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『新世界より』随想

松下俊行(フルート)

◆初めての交響曲
 満13歳の誕生日に、叔母から『新世界より』のLP版レコードを贈られた。
 いまやレコードやLP版とは何か?の説明さえ必要なご時世とも考えるが、煩雑なので割愛。今のCDの先祖と考えてもらうほかはない。レコードを聴くために、その2年ほど前、親にせがんで小型のステレオを買ってもらい、序曲や組曲や器楽の小品のレコードを集めて聴いていた末の事だ。1970年代初頭とあって世の中は高度成長期真っ只中。3C(車とクーラーとカラーTV)を備える事が中流家庭の目標となり、僕の周囲でもそれを達成した家庭が日増しに・・・・誇張ではない・・・・多くなっていった。だが末端公務員の父親のもたらす収入で暮らす我が家には3Cはひとつとして無く、住まいは6畳と4畳半二間の借家。そこにポータブルとはいえステレオが入り込んだ事は画期だったと言える。「ひとり息子の懇願とはいえ、ずい分無理をしてくれたのだな」。いま心底そう思って亡き両親の事を偲ぶ。


 現在では想像も難しいが、自宅で好きな時に音楽を聴くという環境を整える事自体が困難な時代だった。再生装置も音源たるレコードも極めて高価で、特にクラシック音楽愛好家はコンサートに通うか(これも相応にカネはかかるが、労音のような団体が安価な会費で演奏会を提供してもいた)、街の「名曲喫茶」で割高なコーヒーと引換えに終日リクエスト曲がかかるまで粘り続けるかしかない・・・・というような状況にあったのだ。流石に僕個人は名曲喫茶とは既に無縁の世代だが、学生時代を過ごした高田馬場駅間近にさえそうした店は確かに残っていた。
 そうした環境下で『新世界より』は、初めて意志に任せて適宜聴く事が出来る唯一の「交響曲」として、生活の中に位置づけられる存在となった。朝起きると通学前に全楽章聴き、帰宅するとまた頭から終わりまで聴く。そこには必ず
・恭しくレコードを取り出して回転するテーブルにセットし、静かに針を置く。
・聴き終わると針を上げてレコードをとり上げて盤面にブラシをかけ、疵がつかぬよう細心の注意を以てジャケットにしまう。

 という神聖な儀式が毎回伴った。いまこうして思い出して書いてみても本当に煩わしく且つ仰々しいと感じる。が、ひとたび疵がついたり埃が侵入したりすれば消えぬ雑音の原因となってしまうほどの繊細な音源だったから、当然の行為としてこれらを受け容れていた。更に、僕の場合は、この曲しか大掛かりな曲の音源が無いのだから、それは大事に扱ったのだった。


◆フルートと「新世界」
 「新世界」に浸る日常を送る一方で、わが人生に重大な転機が近づきつつあった。
 2年ほど前から既に樹脂製の横笛を吹いていて、授業で用いていたリコーダーと比べても圧倒的に演奏の自由度が高い事を知り、本格的にフルートを始めようと考えていたのだ。なけなしの小遣いを貯め続けて、この時期ようやくフルートを買うに何とか手が届く処まで来ていた。既に教則本の類は何種類も読破(?)して運指はほぼ覚え、脳内で楽器を操作する毎日(勉強手につかず)。あとは実物の楽器に触れればたちまちにメロディが吹ける・・・・という事はこの歳になるまでついぞ訪れぬ事になるのだが・・・・との期待に浮かれていた。
そして・・・・23,000円(大金である)をはたいて最廉価モデルながら念願の実物を手に入れる。いま思えばこれがその後の長い人生を狂わす(苦笑)契機となった訳だが、「新世界」からここに至る2ケ月弱の時間が、わがささやかな音楽生活の原点となった事は確かである。『新世界より』とフルートとの個人的な関わりは、思いのほか深いものであったと今更ながら実感している。


 楽器を入手する前はこの交響曲に出て来るフルートの音にひたすら神経を集中させる日々を送っていた・・・・第1楽章の中間部に、ホルンに続いて殊更に高音のフルートソロが聞こえる。「そうか、フルートを吹くという事はこうした音さえ出さねばならないのか!」とその音群の運指を調べると難しい指の動き。実際フルートは高音域の運指が他の音域に比較して極度に難しいのだが、またぞろそれを駆使して脳内で「演奏」を繰り返す。


