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曲目解説プログラムノート

芥川也寸志:交響三章

都河 和彦(ヴァイオリン)


 「第200回演奏会の曲目は芥川、黛、そしてストラヴィンスキー作品に決定」と聞いた時、芥川也寸志先生に20年間お世話になった古参団員の私は、「黛もストラヴィンスキーも新響創立者の先生に密接に関係があった作曲家だから記念碑的演奏会にふさわしいプログラミング、ただ、来年の『芥川没後20年』プロの選択肢が狭まるな」と感じた(以下、敬称略)。
 黛敏郎は東京音楽学校(現東京藝術大学)で芥川の1年後輩で共に伊福部昭の弟子。この二人は芥川の1年先輩だった團伊玖磨と「三人の会」を結成、プロ・オケを使って自作を自ら指揮する演奏会を5回開いた。(二人ともに名声を確立した後、政治的には、芥川は社会党を支持し反核運動を指導した左派、黛は三島由紀夫と親交があった右派だった、というのが興味深いが)。
 ストラヴィンスキーについては、芥川は幼少の時「火の鳥」と「ペトルーシュカ」のSPレコードを何度も聴き、「火の鳥」の子守歌を口ずさみながら幼稚園に通ったという、芥川音楽の原点ともいうべき作曲家である。芥川は新響で、1973年にまず「火の鳥」を取り上げ、翌年「ペトルーシュカ」、そして1975年には「春の祭典」を加えて、念願だった「ストラヴィンスキー三部作一挙上演」を3年がかりで果たした。
 私が40年前に新響に入団したとき先生は43歳の若さだったが、音楽家の枠を超えた文化人としてすでに超有名で、その後も超人的な活動を続けられた。没後20年が近づいた今、芥川先生を直接知る新響団員は少なくなり、マスコミで取り上げられることも殆どなくなってきた。「交響三章」解説のあと、彼の著書を引用しながら波乱の生涯と豊かな人間性の一端を紹介させていただきたい。

「交響三章」について
 芥川は1941年16歳の時、音楽の道に進むことを決め、東京音楽学校教授だった橋本國彦に作曲を師事した。43年同校に入学するが、翌44年学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊、終戦後の翌年学校に戻り、作曲科講師として赴任してきた伊福部昭に心酔して弟子入りする。1948年(23歳)にこの「交響三章」を作曲、翌年自ら東京フィルハーモニー交響楽団を指揮して放送初演した(舞台初演は1950年の尾高尚忠指揮NHK交響楽団)。橋本の叙情性、伊福部やストラヴィンスキーのオスティナート(短い動機の執拗な繰り返し)趣味と野性味、そして芥川特有の明るさを兼ね備えた彼の「青春交響曲」である。1950年作曲の「交響管絃楽のための音楽」、53年の「絃楽のための三楽章」とともに、いずれも若々しさに溢れた初期の三部作と言える。1954年、29歳の彼はこれら3曲の楽譜を携えて国交がなかったソビエトへ不法入国し、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等の知遇を得る。この時、「交響三章」は当地で初演され、楽譜も出版された。

第1楽章
カプリッチョ(奇想曲)2/4拍子 アレグロ 約5分

 ファゴットの8分音符の刻みにのってクラリネットが16分音符中心の軽妙・流麗で狭い音域でしか動かない愛らしい主題を提示する。この主題はその後フルート、ヴァイオリンに受け継がれた後、シンコペーションが印象的な、躍動感溢れる第2主題がヴァイオリン、木管によって示される。展開部はピアノが口火を切り、リズム遊びの様相を呈し、ファゴットとチェロによる第3主題がヴァイオリンに受け継がれる。再現部はピアノ伴奏にのってフルートが第1主題を奏し、幾度か盛り上がった後、木管楽器だけになってさりげなく終わる。

第2楽章
ニンネレッラ(子守歌)4/4拍子 アンダンテ 約11分

 ファゴットが第1の子守歌を吹き、この主題はクラリネット、フルート、ヴァイオリンに移調しながら受け継がれる。中間部はオーボエが第2の子守歌を奏し、ヴァイオリンや他の楽器も加わって盛り上がっていく。再現部はトランペットが第1主題を奏し、他の楽器に綿々と引き継がれ、やがて消えていく。長女誕生の喜びを歌った楽章、という説がある。

