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曲目解説プログラムノート

武満 徹:トゥイル・バイ・トワイライト

古関 和典 (打楽器)

 Twill:あや織り Twilight:たそがれ ――――
 武満徹は、1930年10月8日東京生まれ。奇しくも本日が77回目の誕生日となる現代日本を代表する作曲家。

 いきなり個人的な話になるが、打楽器奏者としての私の武満作品との出会いは、大学時代、オーケストラが『スター・アイル(星・島)』を演奏しており、そのときであった。早稲田大学100周年を記念して書かれたこの作品は、単純な音楽的ユニットを複雑に展開させる、いわゆる「武満ワールド」が存分に展開されており、かなりの衝撃を受けたことを覚えている。私自身も「いつかはこの作品を演奏してみたい!」と思っていたが、4年で全員が交代してしまう学生オーケストラには、ゼロからこの曲を練習するだけの技術的余裕がなく、結局憧れだけを持ったまま、残念ながら演奏する機会がなかった。
 新響では、過去に、弦楽のための『ホゼイトレス』(作曲1959年)、『鳥は星型の庭に降りる』(同1977年)が演奏され、今回が3回目の演奏となる。個人的な印象では、作曲年代が後になればなるほど、より精緻で無駄の省かれた音楽になっていくような気がする(そして技術的な難しさも!)。

 『トゥイル・バイ・トワイライト』は、読売日本交響楽団の25周年のために委嘱・作曲された(初演は、本日のプログラムと同じ、マーラーの9番との組み合わせだった)。
同楽団ではこの他にも、新響でも昨年演奏した2人の作曲家、三善晃(『アン・ソワ・ランタン』)や猿谷紀郎(『ここに慰めはない(尾高賞受賞)』)らに委嘱・初演を行っている。
 この曲の作曲前年には、ギター曲「すべては薄明かりの中で All in Twilight 」が作曲されており、その曲の延長線上として、さらに友人モートン・フェルドマンの追悼の意味を込めて書かれたと言われる。モートン・フェルドマンは、武満と同じ時代を生きた現代アメリカの作曲家で、作曲前年の1987年に亡くなった。ジョン・ケージらと共にアメリカ前衛音楽の旗手を務め、彼の作品にも大きな影響を与えたという。
曲は、As-Bの2音で表される「ユニット」と呼ばれる音楽の一要素が、終始あや織りのように重ねられ、それが感情的にうねりのような起伏を作りながら展開していく。盛り上がりは大変に詩情豊かで、武満自身が「日没後の一瞬の華やぎ」と表現した「たそがれ」を表している。どこか映画音楽やドビュッシーの印象派の音楽のような感じがする。武満が後期作品の作風として特徴としていた、繊細で静謐でありながらも感情の起伏の激しい音楽の極致と言えるのではないだろうか。
 自身の初期の代表作でもある『弦楽のためのレクイエム』の響きの引用もところどころ聴かれ、友人であったフェルドマンへの追悼の意を表している。最後の、ジャズ風のコラールを連想させる大きなうねりで曲が盛り上がった後、かすかに聞こえる鍵盤打楽器が添えられた和音には、武満による祈りが込められているかのようである。
 ところで、私ども打楽器奏者としては、音程やリズムなど、特別に正確さを要求される武満作品は、非常にプレッシャーのかかるものである。この曲でも、奏法にはバチの種類や叩き方などに細かい指定があり、正確に演奏するためには、特別な練習や「慣れ」(=イメージトレーニング)が必要となる。また、特にこういった曲の場合、他のパートにとっても、打楽器がどこで鳴るかが自分の出るところのキッカケとなっている(「ガイド」と言います)場合が多いため、間違っても違うところで音を出してはならず、特に責任重大である。またこの曲にも、様々な打楽器が登場するが、特に写真のような「アンティーク・シンバル(クロタル)」が活躍する。新響でも、新たに2オクターヴの楽器を購入し、本日の演奏がデビューとなる。(維持会費による積立金を活用させていただきました。皆様ありがとうございました。)

