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怒濤のエキストラ体験記=後編=

細越 敦子(維持会員)

(編集人記)
 昨年10月29日の依頼演奏会の際、欠員が生じた2番フルートパートのエキストラとして、維持会員の細越敦子さんにご参加戴きました。
 前号(練習開始までの経緯)に続き、練習日記と本番を記録した体験記後編をお送り致します。前編はこちら

◆9月3日(日)18:15~21:15 寺本先生・合奏
 初参加となったこの日は、依頼演奏会の為の2度目の合奏とのことだったが、驚くべき事に弦楽器群のアンサンブルが、普通のアマチュアオーケストラなら本番直前にやっとたどりつけるレヴェルの完成度だった。自分が関わった数々の団体なら当たり前の練習・・・・縦の線が合っていない関連パートを取り出して合わせるだとか、音程が合っていないパートの該当部分の音を逐一確かめるだとかといった内容ではない。従ってそれに類する指示もほとんどされない。
 管楽器の技量もさることながら、何が新響を新響たらしめ圧倒的に他のアマオケの追随を許さないかといえば弦楽器の一体感なのだと改めて感心した。ホールで聴くだけでは到底想像もできなかった衝撃である。
 普段からパートそれぞれでひとつの楽器のように合わせるコツをつかんでいるせいだろうが、どんな練習をどのぐらい続けるとこれほどまでにも弦楽器の音が揃うのだろう?
 そもそも技術が高い人が集まっている事もあるのだろうが、ひとつの楽器のように機能させるという目標・価値観を共有している事が他の音楽団体と決定的に違うのではないだろうか?価値観の共有なんて簡単に書いているが、本当はそれこそが難しいはず。技術が高い人なら逆に、無意識に歌いたいと思い、つい音量が大きくなったり音が際立ってしまったりすることもあるはず。そんな人が数人でもいればすぐにパートとしてでこぼこしてしまう。正直に言えばうまいプロオケでもそうした凸凹が目立たないように、弦楽器の後ろの方が「エア弾き」だったりする。ひとりひとりはアマチュアより断然上手いはずなのに、パートの一体化を優先して後ろの奏者は弾いていない・・・・サラリーマン的などと揶揄されてしまう理由はそういう所であるに違いない。結果が全てであるから。
 でも新響は弦楽器の後方も全員同じ価値観できっちり合わせようとしている。その目的意識の共有こそが素晴らしいし、音楽に真摯な姿勢に感じ、とてもすがすがしい。

 長らく新響をホールで聴いて来て、僭越ながら弦楽器の響きが変わったと感じたターニングポイントをいくつか思いだす。
 弦楽器は門外漢ながら「パートがひとつの楽器のよう」と感じた演奏会では、まず思いだせるのは2003年7月20日第182回演奏会、飯守泰次郎氏によるシューマンの交響曲第2番。
 「あ、オケの響きが変わった」。そうはっきりわかった。それが何によるのかその時はまだ分からなかったが、それまでは弦楽器が微妙に演奏のベクトルを合わせづらそうにしている時もままあったのに、その演奏会では向きが同じ方向なのがはっきり私にも「見えた」気がした。
 2004年1月18日第184回演奏会、故小松一彦氏によるフランクの交響曲ニ短調も忘れられない。フランク独特の転調の妙を指揮者とオーケストラが価値観を共有していた。指揮者の意図にオケが共感できることが、オケの響きを変えるのだ、変わったのだ、とこの時理解できた。
 そして2017年4月23日第237回演奏会の寺岡清高氏によるツェムリンスキーの交響詩『人魚姫』は完全に弦楽器セクションが一体化しており、練習するとここまでできるのか!と鳥肌が立つ感覚を今も思いだせる。