第3楽章
フィナーレ(終曲)4/4拍子 アレグロ・ヴィヴァーチェ 約6分

 冒頭2小節の6つの音は全楽器による派手なテュッティー。その後、脳天気ともいえる明るい流麗な主題が木管、ヴァイオリンで奏され、この旋律は何度も繰り返される。やがて第1楽章のリズム遊びを彷彿させる5/8拍子の強烈なリズム動機が現れ、中声部の軽快なリズムが発展した第2主題をヴァイオリンが奏する。これらの主題や動機はその後執拗に繰り返され、陶酔的熱狂で曲を閉じる。

芥川也寸志の生涯とエピソード(「」内は著書より引用)
幼少時
 1925年(大正14年)7月12日、文豪・芥川龍之介の三男として東京田端に生まれる。1927年の父の自殺後、長兄・比呂志(後に俳優)、次兄・多加志(1945年ビルマで戦死)と「火の鳥」のレコードをBGMに、「アマゾン河の探検」という寸劇を演じた。
 「幕に見立てた襖が開けられてレコードが鳴り出すと、いつも母はお義理でパチパチと手を叩いた。八畳の間の中央には座蒲団が三枚ほど並べられ、これがアマゾン河に浮かぶ探検隊の舟である。もちろん、兄は舳先に立って、槍か何かのつもりで、いつも箒を右手に持っている。次男の多加志はどんな時も地味な役回りで、一生懸命舟を漕ぐしぐさをする。そうこうするうちに私の出番がやってくる。私の役はいつもワニである。ストラビンスキーの音楽にのり、腹ばいになって座蒲団の舟の方に近寄っていく。やや間があって、兄は『ヤアッ』と言って箒の柄を私の背中に突き立てる格好をする。間髪を入れず、私は『ギャーッ』と言って今度は仰向けになり、手と足をバタバタとやって瀕死のワニを演じ、この芝居ごっこは幕となる。」
音楽学校・軍楽隊
 16歳の時、音楽の道に進むことを決め、橋本國彦の紹介で井口基成にピアノをバイエルから習う。1943年、東京音楽学校に合格(18歳、晩学だったので成績はビリだった)するが翌年、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊、あらゆるビンタを体験した。
 「始めのうちは殴られる毎に口から血を吐いて、ろくに食事も出来なかったものが、日を追って殴られ方が上手になり、しまいには、どんなに殴られても痛みを感じなくなった……(略)……。私にとってビンタは、勿論厭なものではあったが、何百回と殴られていくうちに、少なくともこわいものではなくなった。」
終戦直後の苦労
 1945年4月軍楽隊を首席で卒業後、終戦で家に戻った芥川は生活のため(龍之介の作品の印税収入が途絶え、母の生活は苦しかった)ヴァイオリンを担当して友人と小さなバンドを作り、進駐軍キャンプ等でアルバイトをした。
 「初めて自分で稼いだ金で買ったのは、母に食べさせようと思ったシューマイ三個であった。忘れもしない、有楽町のガード下、露店商人の景気のいい呼び声に誘われたのだが、当時のこととて、包み紙などなく、新聞紙に直接くるんであったので、車庫を降りるまでは確かに温もりを感じていたのに、家に着いてみると、持っていたのはヴァイオリンのケースと穴のあいた新聞紙だけで、肝腎のシューマイがない。私は蝋燭を頼りに駅から家までの路を探し、とうとう三個とも見つけた。そのシューマイを洗って食べた母は涙を流したが、多分うれしかったのではなく、悲しくて仕方がなかったのだろう。」
ストラヴィンスキーとの唯一の(?)対話
 芥川は「肉体的欲望と精神的欲望が同時に高進するタイプの作曲家の書斎は明るく窓が大きいが、そうではないタイプは部屋全体が暗く、窓は小さいか全くない」という私見を持っていた。二十世紀最大の作曲家、ストラヴィンスキーが1959年に訪日した時、機会を見計らってこの巨匠に尋ねた。
 「『先生の書斎は大きな窓があって、とても明るいでしょう?』
『私の仕事部屋はサンルームで、壁も天井もみんなガラス張りです。』