 最後に武満の言葉。「正確で美しくて、心を込めた演奏が、一番嬉しい」
―――生誕77年のお祝いとして、本日はそのような演奏ができることを祈りつつ・・・。

初  演:1988年3月8日 ハインツ・レーグナー指揮、読売日本交響楽団
楽器編成:フルート4(2番ピッコロ持ち替え、3番4番アルトフルート持ち替え)、オーボエ3(3番コールアングレ持ち替え)、クラリネット4(2番Esクラリネット持ち替え、4番バスクラリネット持ち替え)、ファゴット3(3番コントラファゴット持ち替え)、ホルン4、ピッコロトランペット、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、打楽器5名(シンバルを載せたティンパニ、大太鼓、吊りシンバル3枚、グロッケンシュピール、アンティーク・シンバル、ヴィブラフォン、チャイム、タムタム3枚) 、チェレスタ、ピアノ、ハープ2、弦5部


マーラー:交響曲第9番 ニ長調

田川 接也(ファゴット)

特別な交響曲
 交響曲第9番は、しばしばグスタフ・マーラーの最高傑作と評されます。曲想の斬新さ、他の何物にも似ていない独自性、そして例えようのない深さと美しさ。怒ったかと思えば泣き、泣いたかと思えばせせら笑う。また怒鳴ったかと思えば、深い祈りに頭を垂れる。そんな多面性や複雑さを強固な意志が串刺しにして、長大な曲に見事な統一感が与えられています。なんとも不思議な、そして「凄い」曲なのです。
 また、この曲は何か「特別な」思いを演奏者にも聴衆にも抱かせる力を持っています。曲の複雑さ、難易度の高さゆえに、指揮者も楽員もしかるべき覚悟をもって演奏に臨まなければなりませんが、自分が聴衆としてコンサートホールに足を運ぶ時、演目がマーラーの9番であると、他の曲とは違う何か緊張感や高揚感のようなものを覚えるのも事実です。その特別さが何なのか?ひとことで言い表すことは非常に難しいですし、感じ方も人それぞれだと思います。それが何だったのか、皆様お一人お一人が終演後にもう一度思い起こしていただけると幸いです。
 ちなみに、作曲家で高名な評論家でもあった柴田南雄氏は、「マーラーの全交響曲、全歌曲集の中にあって、群を抜いた存在である。単に異彩を放っているという以上のものであり、これによって彼の創作活動の画竜点睛が成ったといっても過言ではない。その独自性に満ちた構造、大胆きわまる書法は、まさに大芸術家の生涯の絶頂期にのみ可能なものである」と、この曲へ惜しみない賛辞を贈っています。

グスタフ・マーラーとアルマ・マーラー
 マーラーの後期の交響曲を語る時に、妻アルマの存在を抜きにすることはできません。彼は19歳年下の若くて美しい妻を愛しており、彼女はマーラーの創作意欲の源でした。
 アルマ・シントラー(後のアルマ・マーラー)は1879年8月31日にウィーンで画家の娘として生を受けました。実父は早く亡くなりますが、継父も画家で、アルマは芸術的環境の中で自由に伸び伸びと成長。その美貌と才気で少女時代からウィーンの若い芸術家たちの心を捕らえてしまいます。その相手には彼女の作曲の師でもあったツェムリンスキーや画家クリムトの名前も挙がっています。
一方、グスタフ・マーラーは1860年7月7日、ボヘミア、イーグラウ近郊のカリシュトという小さな村に生まれました。兄弟が15人(といわれている)という大家族でしたが、兄弟のうち6人が病気のため早世しています。父は馭者から身を起こし、酒の蒸留所を営んでいました。知識欲旺盛な野心家で活力にあふれた人でしたが、病弱な妻を虐待し、暇さえあれば女中の尻を追いかけまわすという男でもありました。こうした多くの兄弟の夭折や複雑な家庭環境は、マーラーの人格や死生観に大きな影を落としているといわれます。そのマーラー少年は幼い頃から音楽的才能を発揮。それを知った父はすぐに専門的な音楽教育を受けさせます。彼の才能はすぐに開花し、めざましい速さで成長して、15歳でウィーン音楽院に入学しています。そんな天才的な能力を持ったマーラーでしたが、森の中をさまよって忘我状態になってしまうような、夢見がちで多感な少年でもあったようです。
 さて、この二人が出会ったのは1901年11月、ウィーンのとあるサロンの夕食会でのこと。当時マーラーは指揮者として既にウィーン宮廷歌劇場の音楽監督の座に就いていたので、アルマは彼のことを知っていました。ただし個人的な興味や関心は全くなく、紹介された時も別段「ときめき」を感じることはなかったようです。しかし、マーラーは若くて美しく、しかも才気溢れるアルマに一目惚れ。すぐにその席で歌劇場のリハーサルに彼女を招待します。
 初対面では小柄で偏屈そうなマーラーに特別な想いを抱かなかったアルマですが、まず歌劇場のリハーサルで彼の並外れた才能に驚嘆。音楽の才能や力量のみならず、あらゆる芸術に対する高い見識などに惹かれていき、彼の求愛を受け入れることになります。こうして彼女の気持ちを捕まえたマーラーですが、彼は彼で若いアルマとの結婚に不安を抱いていました。妹ユスティーネに「秋は春を手元に引きつけておく力があるのだろうか?」と漏らしていたように。
 そして、二人は1902年3月に結婚。マーラー41歳、アルマ22歳でした。すでにこの時アルマは第一子を身ごもっており、10月に長女を出産します。

