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「遅れて来た神童」の悲劇=メンデルスゾーン評価の変転を巡って=

松下 俊行(フルート)

ゲーテとメンデルスゾーン
 いま小林秀雄はどの程度読まれているのだろうか?ふとした折りに気づきしばし考え込んだ。
 自分の学生時代は(40年以上前)、彼の文章は漱石と並んで入試問題に引用される双璧だったから、読まずに済ませる事が出来ない存在だった。漱石と違ってまだ存命だったし、肉声にも新たな文章にも接する機会がいくらでもあった。旧制高校の教養主義によって人格形成された最後の世代が社会の上層部にいた時代で、読書の位置づけも今より遥かに重かったから、「知らない」「読んでいない」と口に出来ない雰囲気は、文理系を問わず学生間に共有されていたように思う。
 彼の数ある著作の中で、音楽愛好家のみならず広く読まれていたのが『モオツァルト』だった。大した分量ではないが、内容は晦渋で難解である。いま読み返してもそう感じるが、流石に当時に比べると文章の背景となる基本的な情報や知識も積みあがってはいるので理解すると同時に疑問や反論も湧くようになったが、20歳やそこらの経験では当時は全体をとにかく読んではみたという印象しかない。そしてその挙句は「哀しみは疾走する。涙は追いつけない」などという片言隻語を覚えるのみで、すべてを理解したような振りをしていたに過ぎない(少なくとも「読んでいない」と言わなくて済む)。今もこの語句だけは記憶にある、という人は多かろう。
 さて、その『モオツァルト』は、エッケルマンの『ゲーテとの対話』中にある、この大知識人のモーツァルト観から始まっている。ゲーテはこの作曲家の作品を独自の視点から愛好しているが、ベートーヴェンの作品に対しては冷淡だったという。次いである時メンデルスゾーンがゲーテにハ短調交響曲(『運命』である)をピアノで弾いて聞かせるくだりがある。やや長いが関係する全文を敢えて引く。


 メンデルスゾオンが、ゲエテにベエトオヴェンのハ短調シンフォニイをピアノで弾いてきかせた時、ゲエテは、部屋の暗い片隅に、雷神ユピテルのやうに坐つて、メンデルスゾオンが、ベエトオヴェンの話をするのを、いかにも不快さうに聞いてゐたさうであるが、やがて第一楽章が鳴りだすと、異常な昂奮がゲエテを捉へた。「人を驚かすだけだ、感動させるといふものぢやない、実に大げさだ」と言ひ、しばらくぶつぶつ口の中でつぶやいてゐたが、すつかり黙り込んでしまつた。長いことたつて、「たいへんなものだ。気違ひじみてゐる。まるで家が壊れさうだ。皆がいつしよにやつたら、いつたいどんなことになるだらう」。食卓につき、話が他の事になつても、彼は何やら口の中でぶつぶつつぶやいてゐた、といふ。


