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「東欧」から来たあの男

岩城 正昭(オーボエ)

 「東欧」という言い方はやめてくれ、と彼は私に言った。「チェコは中央ヨーロッパの国だ」

 私は1990年代前半に2年間、パリのとある研究所で仕事をしていた。着任後間もない時期、右も左もわからない私の世話をしてくれたのが、同じ研究室にいたチェコ人の男である。名をPといった。**①
 研究室は、チェコ人のPの他に、ルクセンブルク人、ドイツ人、ロシア国籍のタタール人、ルーマニア人、日本国籍なのだがフランスで生まれ育ったため日本語がおぼつかない日本人、そして何人かのフランス人で構成されていた。研究室のボスはトランシルヴァニア地方(ルーマニアとハンガリーの国境地帯)出身のユダヤ人女性。国籍が6回も変わったと言っていた。ヨーロッパの現代史に翻弄された人と言っても過言ではない。冷戦下のハンガリーからフランスに亡命してきた彼女には、映画が何本も作れるようなストーリーがあるのだが、またの機会に譲る。彼女は昨年惜しくも92歳で他界した。「野獣」とさえ呼ばれた気性の激しい人、と皆は言うが、私にはとても優しくしてくれた。
 研究室のメンバーは皆フランス語を話すのだが、当時の私は話せない(今もそうだが)。私に対してはとりあえず英語で話してくれるのだが、彼ら同士で話し始めるとフランス語になってしまうので、私には理解できない。「聞かれたくないことは、その人が理解できない言葉で話すんだよ」ということを知ったのはずいぶん後のことである。私は時として差別の対象となりうるマイノリティだったのだ。

 マイノリティはもちろん私だけではなかった。当時は、多様であることが重要な人権問題として今のように認識されていたわけではない。しかし該当する人々はその当時からもちろん普通にいた。研究室メンバーの中にもレズビアンの女性が1人とゲイの男性が1人いた。心優しい彼らは、異文化の地から来た私のつらい気持ちを親身になって理解しようとしてくれた。私が20年以上経った今でも「友」と感じることができるのはこの二人と、そしてPの三人だった。
 Pを含む多くの研究室メンバーは、この二人について時々心ない陰口を叩いたりもしていた。その一方で、みんなで連れ立って食堂で昼食をとり、そのあとは近所のカフェに行くのが毎日の習慣でもあった。研究室で飲んで語り合ったり誰かの家でパーティをやったり、仲良くしているのだが、同時に、「その場にいないと何を言われているかわからない。でもそんなの当たり前」であった。個人主義(良い意味で、である。念のため)の心の強さを感じる。**②
 ヨーロッパの人はプライバシーに踏み込んだり踏み込まれたりするのを嫌がる、とよく言われる。しかし私の印象ではちょっと違う感じがする。私の周囲にいた人たちは、平気でお互いに踏み込みあっていた。ただ日本と異なるように思えるのは、「ここまではいいけどここから先はだめ」をはっきり(微笑みながら、である)表現しているのでわかりやすい、というところだろうか。

 さて、本稿の主題のPである。今でも二年ごとに小さな研究集会で彼と会っているので、三人のうちで私にとって最も近い存在は彼だと言えるだろう。
 彼は6カ国語を話す。チェコ語、スロヴァキア語(彼はスロヴァキア出身である)、ロシア語(当然。チェコスロヴァキアは共産圏だった)、ドイツ語(徹底的なトレーニングを受けたと彼は言っていた)、英語(話せるのは当たり前らしい)、そしてフランス語である。ロシア人に向かって、ロシア語の単語(「カニエシュナ」と私には聞こえた)の使い方について彼が説教していたのには笑ったが、言語能力だけではなく知識と教養、そしてもちろん研究の能力も彼は飛び抜けて高かった。★①
 しかし90年代前半の、ベルリンの壁崩壊から3年ぐらいしか経っていない当時、彼は、西ヨーロッパ人から見れば「旧東側(の遅れた地域)から来た者」であった。つまり彼にとっては「東欧」という語はとりもなおさず「旧東側」という「差別」を意味していたのである。彼もまたマイノリティだった。

 壁崩壊前、チェコスロヴァキア(チェコとスロヴァキアはひとつの国だった)の極めて優秀な研究者だった彼は、当時としてはおそらく例外的に西側スイスへの留学を許された。初めて鉄道で西側への国境を越えた時に驚愕したと彼は私に言った。
 「乗ってる人たちが笑ってるんだよ」
 列車の中で人が笑って話をしている。これはそれまでの生活で彼が目にしたことがない光景だったそうである。
「俺はそのとき、自分が汚いものに思えて、車内のトイレに行って体を洗ったんだ」
 私はそれを聞いて涙が溢れてきたのを覚えている。周りでその話を聞いていた西ヨーロッパ人の同僚たちは「そんなわけねーだろ」と半ば嘲笑するような表情を浮かべていたが、私は彼の話を信じた。彼が私を「親友」と他人に紹介するようになったのは(そのたびに何となく照れ臭いのだが)その時以来かもしれない。
 彼は、極めて優秀な人にありがちな、ちょっと尖ったところのある性格でもあったが、私は全く気にしなかった。使う言語が私にとって不自由な外国語だったせいもあっただろう。ニュアンスまでを簡単に感じたり伝えたりすることができないのは気楽なものである。でも伝えたい気持ちがなぜか伝わることもある。不思議なものだ。