高校野球と校歌
芥川は高校球児のひたむきさを愛した。校歌を作曲した高校(彼は校歌や社歌を100曲近く作曲した)が甲子園に出場したので、自分の曲が演奏されるかもと期待していたのに初戦で負けてしまった。NHKの番組でパートナーだった作詞家なかにし礼にこの口惜しさをぶつけると、「負けた方の校歌をやるべき」と事もなげに言った。
 「これはいい。確かにいい。健闘を讃え、敗者の歌をうたう。そうすれば、出場校全部の校歌が聞けるし、決勝戦の試合終了後だけ、敗者の歌の後に、優勝校の校歌をスタンド全員の大合唱で歌って、ともに祝ってあげればいい。」
ワイン通・食通・女性通(?)
 「フランスでは、よくワインを女性にたとえて批評するが……(略)……、若さを通り過ぎて老けに入る一歩手前のところが絶妙だと言われる。」
 「魚の料理に限らず、牛肉にしろ、果物にしろ、この理屈は同じことで、素材の味を本当に味わうためには、煮ごろ、焼きごろ、食べごろが何より大切である。」
 「美貌と言われる女性をよくよく観察すると、ただ単に目鼻立ちが整っておる、というだけの場合は、ほとんどないと言っていい。凄い美人になると、むしろどこか狂っていて、もう少し狂いそうなものなら、とんでもないことになる、という寸前でとまっているのがほとんどである。」

1989年(平成元年)逝去
 肺癌のため1月31日逝去、享年63。大正・昭和・平成を駆け抜けた(昭和は1926年12月25日―1989年1月7日)短かすぎる一生で、黛は「芥川也寸志の最後は壮烈な文化への戦死であった」と述べた。

参考文献
『ぷれりゅうど』芥川也寸志著(筑摩書房 1990年初版)

初  演:放送初演 1948年9月26日、NHKラジオ「現代日本の音楽」芥川也寸志指揮 東京フィルハーモニー交響楽団(初演時タイトル「交響的三楽章」)
ステージ初演 1950年10月26日、尾高尚忠指揮日本交響楽団(現NHK交響楽団)

楽器編成:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、ティンパニ、小太鼓、大太鼓、ピアノ、弦5部


黛 敏郎:バレエ音楽「舞楽(BUGAKU)」
松下 俊行(フルート)


■左と右の話
 秦の都だった咸陽、九つの王朝が都とした洛陽や旧奉天の瀋陽のように、中国の地名に良く見かける「陽」の文字。この字には「川の北側」の意味がある。古来人々が住みやすい地の条件は、水の便があって日当たりが良いところと決まっている。この条件を満たす地は、突き詰めて考えてみれば「東西に流れる川の北側」となる。それが「陽」である。
 この陽に人々が集まりやがて街ができる。権力を持つものが居と定めるのはこの街で最も日当たりが良いところ、すなわち北側の奥。北に居を定めるものは臣下に閲するとき、必然的に南を向く。「天子は南面す」……『易経』にある言葉がこれである。
 臣下は左右に分かれて控える。南面する天子から見て左側が東。日の昇る方角であり、こちらが上席なのは現代の相撲の世界をみても解ろう。すなわち東と左が一体となり、西と右の結びつきに対して優位となる。例えば左大臣の方が上席である。
 この考えは日本にも制度・文物共々そのまま伝わっている。雅楽の世界も勿論例外ではない。ここに「左楽・右楽」という一対のものがある。左楽は中国からダイレクトに伝わってきた音楽であるのに対し、右楽は朝鮮や渤海を通じてわが国にもたらされた。更には日本で独自に発達した音楽も、右楽に入れられている。中国より伝えられたものを「正式・正統なもの」として左に位置づけ、右楽はそれに比べ、ややくだけたものとの感覚があるのかもしれない。
 この音楽に合わせての舞が生まれる。この場合「左舞・右舞」となる。右といい左といっても、これは相対的な位置関係に過ぎない。すなわち両者が対になって初めて成立する関係であるから、いずれかの一方のみの舞で終わるということはなく、必ず左右一対の舞となって構成されるのである。古来舞楽はこうした由来も性格も異なるふたつの世界を一対に置き、対立ではなく対比の妙を以って演じられ続け、伝えられてきた。黛敏郎の『BUGAKU』を考える上で、この事はまず念頭におく必要がある。