 『モオツァルト』の中で、作曲家フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ”Felix Mendelssohn Bartholdy “(1809~1847)が登場するのはここだけで、彼は端役に過ぎないし、何かの伏線となる存在でもない。だから大抵の人はこの一節は忘れてしまう。自分もそうだった。せいぜいが「そうか、ゲーテとメンデルスゾーンは同時代人だったのか-」程度の関心でこの部分を読み飛ばしていた。小林秀雄もゲーテの事は『ファウスト』第2部を苦吟中だった彼の年齢を80歳と明記しているものの、メンデルスゾーンについては何ら情報を呈示していない。高名な上にも高名な賢人に対して(臆することなく)ベートーヴェンを語り、その作品を敢えて披露して不興を買うメンデルスゾーン・・・・小林秀雄の筆致から、何となく既に作曲家として一家を成した壮年(と言っても彼は38歳で早世しているが)になってからの対話、と思い込んでいたのだ。
 ところが最近になって『メンデルスゾーン家の人々=三代のユダヤ人』(ハーバート・クッファーバーグ著・横溝 亮一訳 東京創元社1985年刊)を読み、この時のメンデルスゾーンの年齢を知って意外の感を得る。何と20歳である。祖父と孫の年齢差。この事実を知ってから『モオツァルト』の上記の挿話に対する個人的なイメージにも大きな変化が起きた事を、この本が購入以来30年以上我が家の書庫に死蔵されたままだった事実と共に白状しよう。同書によれば両者はこれが初対面ではない。最初に会ったのはメンデルスゾーンが12歳になったばかりの1821年11月の事で、フェリックス少年に作曲を教授していたツェルターの人脈によった。この時この少年は16日ほどもゲーテの許に滞在し(ゲーテが離さなかったのである)、毎日2時間はこの老人の求めに応じてピアノ(主にバッハや自作の曲)を弾いて聴かせた。その後も何度か対面の機会があったようだが、1830年5月、ロンドンでのデビューとなったイギリス旅行・・・・この折に『スコットランド』は着想されている・・・・から帰国した3か月後にゲーテの許を訪ねる。ゲーテの死の2年前でこれが最後の対面となった。既に作曲家としての名声を得ていたメンデルスゾーンはこの時、彼自身の作品の演奏を望むゲーテの意向とは別に、ベートーヴェンの作品を数多く弾いたという。つまり『モオツァルト』にある上記の逸話はこの時の事という訳である。ベートーヴェンは3年前に死んでいる。何故老人の機嫌を損ねる・・・・少なくとも困惑させるような行動に敢えて出たのだろうか?という疑問は当然湧くが、それ以前にゲーテともあろう大物が、初演(1808年)から既に20年以上を経過したこの時まで、『運命』という大作品を耳にした事が無かった?個人的にはこの疑問の方が大きい。よほど敬遠していたのだろうか?


神童と早熟
 さて、ここでモーツァルトとメンデルスゾーンの対比を考えてみるのも一興だろう。ふたりとも早熟の天才だった。モーツァルトの神童ぶりについては虚々実々の逸話を通じてあまねく知られている。が、その逸話は当時ヨーロッパ各地にいて、彼同様にその特技を売り込むべく旅をして回っていた多くの「神童たち」との差別化を図る為に生み出されたものもまた多いのである。少年モーツァルトは、そうしたライヴァルたちと、時に公開の場で持てる才能を競わされている。モーツァルトの今に至る名声の一部はいくつもの競争を勝ち抜いたその結果もたらされたと言っても過言ではない。
 だが・・・・メンデルスゾーンの早熟な天才ぶりには、大げさな虚飾はまずないと言って良い。というよりそうしたものを必要とする環境が無かった。父親はベルリンで銀行(『メンデルスゾーン銀行』・1939年まで存続した)を経営する実業家。裕福な家庭で教育は全て家庭教師によって行われる。語学・古典文学・絵画・ピアノと並行して8歳より作曲を前述のツェルターから学ぶ。そして家庭内でしばしばコンサートを開き、時には楽師を雇ってオーケストラを編成して自らの指揮で自作品を披露する機会もあった。これは同時にサロンであり、わざわざ旅をせずとも著名な知識人や芸術家が向こうから来ては、少年にあらゆる知的刺戟を与えてくれた。これが10代前半の話である。16歳で『弦楽八重奏変ホ長調』を作っているし、17歳では有名な『真夏の夜の夢』序曲を完成している。これらの作品の完成度とその創作年齢はモーツァルトに充分比肩しよう(個人的には超えていると確信している)。そして彼の音楽経歴の中でも、音楽史上でも大きな業績となる『マタイ受難曲』の蘇演。初演以来100余年。作曲家の歿後全く忘れ去られていたJ.S.バッハ畢竟の名大作を、音に蘇らせた仕事。これを20歳の時に成し遂げているのである(前述ゲーテとの最後の対面はこの直後だ)。その後活動拠点をそのバッハゆかりのライプツィヒに移して、26歳でゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、楽員の待遇改善と増員にも奔走して一流のオーケストラに育て上げた。指揮台にも立てばピアノの独奏も手掛け、例えばシューベルトの『グレイト』を初演するなど広範なレパートリーを築き上げた。早熟というに余りあろう。だがこの早熟さが彼の作品の性格を決定し、将来の悲劇にも通じてゆくのである。


