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ワーグナーの楽しみ方

品田 博之(クラリネット)


 今回のコンサートでワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を取り上げるのでそれに関しての記事を書くようにとの依頼がありました。前回のプログラム解説も執筆し、今回のプログラムも書く羽目になり、なぜ維持会の原稿まで書かねばならないのか「もういい加減にしてくれ」と、言いたいのをぐっとこらえ、今回の企画の首謀者なので致し方ないと引き受けたわけです。実はワーグナーについて気の利いたことを書くことは非常に難しいのです。ワーグナーを好きな人はもう徹底的に好きなので知識は膨大で理解は深い。中途半端なことを書いても馬鹿にされるのがおち。一方で、一通り聴いていて知っているけれど嫌いという方も結構います。今回のコンサートに、ワーグナーを絶対聴きたくない大嫌いな方はそもそも来られないので対象外にするとして、そのほかの、なんとなく嫌いとか食わず嫌いの方も含む、ワーグナー初心者の方むけに書いてみました。


1.ワーグナーの世界の入口
 まずは何の予備知識もなく、『ワルキューレの騎行』、『タンホイザー』序曲、『ニュールンベルクのマイスタージンガー』前奏曲を聴いてみましょう。前々回の維持会ニュースで好評(?)だったYouTubeのリンクをQRコード(HPではURL=準備中)で貼りますのでスマホで聴いてみてください。まずは『ワルキューレの騎行』、次に『タンホイザー』序曲、そして最後は『ニュールンベルクのマイスタージンガー』前奏曲です。いずれの曲も冒頭1分くらいをまず聴いてみましょう。いきなり引き込まれるものがあればワーグナー好きの素質ありです。 
 『ワルキューレの騎行』は、『地獄の黙示録』というベトナム戦争を題材にした映画の、戦闘ヘリによる爆撃シーンに使用されて一躍有名になった大変に勇壮な曲ですが、そもそもは戦死した英雄たちを、神々の住むワルハラ城に連れて行く役目の“戦乙女ワルキューレ”たち8人が、空を飛ぶ馬にまたがり集合する場面の音楽です。ですから戦争という点で共通する要素はあるわけです。中盤から歌も入り、テンションMAXでぶっ飛んでいますね。だいたい“戦乙女”という発想が常識はずれです。もともとは伝説として語り継がれてきた女性の英雄たちを指すわけですが“艦これ”をはじめとしてあり得ないものが美少女に結びついてゲームやアニメになったりしている今の時代のほうが受け入れやすいかもしれません。この手のゲームの発想は、さかのぼればワーグナーに行きつくともいえるかもしれません。ためしにワーグナーのオペラの登場人物、ブリュンヒルデ、ジークフリート、アルベリッヒなどをネットで検索してみてください。ゲームや同じようなにおいのするアニメ関係が多量に出てきます。きっとそれらの原作者・制作者はワーグナー好きなのです。
さて、次の『タンホイザー』序曲は打って変わって、宗教的な祈りの音楽で始まります。このオペラで根幹をなす『巡礼の合唱』の旋律で、オペラの中では「恩寵による救済」を表す主題です。そして1分11秒くらいから始まるチェロ、その後ヴァイオリンで奏される半音階進行のおもわず懺悔したくなるような旋律が「悔悟」の主題、その後トロンボーンで再び朗々と巡礼の合唱の主題が奏されます。なにか偉大で神聖なものを仰ぎ見るような気持になりませんでしょうか。ワーグナーの生涯を聞く限り、お世辞にも彼が宗教的で敬虔な人間だったとは思えないのですが、宗教的なものを音楽で表現する能力は並外れたものがあります。
 次は『ニュールンベルクのマイスタージンガー』に行きましょう。ひたすら健康的で祝典的な音楽で、これはこれで根拠はないけれど気持ちが大きくなってきませんでしょうか。ワーグナーの音楽はよく麻薬のようであると言われることがあります。聴く者の精神に直接作用して、自分(聴衆)があたかも偉大で神聖な存在になったかのような錯覚を起こさせるという意味です。ワーグナーの麻薬は、依存性はあるものの健康は損ないませんのでご安心ください。ただし政治家を志す方は気を付けてください。とんでもない先例がありますので。
 これらの三曲の冒頭を聴いて心動かされるものがあったら、できるだけよい音で聴ける環境で通して最後まで聴いてみましょう。はい、これであなたはもうワグネリアンです。