 この困難なソロが、2番奏者のピッコロ持ち替えによって演奏する指定になっている事実を、高校生時代にミニチェアスコアを入手して初めて知った。ピッコロなら何の事もない指遣い(あくまで指遣いは)。「なぁんだ」だが、この件は今も悩む「フルートの高音域運指に関する諸問題」の入り口となった。
 今回の演奏会では若い指揮者を迎えるに当たってローテーションの若返りを図った関係で、老兵(僕の事。念のため)が2番フルートに回り、このソロを吹いている。実は全楽章を通じてピッコロはこの4小節のソロ部分でしか使用されない。10秒に満たないソロの為に特殊楽器を持って練習にも、もちろん本番にも臨まなければならないのだ。こうした場合の最大の懸念は、楽器を忘れる事(笑)。そしてウォームアップも無しにフルートから楽器を持ち替えるや、いきなりピッコロにとって出しにくくて割れやすい音からソロを吹かねばならない点にある。「なんでこんな楽器の遣い方をするかなぁ」と詮無い事ながらドボルザークの楽器用法には疑問を感じないでもない(同じようなピッコロの遣い方が第8番にもあるので)。そこにかつてこのソロをフルートで修練を積んだ事を無駄にするのも惜しい、との心根も頭をもたげ、「持ち替えをせずにフルートで吹いてしまおうか」という誘惑に駆られがちの日々を送る事になる。
 「今日は楽器を忘れたと言って、フルートでの演奏を既成事実化しようか」
 「どうせフルートで吹いても指揮者は気づくまい」

 「周囲は、その音さえ出てれば良い程度の関心しか持ち合わせていまい」
などなど、次々と湧いては消える黒い情念と逡巡との間に揺れ動く。でも気が弱いから、結局毎回ピッコロに持ち替えている自分に気づく、と白状しておこう。
 それでも自分には、ソロが終われば再びフルートに持ち替えて最後まで演奏すべき音がある。全曲を通じて第2楽章に8小節(うち1小節は八分音符1個のみ)の音しかないテューバ奏者や、第3楽章が唯一の出番のトライアングル奏者のように、作曲者の楽器用法に不条理・理不尽をより強く訴えかけるべき奏者らが沈黙している中で、結構なご身分の立場で何を言えようか!また自分にとって音楽生活の契機に位置づけられる作品だ。恨みなど到底覚えるべきものではない。


 叔母は当年86歳で健在。コロナ禍中とあって近くに住みながらもここ数年は顔を合わせる事も叶わずに来ている。そろそろ顔を見せに行くか、とこの文章を書いて、いま改めて思う。


◆「まどいせん」とは何か?
 『新世界より』第2楽章のテーマとなる旋律には歌詞が付され歌になっているのはご存知の通り。そもそもはドボルザークの弟子に当たるフィッシャー(William Arms Fisher/1861–1948)が"Goin' Home"と題して付けた歌詞を嚆矢とするようだ。我が邦ではなんとあの宮澤賢治が『種山が原(たねやまがはら)』とした歌詞を付したのが最初。1924(大正13)年の事というのは今回調べてみて知った。因みに『家路』の題名は同様に作詞を行った野上彰(のがみ・あきら/1909-1967)によるが、恐らくこの歌詞は殆ど知られていないのではないかと個人的には考える。現在最も知られ歌われているのは「遠き山に~」で始まる堀内敬三(ほりうち・ けいぞう/1897-1983)の、題名もそのままの『遠き山に日は落ちて』であろう。うろ覚えの人もおいでだろうから1番の詞を以下に示す。


