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組曲『惑星』にかかわる3つの話題

松下 俊行(フルート)

◆惑星と遊星
 夜空に煌めく星々の中で、またたくこともなく明るい光を放ちながら独自の動きをする5つの星(水金火木土星)に、人々は古代から注目していた。例えばその星々の動きによって将来の吉凶を占う「学問」を生み出している。ギリシャ人はこの5星を「プラネーテース(πλανήτης)」と呼んだ。そもそもは「放浪者」を表す語だという。1年をかけて天空を規則正しくひと巡りする恒星の間をうろうろしている放浪者の意だ。
 言い得て妙とすべきだろう。ラテン語のplaneta、英語のplanetはいずれも放浪者を語源とするという訳だ。
 さて、この星の放浪者の訳語としてわが国では「惑星」の語が定着している。ホルストの作品名も『組曲「惑星」』で、これは当然のように受け容れられている。では「遊星」という語を見聞きした事はないだろうか?実はこれは惑星と同じものを指すもうひとつの訳語なのである。
 明治の開化期に西洋の天文学が日本に入ってきた際、"planet"の語を東京帝国大学では「惑星」、京都帝大では「遊星」と訳し、それぞれの学派が代々研究の場で使用して現代に至る・・・・・というような話を読んだ事があって長い間信じ込んでいた。だが今回改めて調べてみるとこれは俗説で。既に江戸時代の蘭学者が、遅くとも19世紀の初頭までに「惑星」「遊星(游星)」の語を用いて天文書を訳出しているようだ(前者の方が後者に比して初出が100年ほど早い)。考えてみれば天文学は暦法と表裏一体の関係だから、改暦が何度も行われていた江戸時代には医学と並び、蘭学の柱のひとつだった。とすれば専門書の翻訳の過程でオランダ語"planeet"に行き当たらない訳がない。そこでそもそもの由来である放浪者の意を汲み、「惑」「游」などの漢字を当てて訳語を作っていた事になる。蘭学者や長崎の通詞らが行い続けた、語の原義に遡って適切な「漢語」を造語するという努力の蓄積が無ければ、後の日本の近代化のあり方も随分と違う形になっていたろうと考えざるを得ない。実際その時期に日本で造られた医学用語、例えば「血管」「細胞」「神経」・・・・・・などの和製漢語は、近代以後そのまま中国語の語彙に入って今に至るのである。因みにplanetは中国語では「行星」という。日本からの逆輸入の所産ではない。高度な天文観測が行われていた古代中国由来の語なのか?その歴史は今後調べてみたい。

◆冥王星の処遇
 『惑星』をよく知らない人がこの曲に接して最初に持つ疑問のひとつに、組曲に入っていない星の件がある。ひとつは「地球」。これが入らないのは地球上に住む人類の目から捉えた惑星のみを対象としているという事で、太陽を巡る星々を俯瞰的に眺めた「科学(自然科学)」ではなく、例えばホルストが当初着目した「占星術」のような、謂わば人文科学的な視点から捉えた「惑星」に限定されているのだ。もうひとつが「冥王星」。こちらは発見されたのが1930年と新しく、ホルストが作品を仕上げた1916年時点には「存在」していない星だったので、当然対象となり得なかった。ホルストは終曲『海王星』の末尾を女声合唱によるフェードアウトで太陽系の果てを示し、その先の無限の宇宙を暗示するように曲を完結させている。
 ところが冥王星が発見された事によって俄かに落ち着かない人々が出てきた。例の「科学的見地」によって、『惑星』は未完成の作品とする声が上がったのだ。そこで『冥王星』を新たに加えて完結させたいという野心を抱く作曲家が幾人も世に現れ、「完成」を試みた(ホルスト自身は冥王星発見直後の1934年に死去)。最も有名なのはホルストと同国の作曲家コリン・マシューズ(Colin Matthews 1946~)の手になる『冥王星Pluto, the renewer=再生者の意)』だろう。plutoは冥府王すなわち死後の世界の王の意で(プルトニウムの語源でもある)「再生者」というのはどうなの?と個人的には思わざるを得ないが、2000年に完成されたこの曲はある時期結構演奏されていた。とはいえ前述のとおり本来『海王星』で静寂のうちに終わる曲なのだ。そのあとに堂々たる1曲が出てくるのは甚だ都合が宜しくない、という訳でマシューズは例のフェードアウト部分をカットしてそのまま『冥王星』に続くように改変している。流石にこの荒業に首を傾げる指揮者もいて、一旦オリジナルに従って曲を終え、改めて『冥王星』に入るという措置を採る人もあった。題して『組曲惑星(冥王星付き)』の出来上がり。イギリスでは人気が上がり、結構な頻度で演奏されたというから、日本人とは少し感覚が異なるように感じる。
 だが・・・・・周知のとおり2006年になってご本尊の冥王星が惑星の座から転落し「準惑星」となってしまった。そもそも軌道が海王星の内側に入っていたり、当初考えられて大きさを遥かに下回り、地球の月ほどの大きさしかない事が分ったりと以前から怪しい存在ではあった。その後、より大きな天体が太陽系内で発見されたりしていよいよ危うくなっていた処で、決定打となったのは「太陽を巡る軌道付近に衛星以外の星が無い」との基準(定義)。これを冥王星は満たせなかったため格下げ処置を喰らってしまったのである。
 今年になってNASAが惑星の新たな定義を提唱。それによれば冥王星はもちろん月もまた惑星なのだそうだ(何じゃそりゃ?)。だが冥王星が惑星に復帰できる可能性は極めて低いだろう。「発見」から80年余。紆余曲折の末に、ホルストの時代の常識からはずいぶんと遠い処まで来てしまった感がある。
 時代のあだ花として「蛇足」を音にしたとしか言えなくなってしまった『冥王星』が、今後どのような運命を辿るか?を注視する事は、ホルストの『惑星』を語るうえで不可欠な材料となりそうな雲行きである。

