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『青春の作曲家たち』のころ =「二つの祈り」の記憶と現在=

松下 俊行(フルート)

◆異色の作品=1983年の新交響楽団=
 別宮という姓は伊予国(現愛媛県)を本貫とするようだ。「べっく」と読む訳だが、宮の字を「く」と読む例を寡聞にして他に知らない(「ぐ」の例はあるが)。この姓を初めて目にしたのは大学生の時で、アンドレ・プレヴィン編『素顔のオーケストラ』という本によってだった。訳者は別宮貞徳(べっくさだのり)。その後同人が書いた、世の中にある翻訳の出鱈目ぶりを痛烈に斬りまくった本を何冊も読んだ。翻訳界の大御所として君臨する人らの「名訳」にさえ容赦なく批判を浴びせる姿勢は、まさに快刀乱麻。痛快といえる読後感を得た記憶がある。
 その後に別宮貞雄なる作曲家によるフルートソナタの譜面を手に入れ、特に公に演奏する当てもないまま、個人的に練習を重ねて今に至る。2楽章構成の短い曲で実質はソナチネと言うべき作品である。パリ留学中に作曲家の脳裡に突如飛来した旋律。その瞬間にこれはフルートの音楽と認識された…との自身のコメントが譜面巻末に載っていた。もっとも曲の短さと難易度とは無関係で、以来大いに手を焼き続けている。今回、この作曲家の第3交響曲を演奏するに当たり、同様の技術的難所や陥穽が諸所に散りばめられている事を思い知り、もう少し真面目にソナタに取組んで「免疫力」をつけておくべきだった、と反省している。この作曲家と上記の翻訳家が兄弟である事を知ったのはつい最近である。まぁ滅多にない姓だから、いずれそんな処であろうとは想像していたが。
 さて、新響が別宮貞雄氏の作品を初めて取り上げたのは1983年4月の第99回演奏会に於いての事である。1976年に日本の交響作品展によってサントリー音楽賞を受賞して以来、翌1977年を除く毎年4月のシーズンはこの企画による演奏会が芥川也寸志氏の指揮により行われていた。1983年は7回目に当たり『青春の作曲家たち』と銘打って5人の作曲家らの、初期作品をプログラムに載せた。演奏順に並べると
・小倉朗:交響組曲 イ短調(1941)
・松平頼則:南部子守唄を主題とするピアノと オルケストルの為の変奏曲(1939)
・戸田邦雄:交響幻想曲「伝説」(1943)
・渡辺浦人:交響組曲「野人」(1941)
・別宮貞雄:管弦楽のための「二つの祈り」
である。
 芥川氏はこのプラグラムの劈頭に「青春讃」として次の一文を寄せている。
 単に青春とは言えば,それはおそらく,心の問題であろう。50才の青春,60才の青春もないとはいえない。
 しかし,作曲家にとっての青春の---と言えば,それは丁度,人生における青春時代と同じく,再びかえることのない,貴重な,若き日々における創作生活を指すことになろう。 その時代の作品は,それから後の作曲家本人を,逆に創っていくことになる。
      小倉 朗   25才
      松平頼則  32才
      渡辺浦人   32才
      戸田邦雄   26才
      別宮貞雄   34才
日本の音楽史を刻み込む,それぞれ貴重な作品群である。

 この企画により『管弦楽のための二つの祈り』を新響は初体験したのである。
 その時のプログラム(パンフレット)を探し出したが、20ページに及ぶ大仰なもので、コロナ禍によってカネ詰まりの苦しい状況下にある現在からみると、途方もない贅沢に映る。が、その贅沢は体裁だけではなく、各曲について作曲者自身に解説させている内容によって徹底している。すなわち当時いまだ現役であった各作曲者の謦咳に触れる機会を新響は享受していた事を意味する。事実彼らは新響の練習過程にも幾度となく、入れ替わり立ち替わりに立ち会い、自作品に関する貴重な助言や示唆を団員に与えていたのである。これ以上の贅沢があろうか?
 またプログラムには作品ごとに作曲家自身の「解説」が掲載されている。本人が自作について語る内容が盛り込まれている点を考えても、この冊子は今や非常に貴重な文献となったが、現時点でも内容は公開されてはいない。そこで今回別宮貞雄氏の文章のみだが、ここに転載する事とした。当人も書いているが『~二つの祈り』がこの企画の俎上に上った経緯について、芥川氏の勘違い?を疑っている。そしてそれに半ば便乗する形で、自らの「青春」と結び付け、総括した一文は、作品の解説とは異なった趣を持つに至っているように思えるのである。
 以下に全文を引用する。

