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新響のおカネの話などなど(前編)

小出 高明(ヴァイオリン)

 維持会員の皆様、いつも新交響楽団の活動をサポートいただき、誠にありがとうございます。まずは自己紹介を。

 小出高明と申します。東京生まれの博多育ち、現在は横浜市在住。当団には、1980年5月に入団し、1991年10月に一旦退団(海外転勤でマレーシアへ)しまして、帰国後1996年5月から今日に至るまで当団にてViolinを弾いております。仕事は某エネルギー関連会社に大学卒業後入社、何の因果か、会社では経理部門に配属になり、その後は海外事業関連の仕事をしており、経理とは離れております。入社当時は今のようなシステムはほとんどなく、すべて電卓(上司はそろばん)で、経理上のいろいろな計算を行い、原価計算、減価償却費計算、財務諸表などを作成していたので、新響でも財務を拝命しまして、長年マネージャーを務めておりましたが、昨年度で一担当に退き後進に道を譲りました。

 今回は、維持会の皆様に「新響のカネ」について寄稿するよう、維持会ニュース編集人より要請があり、誠に乱筆ながら、ペンをとりたいと思います。お金の話として私が語れるのは、維持会員の皆様よりいただいている貴重な会費の使途ではなく、通常会計での話です。それだけではあまりにも味気ないので、第一章「新響の財政」、第二章「マレーシアでのオケ事情=ただし1990年代前半」、第三章「帰国後の新響」と3部構成で臨みます。

■第一章「新響の財政」
 「金は天下の回り物」。現代社会において、お金の形態は劇的に変化=キャッシュレス化、電子マネー、バーコード、仮想通貨など、さまざまな形態がありますが、お金が回れば経済回る!それはオケの活動をはじめとする芸術活動も同じですね。
 オケで必要とするお金は、アマチュアオケの場合、純粋にオケの活動に関係する経費のみで、団員にオケから給与を支給する必要はありません。逆に新響では、団員が一定の活動経費(団運営の一般経費と演奏会にかかる経費負担)を団に上納(ノルマ)、それに外部チケットの売り上げで資金調達し、運営しております。コロナ下で入場者数に一定の制限を設けており、その分売り上げは制約を受けるので、ただでさえ赤字体質なところ、台所はさらに火の車であります。
 経費は、演奏会場利用料、指揮者・ソリスト(めったにないですが)の出演料から、楽器運搬や練習関連経費、楽譜経費、などです。大体どのプログラムでも同じようなレベル感ですが、数年前に取り上げた『トリスタンとイゾルデ』のような企画もの(超有名な指揮者・ソリスト等出演者(ギャラがめっちゃ高い)、合唱、特殊楽器必要、作曲家への委嘱など、でも来ない限り、発生経費のそれほど変化はありません(2割程度)。

 出ていく方の話はこれくらいで、収入について。上記の通りチケット売り上げがほとんどです。ほかの収入は、各演奏会プログラムへの広告掲載収入(最近は掲載していない)や、数年に1度「お座敷」といって依頼演奏会(不定期)に招待される時にいただく出演料が主なものです。また、ごくまれに外部からいただく助成金がありますが、これは審査が厳しい=企画性があるか、日本の文化・芸術の発展に寄与するものか、国際交流に多大な貢献をしている、など、なかなか厳しいハードルがあります。
 申請先によりガイドラインが異なるので、申請先が増えるだけ手間が増える=助成金担当者はたくさんの書類を作成し、財務はその予算立案で参画。また、企画が承認されて助成金決定されると、報告書提出、場合によっては監査があり、厳しいチェックがあります。特に国の機関からいただける場合はしっかりとした監査があり、3~4名で乗り込んできて、伝票帳票類をひっくり返し検算、ほぼ半日仕事になるので、会社休暇取って対応したりしました。バブル期など以前は今に比べればゆるくて、報告書だけ出してはいそれでおしまい、なんて感じでしたが、今は、きちんと助成金の対象経費が支払われているか、非対象経費は含まれていないか、対象経費でも当該年度以外のものは入っていないか、領収書が正しいものか、などなど厳しいものです。このように、財務管理は様々な業務が絡んでおりますが、お金の管理をしっかりしないと演奏会を安心して実施できないです。
 一般企業同様、新響も経費削減実施し演奏会を乗り切っておりますが、お客様に大勢ご来場いただくことでチケットがたくさん売れるのが一番効果的です。そのためには、皆様の心に残る、よい演奏をお届けすることが最善の策だと、日頃考えております。単純に有名な演目を取り上げること、超企画物を演奏すること、新響の伝統的ファンの方々にとって芥川先生の作品をはじめとする様々な日本人作曲家の演目を取り上げること、とお客様の興味は千差万別。それぞれのベクトルは異なるので、お客様皆様にとって共通して魅力的な企画というのはなかなか難しいですが、年に4回ある演奏会を活用してそういうことを実現していくと、財政も少しは好転するのではないか、と思います。
 私の某国友人に新響の件を話したところ、「ありえない、自分でお金負担して演奏するなんてLogicalではない。しかもいろいろボランティアで仕事もして、何の得にもならない。報酬得て演奏するのが普通だろう!」なんてご意見もありまして、たぶん世界的に見てこのようなアマチュアオケが星の数ほど存在する国は日本ぐらいなのでは?と思ってしまいます。他の国々のアマチュアオケ事情は、自身の経験以外は知らないのですが。そういうわけで、わたくしの心のふるさとマレーシアでのオケ体験を次章で紹介します。