9番目の交響曲と「第9交響曲」
 マーラーは結婚後、第6番以降の交響曲を作曲。その苛烈な性格ゆえウィーンの楽壇からは少しずつ疎んじられていくものの、妻と二人の幼子に囲まれ、しばし幸福な年月を過ごします。その幸福だった時間をとめてしまったのは,1907年7月の娘の死でした。毎年夏に訪れていた避暑地のマイエルニッヒで、ジフテリアのため、長女マリア・アンナを失ったのです。マーラー夫妻の悲しみと落胆は、いかばかりであったでしょうか? その上、娘を診た同じ医師から診察を受けたマーラーは、心臓に重大な疾患があることを宣告されます。
 この時、彼は「千人の交響曲」といわれる交響曲第8番の作曲をほぼ終えていましたが、巨大なエネルギーが外へ向かって放射される第8番と、それ以降の「大地の歌」、第9番などの内へ向かう曲想の違いを考えると、娘の死が作曲家マーラーにもたらした影響の大きさがうかがい知れます。またこの年は、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を辞任し、メトロポリタン歌劇場からのオファーを受け、新天地ニューヨークへ渡った年でもありました。1907年はマーラーにとって大きな転機の年となったのです。
 以後マーラーは秋から冬をニューヨークでの指揮活動、春から夏をヨーロッパでの作曲というライフサイクルで過ごします。翌1908年に9番目の交響曲として「大地の歌」の作曲に着手しますが、尊敬するベートーヴェンやブルックナーが第9番を最後の交響曲としていることにただならぬジンクスを感じたマーラーは「大地の歌」から第9番という番号を消してしまいます。ただし、この曲は青年期に書かれた歌曲の作風にかなり回帰しており、交響曲として番号が与えられなかったことが結果的に妥当だったかもしれません。
 こうして10番目に書かれた「第9番」は1909年の夏に南チロルのトブラッハで作曲されます。マーラーは前年に亡き子の思い出が残るマイエルニッヒを引き払い、夏の作曲に充てる避暑地をここへ移していました。第8番と「大地の歌」は声楽を伴う交響曲でしたが、この曲は純粋な器楽のみの世界へ戻っています。もちろん誰が見ても純然たる交響曲ですから、マーラーも第9番という名前を与えざるを得ません。
そしてわずか2ヶ月ほどで、マーラーはそのスケッチを終えます。曲の複雑さや独創性、完成度などを考えた時に、このわずかな期間で作られたことには誰もが驚くのではないでしょうか? その後、スケッチを持ってニューヨークへ戻ったマーラーは過酷なスケジュールの間を縫って仕上げと浄書に励み、1910年4月1日に完成させました。1909年11月から翌年3月までに40回以上の演奏会を指揮したことや彼の健康状態を考えると、その作曲は、まさに命を削るものだったと思います。