姓と信仰の変転
 メンデルスゾーンの祖父はモーゼス”Moses” (1729~1786)という。デッサウに生まれたユダヤ人で、そのゲットー内に疎外されたまま終わる人生に見切りをつけて1743年14歳でベルリンに出る。そこで絹織物商の仕事の傍ら勉学に励み、著作を世に問うた事を契機にして哲学者としての名声を得、更には啓蒙家としてユダヤ人の解放運動にも奔走するに至る。こうしてモーゼスはドイツ人社会に認知された存在となったのである。あらゆる活動に於いて名を知られ始めたものの、モーゼスはユダヤ人の慣習としてそもそも姓を持っておらず、モーゼスの名に出身地のデッサウをつけて名乗っていた(国も時代も異なるが「レオナルド・ダ・ヴィンチ」のようなものだ)。必要に迫られた彼は、そこで父親の名メンデルに因んでその息子の意をドイツ語に直しそれを姓とする。「メンデルスゾーン”Mendelssohn”」という風変わりな姓はこうして生まれた。その後ドイツ社会に同化した彼だが56歳で世を去るまで、終生ユダヤ教徒という立場を捨てる事はなかった。
 その次男アブラハム”Abraham”(1776~1835)は前述の通り、はじめハンブルクで兄と共に銀行を開設。作曲家フェリックスもこの自由都市で生まれている。後に家族ともどもベルリンに移住し銀行経営を続けるが、富の蓄積と共に更にドイツ人社会との融和が必然となり、且つそれが社会動向としてもモーゼスの時代と比較してより進んだ。その結果として、義兄(妻の兄=これも改宗者)の強引ともとれる説得によりアブラハムはキリスト教への改宗を決意するに至る。そしてルター派へ改宗するのと同時に、義兄の姓をも受け容れて「バルトルディ"Bartholdy"」に改姓した。
 これらが完結した後に生まれた作曲家メンデルスゾーンは「ユダヤ人だがキリスト教徒で、姓はバルトルディ」という事になる。因みにこの父親は息子が名声を得ると「かつて私は父の子として知られていた。だが、今では息子の父親として知られている。」との言葉を残す。つまり「著名な哲学者の子にして、有名な作曲家の親という間の存在」と自虐とも言える自己評価を自認していた訳だ。傑出した才能の人ではなかった。
 さて息子フェリックスはこの自らの改姓について珍しく父親に反発する。祖父モーゼスへの敬慕が大きな理由としてあった。祖父が創始し、且つそのあらゆる著述活動によって社会的にも充分に認知されていたメンデルスゾーンの姓を消滅させたくないとの思いである。そして最終的には両方を我が姓とするべく、父親をも説得するに至るのである。すなわち「メンデルスゾーン バルトルディ」という並列の二重姓でこれが正式。アブラハムの子孫がこの二重姓を名乗る。その中にはこのふたつをハイフンでつないである一族もあるようだが、この作曲家の正式名は単なる並列で表記する。
 ドイツ人としての姓を設け、ユダヤ教をも捨てて同化を図る。三代50年にも亘るこの努力は、だが作曲家の死後半ば水泡に帰した。


