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芥川也寸志:絃楽のための三楽章 ―トリプティーク

都河和彦(ヴァイオリン)

 芥川也寸志(1925―1989)は22歳の時作曲した「交響三章」で注目を集め、25歳の時の作品「交響管絃楽のための音楽」がNHK放送25周年記念管弦楽懸賞で特選入賞を果たし、作曲家としての知名度を上げていった。1953年(28歳)、オーストリア出身でN響常任指揮者だったクルト・ヴェスの委嘱により作曲したのがこの「トリプティーク」で、同年12月ヴェス指揮、ニューヨーク・フィルによりカーネギー・ホールで初演され、芥川が弦楽器の扱いについても並々ならぬ力量を示した作品である。
 芥川は翌54年10月ソ連に非合法に入国、ショスタコーヴィチ、ハチャトリアン、カバレフスキー等に会って親交を結び、その半年後この「トリプティーク」がモスクワで演奏され、翌56年にはソ連国立出版局から楽譜が出版された。これら芥川とソ連の密接な結びつきが67年の新交響楽団・訪ソ親善演奏旅行へとつながった。
 この「トリプティーク(三連画)」という曲名は芥川の愛聴曲の1つだったアレクサンデル・タンスマン(1897―1986、ポーランド出身の作曲家・ピアニスト)の「トリプティーク」にちなんで名付けられた。

第一楽章 アレグロ
 全弦楽器のユニゾンによる冒頭6小節の躍動感溢れる旋律の後、2度音程や上昇・下降の動きが絡まりあった混沌の中を突き抜けて冒頭部の旋律を約2オクターブ上げたヴァイオリン・ソロが現れる。第2ヴァイオリンとヴィオラによる溌剌とした第2主題の後、低音部のオスティナート・リズムに乗って第1ヴァイオリンがゆったりした中間部の旋律を奏で、これに第2ヴァイオリンが絡んでしばらく進んだ後、再び活気づいて前半部を部分的に繰り返してキッパリと終わる。

第二楽章 〈子守歌〉アンダンテ
作曲当時5歳だった長女、麻美子のためのために書かれた5/4拍子の子守歌。弱音器をつけたヴィオラが奏でる息の長い旋律を第1・第2ヴァイオリンが受け継ぐ。中間部は3拍子になり、チェロとヴィオラにノック・ザ・ボディー(楽器の胴体を拳で叩く)という珍しい奏法を要求、生命感を出しているのも聴きもの。再現部もヴィオラが主題を奏でるが、第2ヴァイオリンが8分音符の伴奏をつける。感傷的で叙情性に溢れた楽章。

第三楽章 プレスト
ヴァイオリンとヴィオラのサルタート(投弓)による祭の太鼓を思わせる変拍子の主題は次第に和音の音域を広げて行き、低弦に引き継がれる。第2主題は薄い響きの諧謔的な旋律で、コルレーニョ(弓の棹で弦を叩く)で冒頭の旋律を一瞬奏でたあと、テンポをあげて急停止する。静かでまどろむような中間部のアダージョはつかの間で、すぐ冒頭部分に戻り、ffで一瞬アダージョの旋律を回顧した後、fffのユニゾンで曲を閉じる。都会人・芥川の手になる祭は江戸っ子らしく粋で、泥臭さとは無縁である。

ところで私は約40年前に新響に入団し、芥川先生が亡くなられるまで20年間先生にお世話になった古参団員である。還暦を迎えた5年前にコンマスを引退したのだが、「今回の『芥川也寸志没後20年』のコンサートの意義は特別」という余り訳の分からない理由でまた「トリプティーク」のコンマスに引っ張り出されることになった。永年の不摂生や加齢による生活習慣病や関節痛等で棺桶に片足をかけているような私は固辞したのだが、恐喝まがいのあの手この手の圧力に屈してしまった。現在の新響のヴァイオリン・セクションには素晴らしいコンマスや優秀な若手が大勢いるのに、腕が落ちた前期高齢者に老醜を晒させるとは何とも迷惑な話である。「トリプティーク」のソロは数回弾かせていただいた記憶があるのだが、ドタキャンした苦い思い出もある。芥川先生の発案による「新響創立20周年記念・日本の交響作品展」(1976年9月)がサントリー音楽賞を受賞、翌年3月の授賞式での記念演奏で「トリプティーク」のソロを受け持つことになっていたのだが、その2日前に行った日帰りスキーで怪我をし(滑降中にビンディングが外れて空中に投げ出され、アイスバーンに左肩をしたたか打ちつけた)コンマスを交代して貰って、芥川先生から大目玉を食ったのだ。この左肩の古傷は5年前にまた疼きだし(60肩?のせいもあったのかもしれない)、苦痛に顔を歪めながら弾く状況がしばらく続いたのだが、整形外科医の白土先生(新響チェロ団員白土さんのご主人)のリハビリ指導でここ1年何とか小康を保っている。本日の本番を無事乗り切れることを祈るばかりである。

初  演:1953年12月4日K.ヴェス指揮 ニューヨ-ク・フィル
日本初演:1954年10月15日作曲者指揮東京交響楽団(東京労音創立2周年「森の歌大合唱 と交響曲のつどい」)
楽器編成:弦5部
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