4つの楽章について
 この曲を構成している4つの楽章は「緩—急—急—緩」というシンメトリカル(対称的)に配置されており、第1楽章:ソナタ形式、第2楽章:スケルツォ、第3楽章:ロンド…といったそれまでの古典的な形式を踏襲しているように一見思われますが、踏襲したのは形式だけで、その内容は新ウィーン楽派へつながる斬新さに満ちています。新たな境地を拓こうとする意欲があふれています。
■第1楽章 ニ長調 アンダンテ・コモド
 どこからともなく聴こえてくるチェロのAの音とそれに呼応するホルンに導かれるハープで曲は始まる。さらにヴィオラのさざ波に乗って、第2ヴァイオリンがためらうように、そして夢見るように第1主題を奏でる。こうして静かに始まるが、曲は次第に高揚し、中間部では「最大の暴力をもって」と記されているように、最後の審判を想起させるような激しさでオーケストラが咆哮する。そして曲はまた静けさを取り戻し、静かに終わる。
■第2楽章 ハ長調 レントラー・スケルツォ
 ユーモラスでありながら非常に不気味な3拍子の舞曲。サン・サーンスの「死の舞踏」、すなわち骸骨の踊りを思わせる。本来明るく輝かしいはずのハ長調をこういう曲想で用いているのがいかにも皮肉っぽい。曲は、骸骨なら骨が外れてしまいそうなテンポに速度を上げるが、紆余曲折を経てまた元の少しゆったりしたテンポに戻り、最後はピッコロとコントラファゴットがすべてあざ笑うように締めくくる。
■第3楽章 イ短調 ロンド・ブルレスケ
 ブルレスケとは道化芝居のことであるが、「きわめて反抗的に」と記されているように、暴力的で激しい楽章。4楽章で弦楽器により深く感動的に奏でられるモチーフが、ここでは諧謔的に速いテンポで用いられているのが印象的である。このモチーフはトランペットに受け継がれ、慰めをもって美しく奏でられ、4楽章への布石となる。しばしの慰めと嘲笑が入り交じった後、また凶暴性を取り戻し、加速を続け、すべてを断ち切るように激しく終わる。
■第4楽章 変ニ長調 アダージョ
 この曲の白眉ともいえる楽章。この楽章が持っている深さや美しさは比類がない。第1・第2ヴァイオリンの緊張感をもったユニゾンで始まるが、すべての弦楽器が慈しみをもってこれを優しく迎え入れる。この楽章はただ美しいだけではなく、大きなエネルギーを持っている。曲は途中激しくうねり、何度かのクライマックスを経て、次第に安息へと向かう。そして最後のかすかな息づかいのように、ヴィオラがG-A♭-B♭-A♭という音型を奏で、彼方へ消え去って行く。

曲に込められた想い
 この曲は全体的に死のイメージが根底に流れていると思われていますが、作曲者の真意はわかりません。マーラーの信奉者であり積極的に彼の作品を取り上げ続けた指揮者、ウィレム・メンゲルベルクはマーラーのこの世への別れであると解釈していますが、本当にそうなのでしょうか? 当時マーラーには心臓の疾患もあり、死への不安があったことは事実でしょうが、彼はまったく生を諦めていなかったと思います。確かに健康状態は悪化していましたが、創作意欲はまったく衰えることなく、この曲の完成後、すぐに第10番の作曲に取りかかっています。結局、第10番は未完に終わり、完成した交響曲としては先人のジンクス通り、第9番が最後の曲となるのですが、それはまったくマーラーとしては不本意なことだったでしょう。ですので、第9番に関していえば、この世への決別という思いはなく、5番~6番~7番~8番~大地の歌…と作曲してきた帰結として、このような曲にならざるを得なかったのではないでしょうか?
 また、この曲が向かう先は「終わり」ではなく、「始まり」であると私は思っています。先に述べたシンメトリーな楽章の構成を考えた時、第2楽章と第3楽章の間で折り返したとすると、第1楽章の冒頭と第4楽章の最後が重なり合うことになりますね。この楽章配置が意味すること、最後のヴィオラのモチーフが冒頭にハープで奏でられたものの変形であることを考えると、そう思うのも不自然ではないでしょう。ヴィオラの最後の音が虚空へ消え去った後、遥か彼方から冒頭のチェロのAの音がかすかに聴こえてくるような気がするのは私だけではないと思います。
 しかしマーラーはこの世ではなく、他のものに別れを告げていました。この曲のスコアには自筆の書き込みがあります。まず、スケッチには「ああ、消え去った若き日よ! ああ、破れた愛よ!」と記されており、完成したスコアには「おお、美よ!愛よ! さらば!さらば!」と五線譜に書き綴っています。そう、彼がこの時別れを告げていたのは他ならぬアルマだったのです。マーラーにとってアルマは美の象徴であり、愛の対象でした。彼はアルマのことを本当に深く愛していたようですが、1907年の長女の死を境にアルマの気持ちは次第にマーラーから離れていったといわれています。実際にアルマが年下の若い建築家ワルター・グロピウスと恋に落ちるのは、第9番が完成した後の1910年夏のことですが、既にこの時マーラーは近い将来アルマが自分のもとを去って行くことを予感し、断腸の思いで別れを告げていたのです。