~わが音楽的青春始末~
 敗戦の翌年春,前年に行われなかった毎日コンクールがかわりにひらかれて,私の「管弦楽のための二章」が演奏され、入賞した。私が書いたはじめての作品,24才の時のものである。芥川さんは,これと「二つの祈り」とを混同されていて,実はこちらの方を上演したかったようなのだが,かんちがいをいいことに,それは勘弁していただいた。とても恥ずかしくて,今更皆様にきいていただく気にはなれない,何せ生まれてはじめてまとめた曲なのだから。
 私は音楽の道に入ったのがとてもおそかった。こどもの頃からレコードで名曲をきくことだけはしていたが,妹のみようみまねでピアノにさわったのが,中学も卒業する頃だし,旧制高校時代には趣味としては深入りするようになっていたが,池内友次郎先生の門をたたいたのは大学に入ってからである。物理学者になろうと志をかためたのと,並行してというのは変かもしれないが,たしかトーマス・マンの芸術論の影響で,あやふやな芸術とのつきあいにあきたらなくなったのである。
 デュボアの教科書で和声の初歩からはじめたのだが,もう昭和19年,戦いもたけなわで,なんとか和声法と対位法の初歩を型どおりおえる位で,敗戦。大学には研究生活の環境などとても整わないままに,好きな音楽に没頭した。それでも三月には大学は無事卒業した。そんな中で,先生にすすめられてとりくんだのが,件の作品である。生意気にも先生の指導に背をむけて幼稚な自己流に固執した記憶はある。大したものが出来るわけはないのだが,ただリディア調の旋律が少しばかりチャーミングであったからか,まさか入賞などまじめに考えてもいなかったのに,第2 位ということになった。これが私の人生の方向転換のきっかけである。受賞のことよりも,はじめて聞いた自分のオーケストラ作品の美しさ(別に大したことではなく,しかるべく書いてあれば,オーケストラというものはいい音を出すものである。)から受けた感銘,それが病みつきになったのだろう。
 翌昭和22年秋にも,コンクールに応募した。「管弦楽のための古典組曲」というもので,バッハの古典組曲と,ラヴェルの「クープランの墓」が着想のもとであった。音はとてもラヴェル風とまではゆかなかったが,いくらかフランス趣味であった。これでも第2位ということになった。そしてそのあとで小倉朗さんにされた批評が私を大きく変えたのである。彼にモダニズムの浅薄さと,ドイツ古典の偉大さについて,説教された。だがはじめは,私にとってこれはマイナスであった。あらためてベートーヴェンを勉強したりしたのだが,かえって曲が書けなくなった。その頃の作品で今のこっているのは歌曲だけである。
 大学の理学部をでてから,文学部美学科にいたのだが,そこも卒業となり,いよいよ自分の一生をどうするか,決心する必要があった。
 何とか作曲家になりたいと思った。それで昭和26年8月渡仏,パリ国立音楽院のフューグ科と作曲科に入った。そこいらの話は書けばきりがないが,要するに職人的技術を身につけた。それからミヨーから自由の尊さを学んだ。メシアンにも影響を受けた。3年いて、最後にまとめた作品は管弦楽のための「序奏とアレグロ」である。
 帰ってから室内楽作品発表会をしたりしていたが,翌々昭和31年,当時毎回日本人の作品を上演していた東京交響楽団の定期演奏会のために、書き下ろしたのが、この「二つの祈り」である。つまり私にとって4曲目の管弦楽作品になる。34才の時のもので,果たして青春の香が残っているかどうか,心もとないが私はひとより10年も後れて音楽の勉強を始めたのだから,そのことを考えれば,青春の作品といってもおかしくはないだろう。少くとも修業時代をしめくくる作品といえよう。5月10日斎藤秀雄先生の指揮で初演された。第1楽章は前奏曲,第2楽章はファンファーレ付のフーガとも考えられる。終わりのストレッタに重なる金管楽器の旋律はグレゴリオ聖歌のクレドによるものである。