 そのように価値観を共有しているせいか、驚くことにボウイングや弓の使い方など技術的な注意や指導もほとんどされない。
「今のその音(音型)はちょっと軽い跳ねた感じがある。若干キャラクターが違う。もう少し静かで重々しい荘厳な音が欲しい。同じ音型のほかのパートも同様に」。
・・・・と、こんな抽象的な指示で当該パートはその箇所を直す上に、言われていない問題点をもその場その場で修正している。同じ音型がある管楽器パートも反応している。すごい。
 音程感覚や音楽の価値観を共有していると、ものすごく細かい部分の音の「形」や「スピード」などによってこそ、初めて可能となる表現ニュアンスの変更を当然のように求められるのか・・・・衝撃だった。ソロの部分でならまだわかるけれど、オーケストラの弦楽器のような集団に対してそうした指示がなされ、それにすぐ全体として反応できるなんて。しかも2回目の合奏で!う~むむむむ。
 そんな衝撃を受けつつも、周囲との調和を乱さない音を出そうと(つまりびびって)こそこそと吹いていたら練習終了後、大明神(『新響維持会ニュース』編集人にしてフルート首席のM氏の事)から「もっとはっきり吹け、そしてもっと小さくしろ」とのお達し。はっきり、でも小さく・・・・それって矛盾では?そうおっしゃる大明神はp吹いていても音量ありますよ・・・・音圧があるだけでなく・・・・でも、かすれるようなpppももちろん吹けるので言い返せない。
更には「小さい音を出す事と聞こえない事とは違う」「ボソボソと貧乏臭い音で吹くな」「いかにも『わたし自信がありません』という姿勢だ。背筋を伸ばせ!顔を上げろ!」と天の声が矢継ぎ早に飛んで来た。とほほな気分はこの後も当分続くのであった。

◆9月17日(日)15:00~17:30 大貫先生・初合奏
 台風接近による豪雨の中、某合宿所にて大貫先生の初めての合奏に参加。先生は「こういう大きな規模のオーケストラの指揮は今日が初めてです。」と謙遜されていたが、とても勉強になる合奏だった。曲ごとに背景と曲想を説明しながらこうして欲しいと細かい指示がなされた。例えば『怒りの日』のトランペットは、死者を墓場から甦らせ、全ての人間を審判する場面を表している」とのこと。また「Salva me」と出て来たところで「これは”save me”、助けて、です。あれ?死者を哀悼していたはずなのに、自分が『助けて』? 怒りの日におののいて『自分だけは助けて』と言っている訳ですね。」等々。人柄と深い造詣と分かり易い指揮ですぐにオケの信頼を得ていた印象。
 オーケストラだけの曲と歌が入る曲と決定的に違うのは、音符に言葉が割り振られる事だ。
 例えば先般『新響維持会ニュース』No.151にオーボエ首席の堀内さんが書かれていた空耳?の話のように、心を込めて「ロマン派のフライ盛り」を演奏しても、音そのものは意味を持たないので指揮者に心を読まれない限り「そこはフライ盛りではなく『暗い森だよ』」と突っ込まれる事は無い。
 でもある音型に歌詞が「Libera me(=Leave me)」と割り振られれば、その音形には(音やリズムが多少変わっても)「私を解き放ってください」という意味を持ち、同じ音型の楽器の音符も同じ意味を持ち、何度も繰返される。歌詞を頭の中で浮かべながら演奏すると音は違うだろうか?しかし楽器の音は言葉そのものを発音できないし、結局は合唱が歌っている音に形やスピード合わせることに注力する。
 ここは自分もオペラを演奏する上でいつも迷う部分である。場面やあらすじや歌詞はある程度知っている必要はあると思うが、歌とは違って歌詞を深く掘り下げて学べば楽器の演奏もうまく行くとも言えない。歌に似せること、アンサンブルすること。つまりクラリネットとのユニゾンでクラリネットの音を真似てひとつの楽器の音を目指すというイメージはあるにせよ、発音と音色の自在さという技術の問題に帰結してしまう。そうでなければ歌曲は歌手が楽器を演奏した方が名演になってしまうし、宗教曲はその宗教を信仰している宗教家が最高の演奏家になってしまう。そもそも作曲家が最高の演奏家でそれ以外の名演はなくなってしまう。クラシックが全世界で親しまれているのは宗教・人種を越えた普遍性があり思想や宗教を越えた部分で共感できる真理・法則があるからではないだろうか。
 2ndクラリネットと同じ音のユニゾンの音程が合わないところがあり、音色と発音の問題だと自覚する。クラリネットのような音を目指してみよう。アタックとスピード、口の中の響かせ方でもっと芯のある音を、という処だろうか。

◆10月15日(日)17:30~21:00大貫先生・合奏
 前回の課題を含め色々細かく練習したつもりだったが、3曲目”Offertorio”のフルート3本でのppp部分が音程崩壊していたと他パートから指摘があったとの旨、大明神からお叱り。同じ音型で3回、2ndフルートを挟んで1stフルートとピッコロはほぼユニゾン。その間に私が音を入れ和音を作る。両側にそれぞれ音程を合わせよう、小さい音で何とかしようとしすぎていて逆にうまく行っていない気がする。むしろ2ndが大き目に出すべきか。