■バランシンの事
 ここでバランシン(George Balanchine 1904・サンクトペテルブルク~1983・ニューヨーク―注1)なる稀代の振付家に触れなければならない。バランシンは革命前のロシアに生まれ、母親の影響下にあった幼児期よりピアノに習熟し(地方廻りであまり家にいない父親は作曲家だった)、10歳で舞踏学校へ入学したのを契機に、バレエ界の人となる。舞踏そのものの成績はぱっとしなかったが、ある機会に振付けを任されて、自己の才能を知ることになる。13歳で革命に遭い、20歳の折り(1924年)に曲折を経てパリに出る。斯界の大立役者たるディアギレフに出遭う事で、その後の人生が決定づけられたと言ってよい。彼の主宰するロシアバレエ団(バレエ・リュス)のバレエマスターとして斬新な振付けを以って一世を風靡する事となった。ストラヴィンスキーの『アポロの率いるミューズ』がバランシンの出世作となり、以後この作曲家との根強い交流の契機となった。
 ディアギレフの死後渡米。ハリウッドでミュージカルの振付けで成功するが、「純粋な」バレエを目指すこの振付家にとっては不本意な日々と言えた。1944年その彼にニューヨーク・シティ・バレエ設立の話が持ち上がり、ここで初めてアメリカでのバレエの基盤を完成させた。爾後米国に於けるバレエの発展はこの振付家の貢献による。ストラヴィンスキーの渡米後のバレエ音楽は、全てバランシンとの仕事の成果であり、『オルフェウス』や『アゴン』はとりわけ名高い。
 その赫々たる経歴によって米国舞踏界の重鎮となったバランシンが、ふたつの条件をつけて黛敏郎に作品を委嘱した。1960年の事である。それは雅楽の響きを主体とした作品である事と、ストーリーを持つ必要はない事の2点である。雅楽の響きを求めるという点については、バランシンの発案というよりは、渡米当初からの彼の援助者であった、リンカーン・カースティンの日本趣味によるものと言えなくはない。事実この企画は彼が推進した計画だった。(注2)
 ストーリーを伴わないバレエとは、謂わば「純粋な」舞踏となるが、若い時分には作曲家を志望さえした自らの素養から、音楽に於けるストーリー性や絵画的要素による制約を極力排除し、舞踏の純粋性を常に追及していたこの振付家にとっては、至極当然の事だった。「努めてバレエ的な音楽でなく、純粋な演奏会用の音楽のつもりで」「雅楽にみられるような、非常にデリケートな音と音とのからみあう、対位法的な音楽」にして欲しいというのが、米国滞在中の作曲者に直接伝えられた要望だった。

■作曲家と振付家の領域
 熟慮の末、黛敏郎がこの条件下で行き着いたのは、雅楽と舞踏との融合である舞楽だった。舞楽としての性格を考えれば左舞と右舞という、伝統的な構成による対照を際立たせたいと企図した筈である。先達である早坂文雄の作品『左方の舞と右方の舞』も当然念頭にあったろう(1958年に初演された彼の『涅槃交響曲』が早坂氏に捧げられている事を忘れてはならない)。
 雅楽といい舞楽と言うが、室内での演奏を基本とした純音楽的な雅楽と、屋外での舞を主体とする舞楽では、楽器の編成をひとつみても異なる。後者の場合は音量の無い絃楽器は用いられない。「管絃」のうち絃を欠き、左舞の場合は篳篥・龍笛・笙と打楽器のみで演奏される。更に右舞になると笙も省かれる。ここまで徹底して「伝統」を踏襲してしまうと、依頼者の意図した雅楽のデリケートな響きは勿論失われてしまう。とすれば、舞楽に於ける左右の舞という二部構成のスタイルを採用しつつ、雅楽の楽器編成を保って玄妙な響きを再現するという選択に至らざるを得なかった。だが、この選択によって作品は伝統的な制約を超えた普遍性持ち得たと言えるだろう。作曲者が『舞楽』ではなく、敢えて『BUGAKU』と名づけた意味もそこにある。

 第一部は雅楽に於ける音合わせに当たる「音取」の様式(注3)によって開始される。かなり忠実な再現と言えるが、5音音階(ペンタトニックス)こそ東洋の音との固定観念のある彼の地での評では、サイレンだとか猫の鳴き声だと書かれたと言う。現地のオーケストラが単に譜面を追って演奏しただけでは、本当にそんなものにしかならなかったかも知れない。その後は楽器が重なり、ピアノと打楽器による特徴的な旋律によって左舞的な要素(早拍子)が散りばめられた末に、楽筝の手である「閑掻」に基づくと思われるモチーフが現れる。高潮の果てにやがて次第に楽器が減り、開始の音量まで退潮して終わる。
 第二部は右舞の楽器編成を踏襲し、打楽器を主体として音楽が進む。やがて笛(オーボエやピッコロ)による旋律が繰返されるが、これは本来右舞ではなく、左舞に属する『蘭陵王』に由来し、原曲をかなり忠実に再現している。例えば突然ピッコロに現れる諧謔的なフレーズは、非常に現代的な印象を与えるが、これは原曲を忠実に模した結果である。このように作曲者は素材となる音楽が「左舞」「右舞」いずれに属するかにはこだわっていない。むしろそうした音楽の再現からは離れ、一対のスタイルの対照と雅楽の響きこそが関心の的であった事の証左と言えよう。
 もちろん第二部の音楽は第一部に比較すると、テンポや曲想にも「序破急」の要素が明確に示され、「右舞」的な要素に満ちている。締めくくりには第一部にあった「閑掻」の旋律が再現され、雄渾な終局を迎える展開となっている。