ワルキューレの騎行

タンホイザー

ニュールンベルクのマイスタージンガー


2.トリスタンとイゾルデのこと
 さて、今回のコンサートで演奏する『トリスタンとイゾルデ』を楽しむための予習に移りましょう。数多あるオペラで男女の恋愛沙汰が出てこないものはほとんどありません。しかし、延々4時間ものあいだ男女の主人公二名の性愛だけを純化して取り上げたオペラというのはこれだけかもしれません。中世ヨーロッパでまとめられた恋愛物語である『トリスタンとイズー物語』を題材とし、それをワーグナーは大幅に改編、登場人物3人(トリスタンとイゾルデそしてマルケ王)の心理描写に絞って前代未聞のオペラに仕立て上げました。簡単に粗筋を述べましょう。オペラの前史、つまり背景はそれなりに複雑です。


【背景】
 時代は中世。マルケ王が治めるコーンウォールはアイルランドの属国的な立場であったが、最近は反発し敵対していた。コーンウォールの騎士トリスタンとアイルランドの騎士モロルトが決闘してトリスタンがモロルトを討ち取り、その結果コーンウォールが勝利する。しかしモロルトの剣に塗られていた毒が傷口から入り、トリスタンは重篤な状態となる。そこで彼は、特別な医術でその解毒ができる敵国アイルランドの王女イゾルデのもとに、名を偽って治療のために訪れる。イゾルデは婚約者モロルトを討った騎士であることを見破り、仇を取るため瀕死のトリスタンに剣を振り下ろそうとするが、一目みて抑えがたいほど なにか“感じる”ものがあり、治療して本国に帰してしまう。
 一方、若くして妻を亡くして独り身だったコーンウォールのマルケ王は本心では望んではいないものの家臣たちの強い勧めにより、后として王女イゾルデを迎えることになる。コーンウォールとアイルランドの政略結婚の意味合いが強い。不本意にも、元敵国の王に嫁ぐためトリスタンの操る船に乗せられたイゾルデはコーンウォールに向かっている。
 このような状況の中でオペラが始まります。


 オペラを楽しむためには登場人物に感情移入することが必須ですので、ここでイゾルデとトリスタンの心境を想像してみましょう。現代ではちょっとどうかと思いますが、中世だからこそのものだと考えて想像力を巡らせてください。


【イゾルデ】
 属国だったコーンウォールに敗れ、婚約者を殺され、しかもその国の王と政略結婚させられようとしている。プライドはズタズタ。「なぜ、あの時トリスタンを殺さなかったのかしら。でも、トリスタンのことを思うとうずく(抱かれたい?!えっ?)。なぜ元敵国の王に嫁がねばならないの?おまけに迎えに来たのはあのトリスタン。あいつを殺して自分も死んでやる!」


【トリスタン】
 悲劇的な出生(父親は戦死、出生後すぐに母親も死んだ)から、自己を犠牲にする性格。身分を重んじ主君に忠誠を尽くす。「治療してもらう時、身分を悟られたと感じたのだがなぜイゾルデは救ってくれたのだろうか?そのときの眼差しの優しさと高貴さが忘れられない。ダメだダメだ、身分が違いすぎる。そんなことを考えるだけでも許されないことだ。主君マルケ王の后に迎えるのだ。それでいいのだ。」