 遠き山に 日は落ちて
 星は空を ちりばめぬ
 きょうのわざを なし終えて
 心軽(かろ)く 安らえば
 風は涼し この夕べ
 いざや 楽しき まどいせん

 
 改めて素晴らしい詞だなぁと思う(「星は~ちりばめぬ」は文法的におかしいのでは?との疑念はあるが)。
 さて、この歌詞については今でも忘れられない事がある。小学6年生の季節も今時分、林間学校の準備を進めていた。林間学校と言えばキャンプファイヤ、とくればそこで歌われる歌集・・・・という事で、今後も長く使用に耐えるものをとの意図からであろう、立派な歌集が出来た。当然この歌が収められていた。が、中身をみてびっくり。この歌詞最後の「まどいせん」が「まどいません」となっている!・・・・印刷業者がこれは「惑いません」の誤りだろうと気を利かせ「ま」の字を挿入したのだろうが立派な誤植。こういう人間味のある誤植は、変換ミスばかりが横行しがちな今や絶滅したが、厳格であるべき教師らの校正の網の目をくぐって生き残ってしまったのだった。流石にこのまま放置という訳にもいかず(そもそも字余りで歌えない)、我々は「ま」の字を抹消した。四半世紀も前の小学生が行った墨塗り教科書を実習する羽目となった訳だ。
 だが自分自身もこの印刷業者を嗤えない。「まどいせん」の意味も考えずにただ歌っていたのだから。やがて疑義も芽生えたが、「窓にどんな線が入っているのだろう?」程度の疑問が湧いたに過ぎない。長ずるに従い次第に多少の知恵もついて前後の文脈も考えられるようになった。挙句「これは『まどい船』という舟なのだ。夜舟に乗り、涼風に当たって楽しもうという事に違いない。何せ『いざや』というくらいだ。気合が入っている」・・・・との結論に至ったのが、前述の「まどいません」事件直前。当時は納涼船なるものの存在は知らなかった。また「まどい」の語を辞書で調べても「惑い」しか出て来ないので、「まどい船」とは漠然と夕涼み用に造られた舟を指す、辞書にも載らぬ未知の言葉なのだという解釈をせざるを得なかった。やはり賢い子供ではなかったなぁ(そして変わらぬままこんにちに至る)、とつくづく思うのである。
 その後古文というものを学ぶに及んで「~せん」⇒「~せむ」の語尾が意志を表している事を理解した。だが「まどい」の何たるかが解らなければ「まどい船」の段階からの進展はない。流石に古語辞典を引いてみた。正しくは旧仮名の「まどゐ(まとゐ)」で円居・団居の漢字を当てる。「人々が輪になって座ること。車座。団欒(だんらん)。」と大抵の辞書にあり、揃って『源氏物語』の「若菜・下」の用例を引いている。千年を超える歴史を持つ由緒ある言葉!「さあ、楽しい集まり(或いは団欒)を持とう」の意である。舟とは何のゆかりもなかった(苦笑・・・・当たり前)。
 堀内敬三は僕の出身高校の校歌も作詞していて、相応の親しみは持っていたつもりだったが、既存の旋律に歌詞を当てはめるという困難克服のため、こうした古語をも駆使してひとつの詩的世界を完結し得る力に、改めて畏敬の念を抱いた。またこの歌詞に限らず文語の意味は旧仮名遣いで表記しなければ意味も曖昧になると知った。本来「まどゐせむ」である。
 今回改めて気づいた事がある。この一節「いざや・楽しき・まどいせん」を歌った時「楽しき」ではなく「楽し」としていたのではないか?である。この「楽しき」部分の旋律の音は分割されていない。またこの歌詞は冒頭からずっと六音-五音の謂わば六五調の旋律線をなぞるが、最後の一節だけが七五調になっている。文意からも文法的にも「まどゐ」に係る連体形であるべきだが、歌唱の際にここだけリズムが崩れるのは避けがたく、意味を犠牲にしても「楽し」の終止形にしていたように思う。終止形にしてしまうと、「いざや~せん」という呼応関係が成り立たなくなるという難もあるが、どうせ続く「まどいせん」の意味がほぼ不明だから、文意など考えずに歌っていたというのが真相ではなかろうか?もっともこれは僕が通った埼玉県下の小学校ならではの慣習だった可能性も否めない・・・・と思って家人に訊いてみた。彼女も「楽し」の記憶があるといって、小学校教師だった両親の遺品の中から、昭和40年代の教育現場で使われていたとおぼしき歌集を探し出してきた。この歌のページをみると旋律線に合わせて「楽し」になっている!・・・・子供の頃の記憶の強靭さを思うべきか?或いはこの頃から文語の歌詞が軽視が始まり、歌い継がれてきたかつての唱歌が教科書から今もどんどん消えている流れに通じているのか?大人になって知る歌詞の文意のしみじみとした味わいを思うと、ひたすら残念の感去らず。

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