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シューマン:交響曲第1番

クララ、ライプツィヒでの創作、そして「春」

藤井 章太郎(フルート)

 ロベルト・シューマンの交響曲第1番は1841年3月31日、当時ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者であり、シューマンの親友であったフェリックス・メンデルスゾーンにより「最大の愛情と心遣い」で初演された。この前年1840年9月12日、ロベルト・シューマンは苦難の末にクララ・ヴィークと結婚し、1841年は幸福と創作の絶頂にあった。交響曲第1番は、2番以降の交響曲のように15年後に訪れる「死に至る心の病」を予感させない、「春の訪れを歓ぶ」明るい作品に仕上がっている。クララの存在無しに交響曲第1番は生まれ得なかったし、それに続く3曲の交響曲も存在しなかったかもしれない。シューマンの作品が後世に残ったのも、夫の遺作の演奏に心血を注いだクララの偉業によるところが大きい。
 ロベルト・シューマンは1810年にライプツィヒから70km南のツヴィカウで生まれた。出版商であり著述家でもあった父親は、早くからロベルトの音楽的才能に気がつき音楽教育を受けさせていた。母親は声楽家であり、この両親の才能を受け継いだロベルトは、その後、文筆活動と作曲で音楽界に入ることになり、ロベルト・シューマンの音楽は、「詩的なものから霊感を受けて音にしていく」というスタイルで作曲されていった。父親の死後、ロベルトは安定した生活を願う母の希望で法学を学ぶことになり1828年ライプツィヒ大学に入学したが、音楽家への夢を捨てることができず、ライプツィヒの音楽界に足を運んでいた。
 クララ・ヴィークは、1819年ピアノ指導者フリードリッヒ・ヴィークの次女として生まれ、幼少の頃から父親の英才教育を受け、1828年10月20日、9歳にしてゲヴァントハウスでデビューした。

 ロベルトとクララの最初の出会いは、クララがゲヴァントハウスにデビューした年の3月31日、ライプツィヒの有力者邸での音楽会であったが、お互いの存在を知るに至ったのは1830年10月、ロベルトが弟子としてヴィーク家で生活を始めた時である。子煩悩なロベルトはたちまちヴィーク家の子供達の人気者となる。11歳のクララは9歳年上のロベルトを「ヘル・シューマン」と呼び、常に好意を持って見ていた。彼女の感じやすい心は、ロベルトの詩的な音楽の美を捉えていたが、カフェに入り浸ったり酒に酔ったりするのは気に入らなかった。ヴィーク家は、ライプツィヒの音楽社交場のようなありさまで、いつも音楽家達が出入りしており、クララは青年音楽家達が語る哲学的、美学的な言葉を理解することは出来なかったが、作品を披露する場面では必ずピアノを弾いていた。クララにとってあまりにも難解でアンバランスな状態であったため、これを紐解く役回りのロベルトといつしか精神的な深いつながりを持つことになっていった。1831年パリ演奏旅行からクララが帰宅し、次第にロベルトの作品も演奏するようになり、1833年にロベルトは「クララ・ヴィークの主題による変奏曲」を作曲すると、クララは自作の「ロマンス」をロベルトに捧げる。1834年、クララは音楽理論と声楽を学ぶために、単身ドレスデンで生活するが、その頃ロベルトはエルネスティネという別の女性に夢中になっていた。この境遇は14歳のクララの心にロベルトへの思慕の情を育むことになった。結局エルネスティネはライプツィヒを去り、クララは自宅に戻る。15歳のクララは子供から大人へと脱皮する過程であり、ロベルトはエルネスティネとの嵐の後に、クララに心の平安を見いだすのである。そして、ロベルトからクララへの手紙は「貴女が私にとってどんなに大切な人か、ご存じでしょう。」という一節で結ばれる。
 クララの父親フリードリッヒ・ヴィークは、二人の親密な交際に大反対であった。ヴィークはロベルトの才能は認めていたものの、作品はピアノ曲など小品ばかりなので、経済的に不安定だったのである。ロベルトはヴィーク家に出入り禁止の状態の上、ヴィークはロベルトがヴィーク家に現れたら射殺するとまで公言している。ヴィークはクララがロベルトの作品を演奏する事も禁じていたが、クララはロベルトの作品を絶えず研究し、作曲者の精神性に没入してロベルトの存在を身近に感じる事が心の慰安であった。ロベルトにとっても、クララが弾くことを前提として作曲に没頭することが心の救いであり、1839年まで数多くのピアノ曲を生み出す源になった。
 ロベルト&クララと、フリードリッヒ・ヴィークは、お互いを訴訟するという、行き着くところまで行き着いてしまった。1840年8月20日に勝訴し、二人は結婚できることになったが、その後1843年、ヴィークからの和解の申し出により邂逅した。
 ロベルトとクララは、1840年9月12日、クララ21歳の誕生日に、ライプツィヒ郊外のシェーネフェルト教会で結婚し、ライプツィヒ市街地から東へ10分ほどのインゼル通りに居を構えた。ここからライプツィヒ郊外南東に在るメンデルスゾーンの家までも10分ほどである。インゼル通りのシューマン邸には、メンデルスゾーンをはじめとした仲間達が集まり、彼らの作品を演奏したり音楽談義などで親交を深めていた。
1839年までロベルトは多数のピアノ作品を作曲してきたが、1940年になると歌曲の創作に没頭する。クララへの手紙には「書けて書けてしかたがない。」とある。リュッケルトの詩篇「恋の春」からの12曲の歌曲では、ロベルト9曲とクララ3曲を共同で作曲した。
 そして1841年になって、ロベルトはいよいよ念願の交響曲に着手する。ロベルトは1839年にフランツ・シューベルトの兄を訪ね、遺稿の中から交響曲「ザ・グレート」を見つけ出し、ライプツィヒでメンデルスゾーンが初演を果たしたことから霊感を受けて交響曲を作曲する決意を固めた。更にアドルフ・ベッドガーの詩「汝、雲の霊よ」が作曲の機縁になったと言われている。このベッドガーの詩は、「冬の風景と自身の悩む心を重ね合わせ、春と悩みの昇華を重ね合わせて、春の到来に確信を持つ」といった内容のものである。詩的なものと音楽的なものを一体として捉えるロベルトは、いわば詩の続編とも言う形で、春の到来を音楽として生み出していった。1841年1月23日の日記に「春の交響曲を開始」、26日の日記には「万歳!交響曲が完成した!」とある。この4日間ロベルトは書斎に引き籠もり、クララとも殆ど語ることはなかった。この頃のクララはロベルトの作曲を邪魔しないように、自身でピアノに触れることを自制していった。しかしながら、26日のクララの日記には「私はすっかり幸福です。ああ、ここにオーケストラがあったら!・・・貴方はいつも感嘆の思いで私の心を満たしてくださいます」とある。交響曲第1番に引き続き、後にピアノ協奏曲の第1楽章になった「ピアノと管弦楽のための幻想曲」などの交響作品が生まれた。長い期間で育まれたクララとの愛情、苦難の末に得た幸福な家庭生活により、ロベルト・シューマンの才能は絶頂期を迎えていたのであった。
 このように、「春」のあらゆる背景が揃って交響曲第1番は創作されるに至り、当初ロベルトは、交響曲第1番に「春の交響曲」という表題を付け、さらに各楽章にも
 第1楽章「春の始まり」、
 第2楽章「夕べ」、
 第3楽章「楽しい遊び」、
 第4楽章「たけなわの春」
という表題をつけていた。しかしながら、詩的で精神の内面を追求する為に、表題によって聴衆に先入観を与えることが無いように、全ての表題を消し去ってしまった。現在は「春の交響曲」という表題だけが残っている。