作品の受難
 メンデルスゾーンの作品は主に英国で受け入れられ、彼の死後もその名声をしばらくの間保っていた。だが作品に対する評価は徐々に変わる。反ユダヤ主義が台頭し「ユダヤ人作曲家メンデルスゾーン」としての立ち位置に追いやられる。また作品そのものに於いても、既にベートーヴェンに始まった「思想(言葉)」や「理念」に基づく作品こそが正統との思潮が急速に高まり、それは着実にヴァーグナーに受け継がれてゆく。だが「神童」メンデルスゾーンには後継者はいない。そもそも彼の作品群は、その思潮に立ち向かえるほどの力を持ってはいなかったのである。才能の赴くままに曲を書く。それだけだった。神童は神童のまま完成したが、受け容れる社会はモーツァルトが生きた時代とは大きく変わっていたのだ。遅れて来た神童の悲劇である。
 そうした状況の中でヴァーグナーが書いた『音楽に於けるユダヤ性』なる論文が世に出る。
 メンデルスゾーンの4歳下で、生前交流のあったヴァーグナーはその中で、ユダヤ人芸術家としてメンデルスゾーンの才能を唯一の例外と認めながらも、決定的な鉄槌を下すのである。
 彼は、ユダヤ人も特別な才能がじゅうぶんあること、独自の立派で多様な文化を持つこと、高く、鋭敏な自尊心を持つことなどを示してくれた。…しかし、彼はこうした優れたものを自ら用いもせず、我々が芸術に期待する心の奥底に触れるような力を、ただの一度も我々に与えはしなかったのである…
 その後の歴史を俯瞰できる立場のクッファーバーグは前述の『メンデルスゾーン家の人々』の中でその末路を以下のように総括する。
 実際、ヴァーグナー支持派の興隆は、19世紀末におけるメンデルスゾーンの人気衰退の大きな要因のひとつであった。メンデルスゾーンの音楽は、清澄さ、形式性、清楚さといった古典的な感覚において…擁護派からも非難する側からも…ヴァーグナーの重量感たっぷりで長大な音楽劇のアンチテーゼとして評価されていた。
 ヴァーグナーと支持者たちはこうした作品をもって「未来の音楽」を創造していると信じていたのである。ドイツではヴァーグナーがメンデルスゾーン攻撃の急先鋒であり、結局それはナチ時代を通じてメンデルスゾーンの音楽が全く消滅してしまう事態へとつながっていった。

 ニーチェはメンデルスゾーンの音楽を、ベートーヴェンとヴァーグナーの作品群に挟まれた「愛すべき間奏」と評している。思想とドラマにむせ返るほどに満たされたふたりの大家の作品群に挟まれた「息抜き」とも言える位置づけだ。こうした軽視は、20世紀に入り反ユダヤ主義がドイツ社会を席捲すると決定的になった。
 ナチス政権時代、ユダヤ人作曲家の手になるという理由だけで作品の演奏は禁じられたし、特に1936年以降はドイツに於いては標準的な音楽の教科書からメンデルスゾーンの名は抹消され、楽譜は禁書扱いとなった。同じ年、ライプツィヒのゲヴァントハウス前に建てられていた彼の銅像は破壊されている(再建は2008年)。フェリックスの子孫の中には収容所送りになった者も出た。
 こうした呪縛が解け始めたのは戦後1960年代に入ってから。未だに作品の全集編纂は完結していない。メンデルスゾーンの作品復権の歴史はまだまだ浅いと言わざるを得ないのである。
 ゲーテはかつて7歳当時のモーツァルトを実見し演奏を聴いている。12歳のメンデルスゾーンとの初対面の折り、老ゲーテは目の前でピアノの腕前を見せる少年に、ちょうど30年前に死んだかつての神童の再来を見た。その才能と音楽はモーツァルトの天衣無縫を髣髴させ、且つそれを容易に超えるものとさえ感じられた事を述懐している。それはベートーヴェン以降の「思想」「理念」先行のものとは一線を画していた。
 この大賢人は、メンデルスゾーンのピアノで再現されたベートーヴェンの音楽に嫌悪を覚えながらも、音楽藝術が今後進まざるを得ず、最早とどめることも不可能となった奔流の行く末をはっきりと予見した。そしてそのような音楽をもう自分の耳が受け容れ切れぬ事を改めて知り、諦念に駆られていたかもしれない。
 それあってこそメンデルスゾーンが自身の作品を目前で弾く時のみ、最晩年のゲーテは心の平安を得ていたように僕は想像するのである。

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