 34歳時点での作品である事そのものは、本人が言うほど「青春」からかけ離れたものとは言えない。前記の「青春讃」に芥川氏は作曲当時の彼らの年齢を明記している訳だが、5人の作曲者のうち別宮氏を含む3人が30代を迎えてからの「初期作品」なのだ。違いがあるとすれば『管弦楽のための二つの祈り』は初演された昭和31(1956)年度の尾高賞を受賞している…すなわち他と比べ、当人にとって4作目とはいえ、極めて完成度の高い作品であったという点にあろう。

◆難物だった「フランスもの」と克服
 僕は前年1982年9月に新響入団。この第99回演奏会で初めて1番フルートを吹く機会を得たので(但し『~二つの祈り』には出ていない。残念)、この演奏会については今もかなり鮮明な記憶がある。最も驚いたのは最後に演奏された別宮氏の作品だけが、他の4曲とは全く異なる響きを持っていた事だ。簡単に言えばフランス的な響き。上記の解説中の言葉を借りれば「フランス趣味」ということになろうか?否、フランスで正統な教育を受け、研鑽を積んだ末に結実した作品なのだから、最早「趣味」はあり得ない。はっきりとした作曲者の志向が感じられ、オーケストレーションを含めて、一線を画していた。これをひとたび耳にしてしまうと、他の作品はどこか木に竹を接いだような、生硬さがどうしても気になった。これには理由もあった。ひとつは作品が成立した時代の違い、もうひとつは僕個人の音楽体験の薄さとでもいうものである。
 別宮氏の作品以外はすべて1940年前後のものであり、戦時下の日本社会に於ける音楽の位置づけを、反映したものとならざるを得なかった側面がある…とひとくくりに論じる事には慎重でありたい。が、そうした状況を度外視しても、例えば外交官としての海外勤務の中で、ハイデルベルグ大学で和声学・音楽学を聴講する機会を得た戸田邦雄氏以外は、みな日本国内で作曲を勉強せざるを得なかった人々である点で一致している。大雑把な括りをすれば明治以来、西洋音楽(とはいえドイツ音楽偏重である)を受容し、自身のものとすべく格闘した世代の作曲家群ともいえようか?或いは殊更に「日本的な」情緒を前面に押し出し、技法的に東西音楽の融合を図ろうとする試みも多々行われていた。そうした背景に基づいて創出された作品の数々から「こなれ切れないもの」を感じてしまいがちなのも無理はないのかもしれない。
 その一方で、こうした作品に対する僕自身の音楽経験も全く不足していたとしか言いようがない。そもそも日本人の手になる管弦楽作品というものに接する機会そのものが極めて限られており、況してや1940年代以前のそれを生の音で聴く事については絶望的な状況だった(だからこそそうした作品を積極的に取り上げて紹介した「芥川也寸志と新交響楽団」はサントリー音楽賞受賞に値する活動と評価されたのだ)。大学入学後に初めてオーケストラというものに接してからせいぜい5年という段階で、身の周りに溢れる古今の名作を吸収することに手一杯の状況。音楽全般に対する知識はもちろんのこと、作品に対する関心も、足もとの日本のものにまでは到底及ぶべくもなかった。はっきり言えばとるに足らぬものとの認識が常にあったので、我が国の先人らによる作品の価値が解るようになるまでには、その後新響での演奏体験を重ねることが不可欠であった。が、それでも相応の時間を必要とした事を白状しておこう。

 『管弦楽のための二つの祈り』は1956年に世に出ており、他の作品とは15年程度の開きがある。この15年間に日本社会が激変した事は周知の通りで、その様な状況下でこの作曲家は渡仏し、かの地で斯界の権威といえる大家らの下で修業を積んでいる。こんな機会を得られた人は他にはいない。それによって別宮氏に潜在していた「フランス趣味」が大きく発展・顕在化し、作品として確立したと考える必要があろう。それ故にこの作品は、従来の日本人の作品群から隔絶した響きと作風を示す異色の存在となった。当然の帰結と言えよう。
 そしてそのような異色性こそが、ヨーロッパの音楽一辺倒で経験を積む事に一心不乱だった僕個人の「未熟な」耳にとっても、他に比して非常に親近感があったのだと思わざるを得ない。簡単に言えば解りやすかったのだ。