 今でこそ、クララはロベルト・シューマンの妻として知られている。しかしながら、交響曲第1番が作曲された1841年頃の音楽界では今と逆で、ロベルト・シューマンは天才女性ピアニストであるクララ・シューマンの夫という存在であった。ロベルトは、クララの夫として相応しい芸術家であるべく作曲活動に没頭していたわけである。本拠地ライプツィヒ周辺では妻や友人達の愛情こもった演奏に支えられ、シューマンは大作曲家への道を歩み始めることができた。しかし、演奏旅行に出ると様相は一変する。妻クララは演奏家であり自らの力で聴衆の評価を手中に収める事が出来るが、これに対して夫ロベルトの作品は、妻の演奏によるピアノ作品を除くと、準備も充分でないまま初対面の演奏家によって聴衆に晒されてしまう。これでは、「天才女性ピアニスト」と「夫は売れない作曲家」という構図は容易に覆せない。この葛藤がシューマンを精神的に追い詰めていった。1844年1月に出発した冬のロシア演奏旅行も、ロベルトの役回りはクララの付き添いであった。この旅行でロベルトの感性はロシアの風物によって異常なまでに刺激され、冬のロシア旅行による体力的な消耗などから、ついに体力と精神のバランスを崩し、躁鬱病が発症した。親友のメンデルスゾーンがベルリンに去ったこともあり、シューマン一家は環境の変化による病状回復に望みをかけてドレスデンへ転居することにした。1844年12月、クララはライプツィヒ生活最後の演奏としてロベルトのピアノ四重奏曲を初演し、そして創作の絶頂期を過ごしたインゼル通りの家を引き払っていった。

 シューマン夫妻が新婚時代を過ごしたインゼル通りの家は、当時の建物がシューマン博物館として公開されている。ここは「静的な博物館」ではなく、子煩悩なシューマン夫妻の意を汲み、「クララ・シューマン音楽学校」として160年の時空を超えて児童音楽教育に使用されており、子供の歌声や歓声が聞こえている。
 かつて、ユーロ紙幣に移行する前の100ドイツマルク紙幣に印刷されていた肖像はクララ・シューマンであった。作曲家ロベルト・シューマンの妻として夫の亡き後、7人の子供を抱えながら、夫が残した作品の価値を高める為に献身した良妻賢母として、今でもドイツ国民に敬愛されている。

初演:1841年3月30日 
フェリックス・メンデルスゾーン指揮 
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラ
楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、トライアングル、弦5部

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