 もうひとつ、ワーグナーのオペラを楽しむのに大事なのは“ライトモティーフ”をある程度知っておくことです。“ライトモティーフ”とはオペラに出てくる感情や概念やいろいろなモノ(たとえば剣、黄金、媚薬など)に特定のメロディーを当てはめたもので、そのメロディーをうまく組み合わせて各種の場面の状況を音楽で表現してゆく手法です。代表的なものをいくつかご紹介しておきましょう。いつもの通り、下記QRコード(HPではURL=準備中)をスマホで読めばYouTubeにあがっているライトモティーフを聴くことができます。トリスタンとイゾルデには50近くのライトモティーフがあるといわれていますが本日演奏される 第一幕前奏曲 第二幕、第三幕第三場を楽しむためには最低7個くらいを覚えていればとりあえずよいかと思います。なお、ライトモティーフの記録をワーグナーが残しているわけではなく後世の研究者が分析した結果なので、研究者によって同じ旋律に違った名称をつけています。


【主な示導動機(ライトモティーフ)の説明】
 第一は「憧れの動機」(譜例1)です。前奏曲の冒頭において、この動機の前半部分をチェロ、後半部分を木管(オーボエ、クラリネット、オーボエ)によって3回演奏されます。

fig244-1.png
譜例1 憧れの動機


 チェロの奏する前半をトリスタンまたは“憧憬”を表し、木管が奏する後半をイゾルデ または “欲望”を表すとも言われています。このライトモティーフは半音階で上昇して下降、きれいな協和音に解決するかと思いきや次の音がかぶさってさらに上昇してそのサイクルを繰り返していくというもので、トリスタンとイゾルデがお互いを求めあう憧憬(欲望)がいつまでたっても満たされずに高まっていく様子に通じると思われます。
第二は、「愛のまなざしの動機」(譜例2)、さらに続いて「愛の魔酒の動機」(譜例3)。これと同時に、とても意味ありげで不穏な「死の動機その2」(譜例4)も低音楽器により奏されています。この二つは同時に奏されることが多いです。なお「死の動機その1」もあるのですが、特に目立ってわかりやすく出てくるのは本日演奏しない第一幕なのでここでは省略します。もちろん二幕にも出ては来るのですが。


fig244-2.png
譜例2 愛のまなざしの動機


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譜例3 愛の魔酒の動機


fig244-4.png
譜例4 死の動機その2


 残りの厳選ライトモティーフ3点、まずは「光(昼)の動機」(譜例5)。これは少し説明が必要です。

fig244-5.png
譜例5 昼(光)の動機


トリスタンとイゾルデは媚薬を飲んでからはもうあっちの世界に行ってしまっており、昼、つまり社会や人間関係に縛られる世界を忌み嫌っています。そのためこのライトモティーフは「傲慢な(insolent)昼の動機」などとも呼ばれています。第2幕はこのライトモティーフで開始され、数えきれないほど何度もいろいろなところで繰り返されます。
 6個目は「至福の動機」(譜例6)または「まどろみの動機」とも呼ばれる、まったりとした幸福感に包まれたもので、愛の場面で絶頂を迎えたあと、その熱を冷ますような感じで出てくることが多いです。確かに“絶頂の後の至福”そんな感じです。

fig244-6.png
譜例6 至福(まどろみ)の動機


 最後は「愛の死の動機」(譜例7)です。これは終曲「イゾルデの愛の死」で冒頭から繰り返し演奏される忘れられない旋律であり、第二幕ではトリスタンとイゾルデの愛の場面でひたすら盛り上がり「死んでしまったほうがいいのだろうか」と歌う場面で初めて登場し、最後の絶頂まで繰り返し登場して高揚して行きます。

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譜例7 愛の死の動機


 以上7個のメロディーを頭に叩き込んでおいていただければ十分に楽しめるはずです。
 現在、世界最高のワーグナー指揮者(の一人)である飯守泰次郎と日本が誇る世界水準のソリストたちがお送りするワーグナーの最高傑作『トリスタンとイゾルデ』を存分にお楽しみ下さい。


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