導かれた明るい人生観・生きる喜び」 を表した社会主義リアリズムを体現する曲として喧 伝されたものです。

 しかし実際にはこの曲を作った時のショスタコー ヴィチ(以下「作曲家」)は、芸術家として考え得 る限り過酷な状況にありました。それは前の年 (1936年)にソビエト共産党の機関紙「プラウダ」 が突然、彼の前衛的なオペラ作品を「支離滅裂・反社会主義リアリズム」であると紙面で非難した事か ら始まりました。翌々週にも同様の非難記事が続い て掲載されました。

 この頃、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンに よる大規模な政治弾圧(通称「大粛正」)は最高潮 に達していました。まず多くの共産党幹部や軍高官 を逮捕・処刑して独裁体制を固めた上で、更に科学 や芸術の分野でも「国民の指導者にして教師」とし て綱紀粛正に乗り出したのです。自ら現場に足を運 ぶ事も多く、上記の非難記事は彼が作曲家のオペラ を観に劇場に来て途中で気に入らず退席してしまっ た、その数日後に掲載されたものです。

 作曲家はソビエト若手芸術家の中でもっとも輝け るスターの座から、文化を堕落させる有害人物とい うどん底に一気に引きずり下ろされ、あらゆる公式 の場で糾弾され自己批判を強いられる身となっただ けでなく、さらなる危機が目前に迫っていました。

 当時、政治犯の逮捕はたいてい夜中に自宅で行わ れました。アパートの前に止まった車から数人の男 達が降り立ちエレベーターで昇ってきます。そして 目的の部屋のドアを静かにノックし、中から恐怖に 凍りついた人の両脇を支えて連れ去るのです。この 一部始終を同じアパートの人たちは自分が標的では ないかと怯えながら寝床で聞いていました。職場で は次々と同僚が消えていく中、人々は何もなかった かの様に黙々と仕事を続けるしかありませんでし た。この様にして1937年と1938年だけで少なくとも 135万人が逮捕され処刑或いは強制収容所に送られ、 その多くが亡くなったと言われています(信頼でき る統計は今なお無いのですが)。

 周囲の友人や支援者たちが次々と逮捕されていく 中、作曲家が生き残るチャンスはただ一つ…自身が 更生したと認められる作品を書き、スターリンとそ の取り巻きに差し出す事でした。この途方もないプ レッシャーの下で作られた第五交響曲の初演は、 1937年11月、革命20周年記念と銘打たれたソビエト 芸術祭で行われました。聴衆の誰もが、この演奏会 に作曲家の命運がかかっている事を知っていまし た。そして結果は…圧倒的な成功でした。出席者の 回想によれば、既に第3楽章の途中に多くの聴衆が 涙を流しており、フィナーレの途中で一人また一人 と立ち上がり、曲が終わると嵐の様な喝采が何十分 も続きました。「(やがて作曲家が)真っ青な顔で唇 をかみながら舞台にあらわれた。思うに彼は泣くの をこらえていたのだ」。

 当局の役人達は、この聴衆の熱狂はサクラの仕業 か或いは作曲家に同情しての(当局への)抗議行動 ではないかと最初は疑っていた様ですが、やがて再 演を経てこの曲は「正当な批判に対する芸術家の創 造的回答」であると認められ、作曲家への包囲網は ひとまず解かれました。彼は辛くも危地を脱したの です(この10年後にまたもや同様の危機を迎えるの ですが)。

 この様にして作られたこの第五交響曲を、冒頭に 述べたような勝利・歓喜の曲と捉える事に対しては、 ソ連/ロシア国内外の多くの人から異論が出されて きました。特に長調のフォルティッシモで終わるフ ィナーレについては、実は「命令され強制されて必 死になって喜んでいる様子」なのだと作曲家自身が 秘密裏に告白したとか、或いは秘密のメッセージ (ビゼーのオペラの一節「信じるな!」の音階)が 埋め込んであるとか、その他かなり怪しげなものも 含めて今日でもなお、諸説が乱れ飛んでいます。

 本人は存命中に公の席や手記でこの曲について 色々述べているのですが、残念ながらこれらが本当 に作曲家の考え意図するところであるとは単純には 信じられません。ここに作曲家と彼の時代の悲劇が あります。
 ショスタコーヴィチの曲は、どれも「痛々しい」 としか言い様のない独特の雰囲気を湛えています が、これはまた筆者が80年代末から数年間仕事で滞在し、その最中に脆くも消滅してしまったソ連と言 う国の、今なお生々しい印象でもあります。

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        芥川也寸志とショスタコーヴィチ(1954年モスクワにて)

●演奏時間:約45~50分
・第1楽章:約15分、モデラート(中庸の速度)~アレグロ・ノン・トロッポ(快速に速過 ぎず)~モデラート
・第2楽章:約5分、アレグレット(やや快速に)
・第3楽章:約15分、ラルゴ(幅広くゆっくりと)
・第4楽章:約12分、アレグロ・ノン・トロッポ

参考文献
『ショスタコーヴィチ、ある生涯』Laurel Fay
『ショスタコーヴィチ』千葉潤『名曲解説全集3』音楽之友社
『ショスタコーヴィチの証言』Solomon Volkov
Wikipedia(英・日・露)、Yandex(露)

初  演:1937年11月21日 レニングラード(現サンクト・ ペテルブルグ)にて、ムラヴィンスキー指揮  レニングラード・フィル
楽器編成:フルート2、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット2、 Esクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、 ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、 ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、タムタム、 トライアングル、木琴、グロッケンシュピール、ピ アノ、チェレスタ、ハープ、弦5部

新響のショスタコーヴィチ交響曲演奏記録

1969年 第5番(指揮:芥川也寸志)
1974年 第5番(指揮:芥川也寸志)
1977年 第7番「レニングラード」
1977年 第7番(指揮:芥川也寸志)
1981年 第11番「1905年」(指揮:芥川也寸志)
1984年 第5番(指揮:芥川也寸志)
1986年 第4番(指揮:芥川也寸志)日本初演
1990年 第1番(指揮:高関 健)
1994年 第10番(指揮:小泉和裕)
1996年 第9番(指揮:小泉和裕)
1997年 第5番(指揮:井﨑正浩)
2000年 第7番「レニングラード」(指揮:小泉和裕)
2006年 第8番(指揮:小松一彦)
2006年 室内交響曲Op.110a(指揮:高関 健)
2009年 第4番(指揮:小松一彦)
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