その後のこと
 引き続き並々ならぬ創作意欲を持っていたマーラーですが、彼の身体がそれを許してはくれませんでした。喉を細菌に侵されていたマーラーの健康状態は1911年が明けると、かなり悪化。細菌学の権威による治療を受けるため、4月にニューヨークからパリへ渡りますが、そこでは満足な治療が受けられませんでした。そこで、ウィーンから最も著名な医師を呼び寄せ、医師と共にウィーンへ帰ります。しかしマーラーの健康が回復することはありませんでした。1911年5月18日、ベートーヴェンと同じ激しい嵐の夜、モーツァルトの名前を二度呼んで、その音楽家はこの世を去りました。アルマの手記には臨終の床で「一本の指が掛け布団の上で指揮をしていた」と書かれており、彼が最後まで音楽家であり続けようとした執念が伝わってきます。そして、その亡骸は生前の希望通り、娘マリア・アンナの隣に埋葬されました。「大地の歌」と交響曲第9番の初演も果たせぬままに。
 一度グロピウスとの恋に落ちたアルマですが、マーラーへの愛情が冷めてしまったわけではなく、彼に最後まで付き添っていました。彼女の手記は次のように結ばれています。「私には彼の最後の様子は決して忘れられないし、死が近づいた時の彼の顔の立派さも瞼に焼きついている。彼の、永遠の価値あるものを求めるための闘争、俗事からの超越、真理に対する不退転の献身などは、いずれも聖者の生涯の生きた範例であった」。
 その後、アルマはさらに「恋多き女」としての人生を歩むことになります。1915年にグロピウスと再婚しますが、その2年前には画家のオスカー・ココシュカと熱愛。彼の代表作「風の花嫁」はアルマとココシュカ自身を描いたものといわれています。結局アルマはココシュカよりグロピウスを選んだわけですが、その関係も破綻し、離婚。11歳年下の作家、フランツ・ヴェルフェルと再々婚しました。
 アルマは非常に長命で、1964年12月にマーラーとの思い出の地、ニューヨークでその生涯を終えます。85歳でした。彼女は終生、アルマ・ヴェルフェル・マーラーと名乗っています。偉大な音楽家マーラーの妻であったことは生涯変わることなく、彼女の大きな誇りだったのでしょう。
 最後にまたマーラーに話を戻しましょう。彼自身が「やがて私の時代が来る」と予言したという話はあまりにも有名ですが、彼の音楽は生前から親交の厚かった、ブルーノ・ワルター、ウィレム・メンゲルベルク、オットー・クレンペラーらの大指揮者に受け継がれ、一時のナチからの弾圧を耐え忍び、1970〜1980年代に「マーラー・ブーム」として大輪の花を咲かせました。今ではブームも沈静化しましたが、オーケストラの重要なレパートリーとしてマーラーの作品は確固たる地位を得ています。
 少々気の早い話かもしれませんが、3年後の2010年はマーラーの生誕150年、翌2011年は没後100年にあたります。この2年間は「マーラー・イヤー」として、また世界中で彼の作品がたくさん取り上げられることになるのでしょうか? 天上のマーラーは「よしよし」と、ほくそ笑んでいるのか、はたまた「まだ俺の曲をやってるのか?古いなぁ」と顔をしかめているのか、ちょっと興味があります。


参考資料
アルマ・マーラー:グスタフ・マーラー~愛と苦悩の回想~(中公文庫)
船山 隆:マーラー(新潮文庫)
Frank Scheffer:I have lost touch with the world(JUXTA POSITIONS)

初演:1912年6月26日、ブルーノ・ワルター指揮 ウィーン・フィルハーモニー

楽器編成:ピッコロ、フルート4、オーボエ4、コールアングレ(4番オーボエ持替え)、クラリネット3、Esクラリネット、バスクラリネット、ファゴット4、コントラファゴット(4番ファゴット持替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ(2奏者)、大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングル、タムタム、グロッケンシュピール、低音の鐘3(音程指定)、ハープ、弦5部


第199回演奏会(2007.10)パンフレットより

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