■第二章「「マレーシアでのオケ事情=ただし1990年代前半」=
 社命でマレーシア国はKuala Lumpur(KL:マレーシア、省略形が多い)に1991年10月~1996年3月まで、家族帯同で駐在。マレーシアといえば、Twin Tower、ビーチリゾートのペナン島、ボルネオ島側だとコタキナバル、原油タンカーにとって重要なマラッカ海峡(お客さん連れて30回ぐらい行きました)、あたりが有名でしょうか。最近ではGACKTがKL居住していることで注目されていましたね。ほかにも2名程マレーシアに駐在した団員がおりますのも、何かの縁。
 常夏の国ですが、中東のようなとんでもない気温(53度=華氏ではない、の経験あり)にはならず23度~35度(雨期)あたりで推移し、7~8月は日本より過ごしやすく、よく母親が避暑にきていました=Dry Seasonで、それほど暑くないのですよ。King of FruitのDurianがおいしく(賛否あり、私はフリーク)、ほかのフルーツ:マンゴー、マンゴスティン、パパイヤ、スターフルーツ、バカでかい八朔みたいなの、また現地料理:マレー料理(サテ、ナシゴレン等)、中華系の料理(マレーシアで独自の発展)、インド料理等々、それぞれ基本Spicyで、もともとSpicy Foodは大好きだったのでドはまり。1歳未満で連れて行った娘も、帰国した時には、Spicy大好きになっていました。日本の辛口カレーに「なんだこれ?」みたいな顔していましたね。一時日本ではやったバクテー(中国語:肉骨茶)も美味です=日本に紹介されていたのとは異なるものでしたが、Healthyで、夜飲んだ後に、深夜皆で現地のGROに連れて行ってもらっていました。さてGROとは何でしょう?ご想像にお任せいたします。
 駐在して2か月ぐらいたった時、日本人(駐在員のご家族、ホルン奏者)から連絡があり、「KLでオケがあるけど手伝ってくれないか」、とのこと。なんと、元新響団員が指揮者をしていると。なんという偶然。この方はもともと商社マンで東南アジアを中心に仕事していたけど退職し自身でビジネスを立ち上げてマレーシアで仕事している傍ら、同国のアマオケで指揮を執ることになったようです(詳細は存じ上げないですが)。
 オケの名前はKL Symphony Orchestra(KLSO)。最初の練習が強烈な体験でした。自身のオケ経験で、チューニングなしで練習が始まったのは初めて。楽器が揃っていないのはある意味仕方ないけど、音合わせないのか!私は、現地の方のコンマスと二頭体制で一応コンマスを拝命したのですが、指揮者(O氏)に、小出「チューニングは?」、O氏「今までやったことない」。その時のコンマスPY氏「なにそれ?」、小出「Aの音のピッチ合わせるのがオケの始まりだけど。チューナーは?」、PY氏「なにそれ?」てなやり取りが5分ほどあり、私が持っていたチューナーでチューニングのやり方を指導=浸透するのに時間を要しましたね。多民族国家マレーシアらしく、マレー人、中国系マレーシア人、インド系マレーシア人、日本人、ユーラシアンといわれるポルトガルの末裔の方々、そして老若男女(多分小学生もいた)で構成されていて、KLSOのメンバーはおそらく60名程度、ほかの足りない楽器やメンバーは、マレーシア国内のペナン島のオケ、フィリピンやシンガポールからのプロの助っ人で何とか。
 では実力はどうかというと、鍛えがいのあるレベルでした。日本でいうと、普通の中学や高校のオケのレベルぐらいかと。皆さん、個人個人はそれなりに弾けるのですが、オケは別物なので、そこからいろいろ、僭越ながら教えていきました。弦楽器のセクション練習を受け持ったりして、指導すると音が変わるので、かなり面白かったですし、英語の練習にもなって、有意義でしたね。半年後に演奏会でしたが、最初のころはほとんど音楽にならなかったけど、指揮者が、”Mistake never mind! Please play!”と勇気づけ?だんだん音が出始め、そこに助っ人が加わり皆も弾けるようになってきて面白かったです。面白いといえば、だれも自分のミスを認めない!何か指摘すると、「私じゃない、こいつが悪い」と平気で他人のせいにする。いやいや、「あんたしか演奏していない場所だよ」、「いや、こいつが邪魔したから演奏できなかった。」とか、演奏直前まで、譜面製本していない人とか(ホチキスで左上端を止めたまま練習に参加)=譜めくりできないじゃん!、譜面を1ページずつクリアフォルダのあるファイルに入れている人=何も書けない・・・・等々、面白かったです。
