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伊福部昭先生の思い出

巨星墜つ

都河 和彦(ヴァイオリン)


 昨年2月、伊福部昭先生が91歳で逝去された時は「ついに巨星墜つ」と悲しんだのだが時がたつにつれ、「長寿を全うされて幸せな人生だったのでは」との思いの方が勝ってきた。先生と同じ1914年生まれで互に親しかった作曲家、早坂文雄は41歳の若さで亡くなった。芥川也寸志、黛敏郎、石井眞木、池野成といった優秀な弟子達も先生より先に逝ってしまったが、先生は古希、喜寿、傘寿、米寿、卒寿等人生の節目を弟子達や新響を含む演奏家、ファンからコンサートやパーティーで祝福され、膨大な業績と偉大な功績に対しては紫綬褒章、勲三等瑞宝章、そして文化功労賞まで授与されたのだ。
 私が初めて伊福部作品に触れたのは新響創立20周年の1976年に芥川先生が発案された「日本の交響作品展」での「交響譚詩」で、伊福部先生に初めてお会いしたのは1980年4月「伊福部昭個展」のための練習に立ち会われた時(当時65歳)と記憶している。長身でステッキを持ち、蝶ネクタイ、黒い帽子、黒マント姿の「怪傑ゾロ」スタイルにびっくりした(晩年の先生は限りなくゴジラに似てこられたのだが)が、弟子の芥川先生に敬語を使うという暖かいお人柄に感激した(スコアの受け渡し等で尾山台のお宅に伺った新響団員達もご夫妻から丁重なおもてなしを受けたそうだ)。この27年前のコンサートで初演した「シンフォニア・タプカーラ(1979年改訂版)」には新響全団員が深く共感し、今まで14回も演奏してすっかり新響の「持ち曲」になった。
 その後、先生の古希、喜寿、傘寿、米寿等の折々に度々お会いしたが、2004年2月の文化功労賞受賞をお祝いするパーティーでの先生のスピーチは今でも鮮明に残っている。「昔、お上の命令で出征兵士を鼓舞する曲を書いた。今回、文化庁から『近々責任者が伺うのでよろしく』との電話があったので時節柄、イラクに出征する自衛隊員を鼓舞する曲を書けというのだな、困ったことになった、と眠れない夜が数日続いた。結局は『文化功労賞をお受け頂けないでしょうか?』との話でホッとした」というユーモア溢れるものだった。同年5月31日の「90歳『卒寿』を祝うバースデー・コンサート」(本名徹次指揮・日フィル@サントリー・ホール)が先生にお会いした最後になってしまったのだが、先生はプログラムの謝辞に「1935年作曲の日本狂詩曲は海外では評価されたが国内では国辱的と非難され、その後も私の作品は『時代遅れで純音楽には遠い』と酷評されてきた。しかし、1980年頃から何故か事情は少しづつ変わってきた」と書かれている。1980年といえばまさに、芥川・新響が「伊福部昭個展」を開催した年で、これをきっかけに先生の作品を数多く演奏するようになった。新響は伊福部作品の真価を世に知らしめるのに貢献した、と自負してよいのではないだろうか。
 葬儀後、ご遺族から香典返しとして送られてきたのは、4匹のかわいいゴジラの砂糖菓子と、側面に先生の筆跡で「日本狂詩曲・伊福部昭」と刻まれた花瓶で、我が家の家宝になっている。先生には、先に逝った弟子や新響団員達と天国で酒を酌み交わして楽しく過ごされ、地上であくせくしている我々を暖かく見守って頂きたい、と思う。



「はあ、どうぞお好きなように」
岡本 明(ヴィオラ)


 伊福部先生は北海道ご出身ですが、以前「先祖は鳥取県の神社の禰宜だった」と先生から教えていただいた記憶があります。甥御さんの、東大教授の伊福部達さんによれば、「正確には先祖は因幡(現:鳥取県)の宇部神社の宮司です。伊福部家は1500年以上前からの因幡の豪族でした。伊福部家系図によりますと、初代は大国主命で、その後天皇家の釆女の家もつとめ勤め、日本国家の制定に尽くした武内宿禰などを輩出し、大和時代に繁栄したとのことです。伊福部昭は67代目になります。明治維新の後、当主の祖父(注:伊福部昭先生のお父様)が訳あって宮司を捨てて北海道に移り住みました」ということです。大国主命の子孫だなんて、すごいですね。
 近年にも伊福部家には多くの人材がおられます。お父上は北海道音更村の村長さんでした。一番上のお兄様は北海学園大学の建設工学科の教授でしたが、一方では『アイヌの熊祭り』を著すなどアイヌ文化への造詣も深かった方です(この本は絶版で、以前、出版元に問い合わせたところ、残りは3部しかないから手放せない、と断られてしまいました)。その息子さんが上記の伊福部達東大教授で、日本の福祉工学の第一人者で私も親しくさせていただいています。次兄でやはり科学技術者だった伊福部勲さんは早世されました。先生はこのお兄様のことはあまりお話になりませんでしたが、あるときぽつりと「兄はギターが上手くてね」とおっしゃったのを覚えています。名曲「交響譚詩」の第2楽章は、追悼として書かれたもので、二人で遊んだ夏祭りのお囃子が遠くから来て去っていく様子など、敬愛するお兄様への思い出にあふれる、哀しくも美しい曲です。
 先生の曲はどれも私たちの心に深く残ります。「伊福部昭には上記のような歴史的な背景があることから、日本を強く意識した作品がたくさん生まれたような気がします」とは、伊福部達さんの述懐です。
 さて、新響は先生の曲を芥川先生の指揮で何度も演奏させていただいていましたが、先生にはその練習にもよくおいでいただきました。いつもスーツに蝶ネクタイで、背を丸めて入ってこられました。私たちはそのときの伊福部先生と芥川先生の次のようなやり取りを忘れられません。

 芥川 ここのところの弾き方、これでいいですか。
 伊福部 はあ、大変結構でございます。
 芥川 もう少し大きい方がいいかな、と思うんですが。
 伊福部 いや、皆さんがおやりになりたいように。
 芥川 でも、作曲者として何かおっしゃってくださいよ。
 伊福部 はあ、どうぞお好きなように。
 芥川 ・・・・。

 その後に「それが指揮芸術というものですから」という一言が続いたと覚えている団員もいます。弟子の芥川先生にも、子供のような年齢の私たちにも、にこにこと一言一言、丁寧な言葉でお話になる伊福部先生でした。


第196回演奏会(2007.2)パンフレットより

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