◆10月22日(日)10:00~16:00大貫先生・合奏
 午前中はオケだけの練習で音程の確認が主体だった。”Offertorio”の冒頭チェロが受け持つ低音から高音域に至る朗々とした旋律の細かい音程調整にかなり時間をかけた(この部分については練習前にも自主的に集合してパート練習も行っていた。こうした地道な努力の姿を、本番までの間随所で見た)。
 2ndクラリネットとのユニゾンは合って来ているのだが、まだ不安がある。お互い相手に合わせようと探しに行って、すれ違ってしまうという状態に陥っている感じがする。
 午後はソリスト、合唱団とで歌合わせ。
 歌の曲はどんなソリストとご一緒できるか、いつもどきどきする。4人とも素晴らしい声だが、特に私は今回2ndフルートでメゾソプラノと重なる部分が多いので、素晴らしい声との共演は本当に幸せな瞬間だった。
 前回指摘を受けた”Offertorio”のフルート3本の箇所は注意したのでうまく行ったと思う。大明神は何やらpppの高音C(ハ音)の音程の運指を色々と試しておいでだ。フルートはキーが少ない構造上、他の木管楽器ほどには替え指は無いはずなのだが・・・・自身で開発しているのか。一体いくつ替え指を持っているのだろう?
 指揮者から何度か「短三度の音程は広く、長三度は狭くします。短三度、短三度…どこまで広げるんだ、となるのですが(笑)。」との指示。歌のソリストは旋律的音程の人が多いけれど、そういう風に捉えているのだな、と勉強になった。完全音程を広く!は、師匠の宮本明恭先生からもいつもレッスンで口酸っぱく言われているのだが。

◆10月28日(土)16:00~20:00 大貫先生G.P
 G.P.は「ゲネラル・プローベ」。すなわち演奏者全員が一堂に会した通し総練習である。
クラリネットとのユニゾンも解が見えた感あり。でもエキストラとして他のパートから厳しく見られているのだからもっと小さい音で上手く霞め、と言われて更に全体に小さくしようとしてみる。なんだかオケのピッチもすごく上がってしまっていて、合わせるのが辛い。
 そう思っていたら指揮者から第5曲”Agnus Dai”はソロもソプラノよりメゾソプラノの方が大きい方が良いので、フルートも2ndが大きい方が良いと言われて気持ち良く大きく吹いていたのだが、「指揮者はああ言ったがちゃんと芯のある音ならppで充分聴こえるはず。」と大明神から怒られてしまった。だって霞めとおっしゃったのに・・・・霞みながら芯がある音って???
 大明神はまだ替え指を探っていてイライラのご様子。1st奏者の苛立ちを上手く受止るのも2nd奏者の重要な役割と分かってはいるのだが、そこまでの余裕はこちらにもない。