 「音楽に国境はないなあ」、どこかの誰かに聞かせたいような感想を持ちました。その後、コンマスを一度引き受け(気が進まなかった、現地の方の邪魔はしたくなかった)、『運命』、『白鳥の湖』などを演奏する機会に恵まれました。KLのオケは、そのあと活動を休止したのですが、そういえば一度もFeeを払った記憶がないので、KL市がお金を出していたのか、誰かがボランティア?で負担していたのか、謎であります。
 そのほか、KL City Orchestra(KL市のオケだったかと:プロ)とか、Malaysia National Symphony Orchestra (MNSO:マレーシア国立交響楽団=完全にプロ)に参加。同国では国営石油会社Petronasが運営するMalaysia Philharmonic Orchestraが有名ですが、当時は存在してなくて、私は国立オケにエキストラでそれなりの回数出演=先方からの要請、会社に許可もらって出演しました(なんと、ギャラが出て。困ったぐらいの金額。ボランティアですから、とお断りしても決まりだから、とお役所のご回答。ありがたく頂戴し、一緒に働く現地社員との昼食会で使ったりしていました)。さすがにプロだけあってKLSOみたいなことはありませんでしたが、それでも主要楽器には助っ人参上。日本にあるようなホールもそれなりにありましたが、客席数が少ないので、World Trade Center(パシフィコ横浜を小さくしたようなもの)の大きなイベントルームで行われ、国立オケお披露目だったため、国のVIPが招待されており、その方々は最前列のソファー席に、場内アナウンスに先導されてご入場。これ、オケがスタンバイした後でしたね。それで、TV中継も入りまして、そしたら演奏中にTVカメラマンが演奏中に中継ルームと無線で話し始めて、指揮者が驚いて振り返っていましたね。お客様の反応はというと、演奏中は静かに聞いておられましたが、演奏終わって拍手が来て数秒で終わるのが面白かったです。この時の指揮者は前出のO氏だったのですが、曲がおわってカーテンコールみたいにするときに、拍手→静寂を繰り返していました。こうやって文化が根付くんだなと・・・・。
 こういう幾多の経験をマレーシアでできたのはとても幸せでしたし、駐在3年目にマレーシアに大学オケで後輩だったM氏が駐在できて、国立オケで一緒に演奏したりする奇遇もあったり、人の縁って面白いですよね。
現地のクラシック奏者とも仲良くなり、当時のマハティール首相夫人の前で室内楽オケ(20名ぐらい)で演奏できたのも思い出だし、日本人学校にそのメンバーで出向いて演奏会もしましたし、個人的に日本人会でも何度か演奏をしましたね。
 駐在期間中に、Violinの裏板が2度ほどはがれて(首が接しているところが)、日本に持ち帰ってもらって新響団員の陳さんのところで修理していただきました=それほど当時のエアコン事情はよくなかったです。高温多湿=鉛筆で紙に字が書けないぐらい湿気がある時もあり、しかも、結構停電があった=やたらと雷が落ちる(日本のすごい雷なんてかわいいもの)ので多かった=駐在後半、停電は改良されましたが、エアコンがそのたびに止まる。
 楽器以外では、会社で個室が与えられ(多分、今の会社の常務の部屋より大きい)、秘書もいて、Driverもついて、という具合に、会社人生で最高の時期をマレーシアで過ごしたこともあり、とても幸せな駐在生活でしたが、なんといっても現地の方々がとても素晴らしく、そのおかげでよい仕事をすることができたことが大きいです。
 医療は少々怖かった。日本の某医大卒業のお医者様が2名いたので何とかなりましたが、普通医者は患者に「いらっしゃいませ」って言わないよなあ、バリウム検査の時に、胃を膨らます錠剤飲んで20分も放置されないよなあ、血をとる時に新しい注射針を使うけど、それに息吹きかけ(フーフー)しないよなあ~、等々。
 そのような、楽しい4年5か月が残念ながら終わり日本に帰国しましたが、新響に再入団して新たなオケ人生が始まりました。

後編:第三章「帰国後の新響」は次号に掲載します。お楽しみに!

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