 しかしながら…ここからがむしろ重要な点であろうが、5曲の中では別宮氏の『~二つの祈り』の演奏が、新響にとって最も困難だった。この時の録音は後にフォンテックよりCD化され、市販されている。それを聴くと判るのだが、演奏会を締めくくる最後の曲ながら、演奏の粗さがはっきり聴きとれるのである。「どうしたことか?」と思う訳だが、1980年代当時のアマチュアオーケストラは、概して「フランスもの」の演奏が下手だった。これもまた維新以来のドイツ偏重の音楽教育がもたらした明らかな弊害のひとつと今なら断言出来そうなところだ。つまりフランス音楽に対する経験知識の不足(はっきり「欠乏」というべきかもしれない)は明らかであったし、ドビュッシーやラヴェルの管弦楽作品に代表されるようなある種「曖昧模糊」とした音のイメージから、何となく芯のないもやもやとした発音を各楽器がしてしまい、総体として何ら輪郭のはっきりしない音の塊を仕上げてそれでよしとする結果に明け暮れていたように思う。
 そもそも絶え間なくフランスの作曲家の作品をプログラムに取り上げ、地道に研鑽を積むという姿勢では無かった。独墺の「名曲」を常にメインに据えて、やや食傷すると口直し程度にフランスの作品をやるという頻度。これではうまくいく筈もなく、当事者たちも本番を終えると「やっぱりフランスものはさまにならなかった」「むずかしい」という反省になり、独墺の作品に回帰してしまうのだ。だからそのさまにならないフランス音楽の難しさというものをどう克服したら良いのかの?解が得られぬ状況が長く続く事になったのだ。私見だが新響でもその状態のまま20世紀が終ってしまった感がある。
 つまり1983年当時の新響にとって『管弦楽のための二つの祈り』は芥川氏の情熱をもってしても、はっきり手に余る難物だったという事だ。演奏は他の曲のそれと同様に「直線的」に終始し、且つ輪郭を欠く曖昧模糊とした部分を含むという状況。となれば、もたらされた意に添わぬ結果は残念ながら当然の帰結で、本来違和感も意外性も無かったのである。

 爾来40年になろうとしている。別宮氏のこの作品の演奏も今回で3回目となる。新響の取り組み方も全く変わり、しっかり結果を出せるようになった。
 個人的なイメージでは2003年1月の第180回演奏会ではっきり潮目が変わったように感じている。このシーズンでは『牧神の午後への前奏曲』『牝鹿』『幻想交響曲』というフランス音楽の代表作を俎上に乗せるに当たり、指揮者の小松一彦氏がこれらの作品の演奏にふさわしい具体的奏法を細かく伝え、厳格に守るようオーケストラに求めたのだ。僕はこの当時演奏委員長の立場で、小松氏を新響に迎えるまでの様々な打合せの場に同席していたので、氏が上記の作品を選ぶ上でどのような考えを抱き、新響にアプローチしようと目論んでいるかを、かなり具体的に把握出来ていた。期待もした。そして指揮台に立つや、練習の現場で氏が絶えず求めたのは「明確な音」に徹して弾くことだった。「曖昧模糊」のイメージ先行とは真逆の形である。この厳然とした指導によって、確かに正しい結果をこのオーケストラから引き出したのだった。それ以後、パリを活動の本拠に据えた矢崎彦太郎氏を迎えて、その指導を受けるようにもなり、新響の「フランスもの」も少しずつ、でも着々とこなれたものになってきたように思う。これがこの20年ほどの間の事で、裏を返せば40年のうち前半20年は苦闘と模索の連続だったのである。

 1983年4月の演奏会を思い起こしてまず感じるのは「若さ」だ。取り上げた作品もすべて作曲家の若書き。演奏する団員の平均年齢も30代前半と低かった(現在の平均年齢は知りたくもない)ので、それを反映した結果として演奏自体にも若さがあった。この若さには未熟・無謀・直情・無分別…などの否定的な側面も確かにある。
 だが、いまになって当時の音を聴くと、その後の成熟に向かう過程で喪ってしまったかも知れないものにも気づく。なんと、それはまさにわが人生の軌跡にほかならないではないか(一向に成熟には向かわず、喪う一方ではあるが)との念を禁じ得ず。

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