 さて、この音楽に対するバランシンの「作品」はどのようなものであったか? 万難を排して初演の前夜にようやくニューヨーク入りした黛敏郎は、文字通りのぶっつけ本番でそれを目の当たりにする事になる。
 朱と緑とで彩って単純化した舞楽の舞台は、音楽が始まっても暫しの間無人のまま。やがて現れたのは白タイツに唐傘型に広がったピンクのチュチュを着て、髪を東洋風に結い上げて簪をさした5人の女。そして同じ白タイツに直垂風の上衣をまとい、丁髷のカツラを乗せた5人の男である。「日本人が見れば、いろいろ文句も出てくるが、伝統的なバレエコスチュームと日本趣味とを、これだけ違和感無く調和させる事は並大抵ではなかったろう」と作曲者は書いている。
 実際の振付けはというと、例えば第二部の「急」では、女が片脚を男の肩の上まで上げたまま抱き合って傾斜したり、男にかかえられた女が観客の方に向かって両脚を大きく開いたり……といった場面が現れるなど、かなり思い切ったものだった。「思い切った」は「官能的な」と言えばまだしも品位を保てるが、いっそ「きわどい」の語に置き換えても良いだろう。これはこの作品に限った事ではなく、ストーリーに依存しないバランシンの振付けの特徴のひとつではあった。とはいえ、ニューヨーク・シティ・バレエに新作が乏しかった1963年のシーズン、『BUGAKU』の上演は毀誉褒貶に満ちたものとならざるを得なかったのである。

 黛敏郎はこうした振付けが自分の作品から導き出されるとは全く予期していなかった。そして「私たちが静謐の美と感じていたものに、思いもよらぬ官能の匂いを嗅ぎとったバランシンの鋭敏な感覚に、あらためて何か貴重なものを教えられた気がする」と述懐している。
 これを作曲家の真意と受け取るべきかどうかは難しい。生み出した作品が異国のオーケストラの演奏に委ねられ(既にここに違和感が生じる可能性は充分すぎるほどある。『BUGAKU』のようなデリケートな作品が、譜面だけで伝えられる情報には限りがあり過ぎる)、況してや異国趣味の衣装とこれ見よがしの露骨とさえ言える振付けとを突然見せ付けられれば、清浄な神域を土足で踏みにじられたと感じる事さえ想像に難くない。況してやそれは1200年以上も前に日本人が採り入れ、咀嚼し、ずっと磨き上げてきた左舞・右舞という、実際に神事にさえ深く関わってきたスタイルに基づく作品である。それを浅薄な「官能性」などで片付けられたくはないと考えても不思議はない。もしリハーサルに立会い、この実態を事前に知り得ていれば抗議もし、修正も試みたかも知れない。だが全ては後の祭りだった。作品はこの初演の3年後の1966年に第15回尾高賞を受賞しているが、バランシンの振り付けを含めた作品として捉えれば、日本での評価とは裏腹に、作曲者の胸中には忸怩たる思いがあっても不思議はない。
 彼はバランシンとの間で次なるバレエ……ことさらに日本的ではないバレエ……が計画されており、どんな振付けがなされるかが楽しみだとほのめかしている。だがこれが実現する事は結局なかった。

 一方の振付家はどうか? バランシンは死後すぐに伝記がまとめられている。400ページに上る浩瀚なその書にMayuzumiの名が登場するのは1回、しかも『BUGAKU』に関する記事ではない。振付家志望の若いダンサーが、自分の振付けに際して黛敏郎の曲を使った。バランシンにその感想を求める。
 「ひどいよ。あの曲はだめだ」「でも、あなたはマユズミがお好きなんじゃないんですか?」「そう昔はよかった。でも、もう彼の時代は終わったんだ」(注4)
 これは1973年、すなわち『BUGAKU』初演から10年後の会話である。この時対象となった黛敏郎の作品は不明だ。但し両者の亀裂が決定的であった事は容易に伺えよう。ふたりの間に何があったのか?は書かれていない。だがその齟齬の直接の契機が、10年前の『BUGAKU』初演時に既にあったと僕は考える。(注5)