 彼はおよそあらゆる種類の文化に造詣が深かった。10代前半のころ、プラハの建築の歴史についての小論文コンクールで賞を取ったことがあるらしい。彼と街を歩くと面白い。「プラハの古い建築物には増築に増築を重ねているものが結構あるんだ。そうするとひとつの建築物にいくつものスタイルが共存するようになるんだ。面白いだろう?例えばこの建物はこっち側はゴシック様式だがこっち側はルネサンス様式だ。それはどういうわけかというと~」のように、さながら『ブラタモリ』である。
 彼がパリからプラハの研究所に戻り、私も日本に帰国したあと、日本-チェコの短期研究者交換プログラムを獲得して彼が来日したことがある(私もプラハを訪ねた)。彼を東大寺の大仏殿に連れて行った時のことが忘れられない。大仏殿の建物の中に入った瞬間、彼は凍りついたように立ちつくし、そのまま5分間ほども微動だにせず、圧倒されたように高い天井に見入っていた。
 「この建築物がここで作られたその時代、俺たちが作っていたのは石の小屋に毛が生えたようなものだったんだぜ」**③
 もちろんヨーロッパでも、立派な石造建築物が作られていたのだが、率直に感動している彼の、初めて目にするものに対するこの敬意に、私は心を打たれた。
 東京の私たちの研究所の近くの住宅街の、何の変哲もない街並みに彼は「なんでこんな素晴らしいところを教えてくれなかったんだ」と感動していたのも印象深かった。彼は私などの全く気付かないところに美を見出すようだった。
 余談だが、彼が私の家に来た時に、トイレから文字通り飛び出してきたことがあった。「この電子トイレは一体何だ?????」ウォシュレットのことである。私「電気で動くんだよ」、彼「違う。電気じゃない。電子トイレだ」。今となっては懐かしいエピソードである。
 ところで、チェコはピルスナービールの本場である。当然、彼は日本のビールに興味津々であった。あれこれ飲み比べたあとの彼の結論は、七福神のマークを指差して「これがダントツ」であった。彼の舌には、他との差が歴然だったそうだ。

 彼は優れた歌い手でもあった。彼はもちろん私がオーケストラでオーボエを吹くことを知っていたのだが、来日した時に彼が「これがチェコの音楽だ」と言ってわざわざ持ってきてくれたのは、スメタナでもドヴォルザークでもなく、ヤナーチェクのグラゴールミサのCDだった。難解ともいえるとっつきにくい曲で、私は最初、このCDを聴き通すことができなかったほどである。
 彼に、ドヴォルザークについてどう思うか聞いてみた。「優れた芸術家だ」という答えであった。
 ではスメタナは?と聞いてみた。「ボヘミアのフォークソングだよ」というのが彼の答えであった。モーツァルトを「BGMだ」と言い切ってしまう彼らしい、なんとなく皮肉を含んだ答えだな、とも思ったが、フォークソングとは民謡のことで、言われてみれば国民楽派というのはそこに根ざしたものだな、そこに目を向けないと本質を見失ってしまうのかも、と20年近く前の会話を今あらためてかみしめている。
 彼はその後、所属する研究所の所長になったはずなのだが、その後どうしているかと尋ねたところ、「面倒だから所長は辞めて研究室のボスに戻った」とのこと。所長になったら忙しくて研究ができなくなったらしい。彼にはそれが我慢できなかったのだろう。

 ごく最近、彼が交通事故にあったという知らせを受けた。命に別状はないということでほっとしながらもやはり心配で、「返信いらない。とにかく良くなることを願っている」というメールを出したところ、「自転車で時速40キロで走っていたら避けきれずトラックとぶつかった。でも肩を脱臼しただけだから、入院して手術するけど大丈夫」という返事。私は冗談交じりに「どうせ3日後には研究室にもどってるんだろ?」と返信した。3日後メールが来た。「研究室にいる」。頑丈なものである。**④

【脚注】
**①チェコ人でPといったらPavelだろうと思ったそこのあなた、違います。ふふ。

**②パリの人はよそよそしい、ということになっているが私は今ひとつ納得できない。少なくとも「見ず知らずの赤の他人」に対しては東京よりずっと親切だと感じる。あえて言えば、誰もが心のどこかで、自分は何らかの意味でマイノリティであるという意識を持っているようにも思う。まあそんな綺麗事で済まされるわけでもないのだが。

**③大仏殿は、西暦700年代に創建されたが、当初の建物は焼け落ちてしまったそうである。しかしその後何回か再建され、現在建っている大仏殿は創建から1000年近く後に建てられたものである。ただ、創建時は現在よりさらに大きかったとのこと。

**④日本の私たちの研究室に来ていた学生さんがある朝、「遅れてすみません。自転車で軽トラとぶつかって、僕は全然大丈夫だったんですけどトラックがへこんじゃって」と言いながら来たことがあった。頑丈な人は一定の頻度で世界中にいるらしい。

★①(編集人=ロシア語単位修得者=注)
“конечно”・・・通常は「カニェーシュナ」の表記か?「もちろん」「確かに」といった意味。
“Вы любите музыку?“”конечно”(音楽はお好きですか?/もちろん)の例文が岩波書店版露和辞典のこの語の項にある。

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