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『部屋と食パンと編集長』

伊藤 真理子(ヴァイオリン)

 編集長は今晩の夜ごはんをコンビニで買った。
 この時期、手に取るのはいつも食パンだ。たまにシシャモを買うこともある。コンビニの店員さん達にはもう顔を覚えられて、「いつもありがとうございます」と釣り銭を渡された。
 つい1時間前までは会社員として、ミスを起こさないよう細心の注意を払い、鬼の形相で業務を実施していた。泥臭く電卓を叩き、数字を合わせる。
 華麗なる退社後、編集長は電車でスマートフォンを取り出し、受信メールをチェックする。
 職場ではスマートフォンを見られないので、この瞬間はちょっとドキドキする。
 とはいえ仕事後なので自分のキャパシティの残りは限られている。
 (『行列が出来る編集長』だな。行列が出来るのは私の脳内にだけど。)と、くだらない言葉を閃いたがそれを打ち消し、今晩のプログラム編集の実施事項を確認する。

 食パンを携えて自宅に帰る。
 食卓の椅子に座ってしまうともう立ち上がれないことは実証済なので、部屋の電気と、パソコンに電源を直ぐに入れる。「…ヴーム…」と重厚な雰囲気を発しながらパソコンが起動した。
 「中途半端な演奏会プログラムは作らない。それが新響プログラム編集の流儀だ。」と直接聞いたことはないが、自分が一般の客として新響の定期演奏会で手にした演奏会プログラムは衝撃の充実度であった。 その後新響に入団し、自分がプログラム編集を担当し4年になる。編集長を担当するのは編集チームの中で持ち回りだ。
 パソコンが起動した瞬間、腕…ではなく胃袋が鳴った。
 プログラムの曲目解説執筆者の方から、お伺い事項に対してのお返事メールが来ていた。
 部屋には誰もいないのに、編集長は「ありがとうございます!」と独り言を言い、頭を下げた。
 プログラム編集の実施内容は、演奏会本番までにプログラムが完成するようにスケジュールを決めるところから始まる。日数を逆算し、受領原稿の締め切り日や外部の印刷会社に原稿を提出する期日などを決定する。間に合うか、間に合わないか、ギリギリになると自分の首が絞まるので、穏やかな自分らしさを保てるように自問しながら決める。
 そして今回のページレイアウト案を考え、表紙に曲名を入力する。ここまでは序奏である。
 最初の盛り上がりが、曲目解説執筆者を募るところである。
 曲目解説執筆者は、自ら曲目を書いても良いと立候補して下さる方もいらっしゃるが、プログラム編集委員から、曲目解説を書いて頂きたい方にお願いする場合もある。もし、書いてくれる方がいなかったら、プログラム委員が自ら書かなくてはならない。
 いたいけなプログラム編集委員のメンバーが3人くらいで壁ドンしそうな勢いで、「曲目解説を書いてもらえませんか」とお願いする様子は、もう新響の風物詩と言っても良い。
 とはいえプログラム編集委員も人の子なので、声を掛ける人にも仕事や家族がいることを忘れていないし、有り体に言えば(執筆をお願いされたら迷惑かな~、すごい嫌われたらどうしよう。)と震えながら、ありったけの勇気を出して声をかけている。
 快く曲目解説の執筆を引き受けて下さる方は、本当に救いの神様のような存在である。
 プログラム編集委員にとっての神様的存在の方は他にもいらっしゃる。
 団内のプロの著作業の方には毎回校閲をして頂いてとても助かっている。
 また、ドイツ語のプロの専門家の方にはアドバイスを頂くことや詩の対訳をお願いすることもある。フランス語に造形が深い方からはフランス語の綴りのアクサンテギュの記号等もご確認頂くこともあり、新響は無比の人材がいらっしゃる。
 曲目解説執筆者が決定したら、原稿提出期限や執筆留意事項などを、執筆者を含め広くプログラム作成関係者に電子メールで送付するほか、外部の印刷会社には当団の編集スケジュールを送付する。
 また、プログラムに掲載する『団員名簿作成チェックシート』を直近の内容に修正し、シーズンの最初の全体練習でパートごとに配布。団員全員にお名前や所属している勤務地や学校名、運営委員の該当有無、正団員該当、賛助等をチェックして頂く。2週間後、回収したチェックシートをもとに、掲載用団員名簿に最新内容を反映させる。