 本来生まれも伝来のルートも異質な両者を、左右に分けつつも対比の妙によってひとつの世界を創り上げた日本人の智慧は、黛敏郎とバランシンという強烈な個性の間には、所詮成り立つものではなかったのだ。

(注1)バランシンはパリへの亡命後、ディアギレフの要請による改名で、本名はゲオルギイ・バランチヴァゼ(Georgy Balanchivadze)という。グルジア系の姓。
(注2)この前年の宮内庁楽部による雅楽の公演がニューヨークで行われており、バランシンやカースティンが雅楽を直接に知る契機となった。
(注3)雅楽の音取は演奏される曲目の調子によって、厳格なスタイルが決められており、これから奏される音楽の序曲にも相当する。舞楽の場合は舞人の入退場の際に奏される。この場合は「調子」と言う。
(注4)原文は以下の通りである。“Awful!”replies Balanchine.“The music is awful.”“But I Thought you liked Mayuzumi.”In 1963Balanchine had used mayuzmi's music for his ballet,Bugaku.“He used to be all right. Now he's passé”With a sniff and wave of the hand, Balanchinedismisses Mayuzmi.
(注5)因みに言えば、1983年に出版されたこの伝記のくだりを黛敏郎が生前に読む可能性は充分にあった。作曲家のコメントは残っていない。

参考文献
『雅楽入門』増本伎共子著(音楽之友社)
『Balanchine, a biography』
Bernard Taper(University of California Press)
『バランシン伝』長野由紀訳(新書館)
『バランシンとバレエ“BUGAKU”』
黛敏郎(音楽芸術1963年6月号)
『名曲解説全集7』“BUGAKU”の項
布施芳一(音楽之友社)
『音楽大事典』「雅楽」の項(平凡社)

初  演:1963年3月20日 ロバート・アーヴィング指揮 ニューヨーク・シティ・バレエ

楽器編成:フルート2、ピッコロ、オーボエ2、コールアングレ(3番オーボエ持ち替え)、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、シンバル、タムタム、木琴、鉄琴、鈴、ピアノ、ハープ、弦5部



ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
中條堅一郎(クラリネット)


 「春の祭典」(Le Sacre du Printemps(仏)、The Rite of Spring(英)、通称:ハルサイ)は、ロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽である。「春の祭典」という言葉の響きからは、華やかで賑やかなイメージが連想されるところだが、その内容は「春の祭祀」と訳したほうが適切ではなかろうかというくらい、「クラシック音楽」の枠からはみ出そうなほどセンセーショナルなものとなっている。私も、初めてこの曲を聴いたときの衝撃をはっきりと覚えている。そして、今ではハルサイを聴くと身体が勝手に反応してしまう、そのくらいこの曲に魅了されている。
 以下では、この「春の祭典」について、「楽しく、わかりやすく、そしてためになる(?)曲目解説」をめざして進めていきたい。

1 はじめに

バレエ音楽「春の祭典」について
 「春の祭典」は、1913年に完成し、同年5月29日にパリのシャンゼリゼ劇場にて初演された。
 この初演時の“大騒動”は今日でもよく知られており、これまでのバレエ作品とは全く異なる過激な内容に対し、パリの聴衆は激怒した。当時の新聞には「春の虐殺」(Le“Massacre”du Printemps)という見出しが躍るなど、一大スキャンダルにまでなったのだが、それはこれまでのバレエの伝統を破壊するものだと受け止められたからである。しかし、翌年の演奏会形式での再演では、純粋な音楽作品として大成功を収め、評価を確立するに至った。
 このバレエのあらすじは、以下に引用するようなストラヴィンスキー自身のアイディア(霊感とも言っている)を友人である画家ニコラス・レーリッヒに伝え、共に作り上げたものである。
 「突然、荘重な邪教徒の祭典という構想が頭に浮かんだ。輪を描いて座った長老たちがひとりの若い娘が死ぬまで踊るのを見守っていた。彼らは春の神の心を和らげるために彼女を犠牲にしていたのである……。」(ストラヴィンスキー『自伝』より)
 スコアには、「ストラヴィンスキーとレーリッヒによる2部からなるロシアの異教徒の情景」という副題が記されており、前半(第1部 大地礼賛)と後半(第2部 いけにえの儀式)の二部で構成されている。