◆10月29日(日)ステリハ~本番
 この日も台風直撃で大荒れだった。
 昨夜は練習後、大雨をついてフルートパート3名で呑みにいき頭が痛い。大した量では無かった筈だが。共に早稲田大学交響楽団出身のM氏とI嬢(ふたりは親子ほどの年齢差がある)の酒量は尋常ではない。品書きの端から銘柄順に二合単位で日本酒を注文しては次々に呑んでいくのだから、付合っていたら命がいくつあっても足りないと悟った。
G.P.時に注意された点について酔った勢いでM大明神に反論メールを出したら早朝から大量のお叱りメールが。第5曲の”Agnus Dai”の3本のソロは指揮者が指示したように2ndが大きい方がいいと私も思うと書いただけなのに・・・・。
 なかなかに心も足も重い本番だ。でも行かないと。会場に着いても大明神とは更にメールのやり取りが続く。動揺して吹けなくなってしまうので無視しようと決意。しかし他のパートからの反対論?を押し切って自分をエキストラとして推薦してくれた大明神に見捨てられたら孤立無援だよなぁ。追い詰められているなぁ。
 でも考えてみれば追い詰められた孤独な本番なんて、今までも何度もあった。
 ドヴォルザークの交響曲第8番も第4楽章のソロがとてつもないテンポになり辛かった(たいてい練習よりオケがつっぱしってしまう)。ベートーヴェン交響曲第4番の冒頭ppのB(変ロの音)だってむちゃくちゃ緊張した。『魔笛』のソロでは2時間散々吹いて来て疲れ切った所で吹かなければならず、コケたらオペラ台無しなのに精神力を試される極端に遅いテンポで、しかも全く同じフレーズを炎と水の魔法の2回。3回目の公演では疲れ果てて泣きそうだった。
 いいや。練習どおり自分がやるべき事を精一杯真摯にやれば。そう思うと妙に頭が冷めてくる。追い詰められた本番時に自分を支えてくれるのは、ここまでは練習したという確信と、もっと苦しい時もあったから今回もまぁ何とかなるさと言う謎の自信(=開き直り)をもたらせてくれる綱渡りの経験量らしい。
 ステリハではまず”Offertorio”冒頭のチェロの旋律を取り出して最終確認。男性合唱が少しばらばらしていたが「母音を大きくして」とベル・カント的な指示がされ全体が落ち着きまとまって行く。大明神も替え指は決定したらしくpppの高音Cが安定して冴えわたっている。
 私は大貫先生を信じて息のスピード上げて音量もだしてしまう。本番で指揮者を信じるって普通だもの。
 ああ、この楽器はこの規模のホールでこのぐらい息のスピードを上げて吹くと反応がいい楽器なのね。オケのピッチも練習より低めでピッチを上げなくて楽に演奏できる。周りは針のむしろどころか、クラリネットが後ろから1stも2ndもぐいぐい合わせてくれるのが分かる。大明神も”Agnus Dai”で音量落として下さったので楽に吹ける。少しご納得いただけたのか、ステリハが終わると声をかけられ、「ブレスをとる前でテンポが速くなる。次にブレスが長くてフレーズが切れてしまうところが1箇所、そして完全五度が狭い。それだけ注意して」と温和なアドヴァイス。死ぬ気で直訴して良かった(・・・・と思っていたら終演後この件に関し、「あれは時間切れで仕方なしに2番吹きのレヴェルに合わせて妥協の産物として言ってみただけ」と冷水を浴びせられ、一瞬殺意が芽生えた)。
楽屋で本番前の休憩時間ぎりぎりまでブレスの位置を変えたり、完全五度を広げたりと何度も確認。ステージ袖では本番中の冷静を期して、脳内で曲の難所を反芻した。
 そして本番。冒頭の合唱から実に感動的だった。本当に名曲である。音楽のスケール感、合唱部分もソリスト部分も全て鳴った時の響き、複数の声部の使い方、オーケストレーションの上手さ。本当に良く書けている。散々練習した末の本番中、しみじみ名曲と味わえる曲を演奏するのは本当に幸せである。

 そんなこんなでエキストラとしての疾風怒濤・波乱万丈の新響本番は無事終了した。
 吹っ切れて演奏できたこともあり、自分なりに得る所が多かった。散々叱られつつも大明神に音程もダイナミクスもpppのかすれるところまでついて行ってきっちり合わせられたのは自信になった。大明神がアタックや音の末尾、細かい音色の変化やニュアンスなど、本当に隅々まで気を配っているのが隣の席に座ってとても良くわかった。見習わなければと改めて思う。
 1stフルートが旋律で音程の幅を広げていても2ndはハーモニーを作る時は1stと破綻ができない範囲で支える他パート(例えばホルン)に寄り添って合わせる。ピッコロが低めに取ったらそっちにも合わせる。がっちり一体化している2ndヴァイオリンとも要所々々で同じような顔(音)をしながら協働する。
 一瞬一瞬どこに合わせるべきか判断しながら隅々まで気を配りつつ、1stフルートにはどこまでも寄り添い演奏する緊張感。これこそが2ndフルートの醍醐味なのだと改めて認識させられた。普通のアマオケでは木管の各1st同士が合わせるぐらいが精一杯で、2nd同士で音を合わせてオケの中核として支えるところまでなかなか積み上がらない。そもそも色々な所で合っていないせいだろうが、2nd同士の音が聴こえない。各所で適切に音程が合っているからこそ、2nd同士のわずかな音程の違いさえ音がざらざらした感触として分かり、即座に直せた時はまるでジグソーパズルのピースがぴったりまったような充実と痛快さ!本当に貴重な経験だった。1stを吹く時とは違う高揚感と達成感と喜びは言葉ではいい尽くせない。この貴重な経験は必ず今後の演奏活動の支えとなってくれるだろう。
 調性崩壊に向かう時代にあって、なお古典的とも言える技法で、でもスケール感の大きい歌曲を書き続けたヴェルディ。その強い信念と歌しかしらないイタリア人の頑迷とも言える価値観に改めて深い感銘を受ける。

 貴重なエキストラの機会を下さった大明神ことM氏と、常に温かい目で見守って戴いた新響の皆様に心から感謝申し上げます。
 長々お読み戴き有難うございました。

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