 真夜中の編集長は食パンをトーストせずに貪り、パソコンデスクの前の椅子に座り、曲目解説の執筆者から提出して頂いた原稿を確認し、レイアウト用フォーマットに落とし込む。
 執筆者から原稿を受領した瞬間はとても嬉しい。自分が最初の読者になれるのは編集長ならではのやりがいである。
 原稿内容の数字を半角や全角に統一し、誤字脱字、改行の位置、楽器編成、参考文献の初版、著者等をインターネットで調べる。細々とした決まり事も委員内で共有されているので、それらを一つずつ確認していく。
 校閲をして頂いている方や点字プログラム担当委員に原稿内容を送付し、言い回しやプログラム内の整合性などもアドバイスを頂く。
 そして校閲して頂いた意見を原稿執筆者に確認して頂いて、編集を進めていく。編集長自ら原稿の写真を集めることもある。
 前述した掲載団員名簿を常に最新状態にするよう、新入団員や退団者の情報を団内人事担当に確認したり、新たに団内の運営に携わることになった方の情報をキャッチする。
 編集長は出来れば6時間は眠りたいので、関係者から受領した質問について返信の電子メールを作成し、内容に失礼の無いように見返した後で夜12時までに送信し、パソコンの電源を落とした。
 編集チームに入った時は編集のイロハのイも知らなかったが、優しいプログラムマネージャーに逐一編集技術を教えて頂きながら編集経験を積むことが出来た。
 また凄腕編集技術をお持ちの先輩がいらっしゃり、指揮者の先生のエッセイを頂く際に、先輩に手書き原稿をWordに文字起こしして頂いた時に、先生に確認された内容が素晴らしかったので、先生から「新響には出版社の方がいるのですか?」と聞かれたことがあった。
 指揮者の先生のエッセイがある場合の編集の流れは、シーズンの初めに運営委員長経由で先生に執筆をご依頼し、先生の手書き原稿をFAXで受領後に、Wordで原稿を入力し(以下「原稿おこし」と呼ぶ)、その原稿を先生にご確認頂く。
 団内でも内容を確認しつつ、並行し先生から修正箇所を手書き原稿で頂いたものをWordファイルに修正、再度先生に見て頂く。タイミングによっては先生練習の際に楽屋にお持ちし原稿をご確認頂くこともある。
 先生から、原稿に載せる写真を手交でお借りした時、ふんわりとパフュームが漂ってきてドキンとした。
原稿の了を頂いたら、曲目解説原稿と同様の編集作業に進む。
 一連の原稿確認が終了したら、プログラムのレイアウト案を外部の印刷会社に電子メールで送付する。数日後、印刷会社から初校が届くので、内容を確認し、再修正の期日とともに関係者に連絡する。新響の内部ウェブサイトにも掲載し、プログラム委員以外の団員にも確認頂く。先生のエッセイがある場合も、ここで先生に初校を見て頂く。
 各方面から連絡を頂いた内容を、編集長が初校に赤ペンで手書き記入しPDF化して関係者に送付。期日になったら、印刷会社に送付する。そして数日後に再校を受領、内容確認の上関係者に連絡し、OKになったら最終の原稿を印刷会社に提出。翌日最終稿を受領する。
 演奏会の10日前位に、印刷会社にお邪魔して出張校正を行う。関係者で原稿の最終チェックを行うものである。平日の夜に仕事帰りの社会人が集う。集中して原稿内容の確認を出張校正参加者全員で行い、この場でも修正点が挙がる。
 編集チームのきっちりとしているメンバーはいつも相互で助け合っている。
 出張校正で出た修正点を、赤ペンで手書き記入しPDF化して関係者に送付する。
 翌日、印刷会社から郵送で最終原稿を受領、修正点が反映されているか確認し、問題なければ校了となり印刷会社に必要部数を印刷依頼する。
 演奏会当日、出来上がったプログラムを手に取った時には嬉しい。
 駆け出しの頃の編集長は、関係者とのやり取りや調整で失敗して、「おい編集長なんてことだ!」的なお怒りのメールを真夜中に受信し、スマートフォンが手動で振動し、身体が文字通り飛び上がったことがある。
 駅構内で1時間立ち尽しながら返信をしたこともあるし、翌日の仕事の昼休みには先輩方とのランチを抜け出して、外の店で返信をしたこともあった。
 積み重ねた合計が身長分ほどの涙の食パンを食べたら、歴代の凄腕編集長に近づけるのだろうか。
 「金では買えない経験だ。」と呟き、今日も編集長はよく練られた食パンを平らげた。

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