ストラヴィンスキーについて
 ここでは、ストラヴィンスキーという人物を理解するに当たり、3つのポイントを挙げることにしよう。

(1)3つの作風
 ストラヴィンスキーは、ちょうど画家ピカソにおける「青の時代」、「バラ色の時代」といったように、人生の中で「原始主義時代(=肉感的な音響で、聴く者に興奮を喚起)」、「新古典主義時代(=バロック音楽へ回帰し、新しい普遍性を創造)」、「十二音技法時代(=オクターブ内の12の音を均等に使用)」という3つの作風を築いている。例えば、彼の作品でも「ペトルーシュカ(原始)」と「管楽器のための八重奏曲(新古典)」では、本当に同じ作曲家の作品なのか?と思ってしまうくらいに違っており、多彩で多様な作曲様式を持つ作曲家であったことが分かる。
 「春の祭典」は、このうち「原始主義時代」の末期頃に創作したもので、まさに原始主義音楽の頂点に位置するような“血沸き肉踊る作品”である。

(2)ディアギレフの存在
 ディアギレフ(1872―1929)は、ロシア・バレエ団の創設者として名高い芸術プロデューサーであり、名だたる作曲家に歴史に残るバレエ音楽の傑作を委嘱した。
 ストラヴィンスキーのバレエ三部作「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」は、いずれもディアギレフが彼に対し委嘱したものであり、まさにディアギレフあっての作品だといえよう。(ちなみに、ラヴェル「ダフニスとクロエ」、プーランク「牝鹿」もディアギレフの委嘱作品である。)

(3)師匠リムスキー=コルサコフ
 リムスキー=コルサコフ(1844―1908)は、「色彩的な管弦楽法の大家」と言われており、多くの作曲家から模範として称えられている存在である。管弦楽法とは、オーケストラの楽譜を書くための技法のことであり、例えば「かえるの歌」でも、管弦楽法の大家がオーケストラ用に編曲すると、驚くほど感動的な作品になる(はずである)。
 ストラヴィンスキーは、師匠の影響を非常に強く受けており、特にバレエ「火の鳥」においてそれを垣間見ることができる。しかし、この「春の祭典」では、さらにそこから一歩踏み込み、ロシアの民族音楽を取り込みながら、独自の世界を表現している。

2 「春の祭典」をもっと楽しむために

 さて、以下では「春の祭典」をよりいっそう楽しく聴いていただくための、いわば道案内的な内容で進めていくことにしたい。
~ 観て楽しむ~
 「春の祭典」の大きな特徴は、まず「楽器編成が巨大なこと」、そして「特殊楽器が活躍すること」ではないかと思う。舞台をご覧いただきたい。前半の2曲に比べ、ステージ上の人口密度も急激にアップしていることがお分かりいただけるだろう。そして、普段は見慣れないような楽器があることに気付かれるだろう。
 この「春の祭典」では、アルトフルートやバストランペットなど、一般には珍しい楽器が力強く印象的なソロを奏でるほか、バスクラリネットやコントラファゴットといった、普段は1本で十分な楽器が2本も使用されており、この曲の複雑な響きに一役買っている。特殊楽器に注目しながら聴くのもこの曲の楽しみのひとつである。
 そして、これら大編成オーケストラを束ねる指揮者にぜひご注目いただきたい。この複雑怪奇な曲をうまく“交通整理”するためには、高度な技術を要する。変拍子における指揮棒さばきは、まさに見モノである。近年、この「春の祭典」は、演奏時間も約33分と適当なことから、指揮者コンクールの課題曲に選ばれることもあるらしい(『のだめ』に登場する千秋真一もきっと振ったことだろう)。
~ 生演奏を楽しむ~
 「春の祭典」は、自宅のスピーカーで聴くよりもコンサートホールで生演奏を聴くことをぜひお薦めしたい曲である。本日は、怒涛の大爆音から静謐な弱音まで、オーケストラも頑張って演奏するので、どうかご堪能いただければと願っている。
 曲の詳細な構成と目安時間、聴きどころは、次のとおりである。