◆ドアと合唱の問題
 前述の『海王星』末尾で、ステージ裏から突如聞こえる女声合唱(4部)は神秘的で効果も抜群。その終わりに向かってのフェードアウトを、ステージにつながるドアを次第に閉めてゆく事で実現させるよう、ホルストはスコアに詳細な指示を書いている。作曲家は思いつきで熟慮の上で音符や指示を書けばそれで作業は終わり。あとは演奏者(指揮者)におまかせとなる訳だが、『海王星』の実際の演奏現場では解決・対処すべき問題がふたつ生じる(演奏の出来の問題は別枠で)。
 ひとつは合唱の指揮の問題である。
 指揮者が見えない場所で演奏する事になるので、ステージ上のオーケストラと如何に出を合わせるか?現在では指揮者の正面に小型カメラを置き、ステージ裏のモニターに指揮者を映して、それに合わせる事が出来るようになった。ちょっと想像しにくいかも知れないが、こうした方法をとった場合でも、合唱メンバーはそのモニターを直接見て演奏をする訳ではない。副指揮者を置き、その人がモニターから出のタイミングを測りながら合唱を指揮するのである。ステージとの間の距離によりあるため、表の指揮者のタイミングで出てもオーケストラとの音の間に遅れが生じてしまう。それを防ぐ為の措置で、副指揮者の存在は不可欠且つ重要なのである。故にモニター設備の無かった時代はどのように対処していたのか?その労苦は想像に余りある。閉まりゆくドアの隙間から懸命に指揮者の棒を目視で追いつつ、合唱に合図をしていたのだろう。そして終盤は、ドアの隙間も極めて僅かとなれば、逆にステージ上の指揮者が消えゆく音に合わせて棒を振っていた・・・・・としか考えられない。
 もうひとつは如何にしてフェードアウトを美しく円滑に進め、曲を終息させるか?という問題。
 確かにドアを徐々に閉めてゆくことで一定の効果は得られよう。だがステージの裏側はホール毎に広さも構造も千差万別だし、そもそもそこで音を出して客席に届かせる機能を備えてはいない(当たり前)。ステージと楽屋を隔てるドアもまちまちだ。残念ながらドアの開閉ひとつで素晴らしいフェードアウトが実現されるという事は「全く」期待出来ないのである。
 とすれば当然対策が求められる。指揮者の考え方にもよろうが大別すれば2通りだ。すなわちドアを徐々に閉め(この「奏者」の役割も重要だ)、合唱者各々が譜面の指示通り声量を絞ってゆくのに並行して、
  ① 合唱の人数を徐々に減らす。
  ② 合唱の演奏位置を徐々にステージから遠ざける。
である。①は当然声量が落ちてゆくのでフェードアウトは容易になるが、声の「厚み」が喪われてしまうという弊害が生じる。声の幅を確保するためには「最後の一兵(と言っても最低4名は残るが)」となるまで人数を絞るという訳にはいかず、そこには限界がある。
 そこでもうひとつの策として②が出てくる。演奏位置を遠ざけると言っても、合唱の一団が何らかの乗り物で移動するのではない。銘々が「自分の脚」を使って移動してゆくのである。つまり歌いながら楽屋奥に歩くという方法。こうした場合最も注意すべきは客席に足音が聞こえてしまう事なので、メンバーはみな靴を脱ぐ。東京芸術劇場のステージ裏は無駄と思えるほどに広い。遠ざかってゆくための余地は充分なのだが、そこを裸足の女性ら(今回は約30名)がコーラスを繰り返しながら奥へ向かって歩き去ってゆく場面を想像すれば、この曲に対する興味のあり方もまた変わるのではあるまいか?
 『惑星』の神秘的な終息は、文字通りの舞台裏でかくも涙ぐましい措置によって初めて成り立っているのである。この部分をカットするのも、終えてから更に『冥王星』を演奏するのも、余りに無粋と思えてしまう。如何なものだろうか?

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