第1部 大地礼賛(16分)
1. 序奏(3分30秒)
ファゴットの怪しげな旋律から始まり、特殊楽器を含む様々な管楽器のソロが異様な雰囲気を醸し出す。
2. 春のきざし(3分20秒)
弦楽器による強烈な刻みから始まり、躍動感あふれる音楽が春のきざしを表現する。
3. 誘拐(1分15秒)
突如速い3拍子となり、変拍子も入り乱れる激しい音楽となる。演奏困難箇所のひとつ。
4. 春のロンド(3分45秒)
大小2つのクラリネットが「出た出た月が~♪」の歌に似た旋律を歌う。太古の春の雰囲気が漂う音楽である。
5. 敵の部族の遊戯(1分50秒)
春の雰囲気から一転して、胸騒ぎのするような音楽となる。雰囲気が異なる2つの旋律が、絡み合いながらも面白く展開されていく。
6. 長老の行進(1分)
低音のリズムに乗って、テューバが重々しい旋律を演奏する。
7. 長老の大地への口づけ(10秒)
突然静けさが訪れる。ここは長老(賢人)たちが大地を称えて拝むシーンである。
8. 大地の踊り(1分10秒)
ストラヴィンスキーの「生命が脈拍のある時存在するように、音楽はリズムのある時存在する」という言葉を端的に表した曲。静けさを打ち破る大太鼓のソロにつづいて、力強い3拍子のテンポに乗って大きなクライマックスを築く。

第2部 いけにえの儀式(17分)
1. 序奏(4分15秒)
極めて神妙で意味深な曲の始まりが、陰鬱な異教徒の夜を暗示する。大地が呼び覚まされ、いけにえの乙女をこれから選びださねばならないというシーンである。
2. 乙女の神秘的な踊り(3分15秒)
乙女たちが集まって、いけにえを選び出すシーン。ヴィオラによる美しい旋律にご注目を。終盤に登場する、弱音器をつけたトランペットの旋律が、いけにえが誰に決まったかを告げているかのようだ。
3. 選ばれしいけにえへの賛美(1分30秒)
11発の強打音の後、リズムと拍子が激しく変化し、恐怖に満ち満ちた曲が始まる。華麗なる指揮棒さばきにご注目いただきたい。
4. 祖先の召還(30秒)
いけにえを祭るために祖先の霊を呼び覚ますシーン。一種不気味なコラールである。
5. 祖先の儀式(3分15秒)
けだるく、ミステリアスな音楽が展開されていく。コールアングレ、アルトフルート、バストランペットのソロが、この曲の雰囲気を絶妙に醸し出す。
6. いけにえの踊り(4分15秒)
バスクラリネットのソロが呼び水となり、いけにえの苦悩と興奮を表現するような切迫したモチーフが奏される。最後は、一瞬の沈黙の後、踊り倒れたいけにえの乙女が神にささげられるシーンで幕を閉じる。

~ 演奏会後、ご自宅でも楽しむ~
もし、この演奏会で「春の祭典」が気に入ったら、もしくはあまりにひどくて口直ししたい(!)という場合は、ぜひご自宅でも鑑賞してみてはいかがだろうか。
巷には、「春の祭典」の名盤があふれているが、個人的には色彩豊かなピエール・ブーレーズ指揮クリーブランド管弦楽団のCDをお薦めしたい。また、映像資料としては、「Keeping Score」というシリーズで、ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団のDVDが頒布されている。詳しい解説もあり、楽しめる1枚である。

~ 最後に~
200回の節目の演奏に「春の祭典」を取り上げることとなり、演奏者冥利に尽きるというものである。
今日は、精一杯努めたい。本日の演奏をきっかけに、「春の祭典」とストラヴィンスキーにご興味を持っていただければこの上ない幸せである。

参考文献
『作曲家別名曲解説ライブラリー25 ストラヴィンスキー』(音楽之友社)
『ストラヴィンスキー 二十世紀音楽の鏡像』船山隆著(音楽之友社)
『ストラヴィンスキー』ヴォルフガング・デームリング著・長木誠司訳(音楽之友社)

初  演:1913年5月29日 ピエール・モントゥー指揮ヴァーツラフ・ニジンスキー振付によるロシア・バレエ団公演(パリ・シャンゼリゼ劇場にて)

楽器編成:フルート3(3番はピッコロ持ち替え)、ピッコロ、アルトフルート、オーボエ4(4番はコールアングレ持ち替え)、コールアングレ、クラリネット3(3番はバスクラリネット持ち替え)、Esクラリネット、バスクラリネット、ファゴット4(4番はコントラファゴット持ち替え)、コントラファゴット、ホルン8(7番・8番はワーグナーテューバ持ち替え)、トランペット4(4番はバストランペット持ち替え)、ピッコロトランペット、トロンボーン3、テューバ2、ティンパニ2、大太鼓、トライアングル、タンブリン、タムタム、ギロ、アンティークシンバル、弦5部

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