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ショスタコーヴィチとウィーン

滑川 友人(ヴァイオリン)


 この原稿の依頼から〆切までの1ヶ月弱の間に、1週間のウィーン滞在が決まっており、平和なオフが、ネタ探しの修行と化した。ショスタコーヴィチとウィーンは極めて縁遠い存在だと思っていたのだが、調べるうちに、交響曲第10番作曲時期、両者の間に一定の関係があったということが分かった。尚、氏の一生については第229回演奏会プログラムと重複すると思うのでここでは取り上げない。


■ショスタコーヴィチとウィーンの関わり
 交響曲第10番作曲直前期の、氏とウィーンの関わりについて調査した。
・1946年半ば 来訪計画
ハチャトゥリアン・オイストラフ・オボーリンと西ヨーロッパを周遊中、来訪を計画するも果たせず。
・1947年6月初旬 来訪計画
ショスタコーヴィチへの敬意を表して開催されるコンサートに出演するべく来訪を予定するも果たせず。
・1952年12月 初めてのウィーン来訪
世界平和会議第3回(1950年11月ワルシャワで開催された第1回では、核兵器不使用を訴えるストックホルム・アピールに署名している)に派遣され、憧れの地ウィーンを初めて訪れた。
尚この会議には19人の音楽家が参加している。
ウィーン市の音楽学校の会議室で、ショスタコーヴィチとオーストリアの作曲家(アルフレッド・ウール/マーセル・ルービン/ハンス・アイスラーら)が初めて出会った。ショスタコーヴィチは『ピアノのためのプレリュードとフーガ』(3曲)を演奏。
・1953年3月5日 スターリン・プロコフィエフが逝去
・1953年6月 2回目のウィーン来訪
文化代表団の一員として、オーストリア=ソヴィエト協会一般会議に派遣された。オーストリアの作曲家達(ヨーゼフ・マルクス/フランツ・サルムホーファーら)と滞在。映画音楽の役割・ソヴィエトの作曲家の立ち位置について意見交換。
予定のない夜には、演奏会を聴きにアン・デア・ウィーン劇場、コンチェルトハウス等に赴いた。当時、アン・デア・ウィーン劇場は、戦争により建物が破壊されたウィーン歌劇場の代わりとして機能しており、氏が聴いたのはこのウィーン歌劇場(ウィーン・フィルの母体)の演奏であると思われる。また、ベルク・オネゲル・ストラヴィンスキーの作品を聴いたという記録も残っている。
会議に派遣された同僚達が驚いたことに、プラーター公園で彼は、猛スピードのジェットコースターに乗りたいと言い出し、「このスリルがたまらないね。すごく楽しかったよ。僕がオペラ『鼻』の作曲家だなんてとても思えないだろう!」という感想を残した。あわせて地獄列車(幽霊列車?※英訳時点での誤訳の可能性あり)にも搭乗、「安っぽい子供だましだ」と評した。
・1953年6月末 交響曲第10番第1楽章を書き進めている(カラ・カーエフへの手紙)


◇ショスタコ―ヴィチがウィーンで聴いたコンサート
 1953年6月の滞在期間とウィーンでの公演記録を照らし合わせ、知り得た情報を元に調査したところ、少なくとも以下のコンサートは聴いたと思われる。
◎第5回国際音楽祭開催祝典演奏会
1953年6月6日(土)19:30開演 コンチェルトハウス大ホールにて
オーケストラ:ウィーン交響楽団
ヴァイオリン独奏:アーサー・グリュミオー
指揮者:パウル・ザッハー
挨拶:マンフレッド・マウトナー・マルクホフ/フランツ・ヨーナス/エルンスト・コルプ
演目:アルテュール・オネゲル:オーケストラのためのモノパルティータ (1951)    
アルバン・ベルク:ヴァイオリン協奏曲『ある天使の思い出に』(1935)    
イゴール・ストラヴィンスキー:三楽章の交響曲 (1942-1945)
※パウル・ザッハー(1906~1999)は、スイスの指揮者・作曲家。作曲家(ストラヴィンスキー・バルトーク・オネゲル・ヒンデミット・武満徹ら)へ、多数の作品委嘱を行い、近代音楽作曲家のパトロン的な役回りも果たした。


■ウィーンの歴史
 ケルト人の集落ウィンドボナが起源とされる。1世紀末にローマ帝国により征服され、北方の宿営地として重要な役割を果たしたが、帝国没落に伴い4世紀末までには破棄され、以降400年間の相次ぐ多民族の侵入により荒廃。
 ドイツ語圏辺境のこの地がドイツ語圏随一の大都市へと成長した背景には、宮廷所在地としての地位を得たことが大きいが、これはオーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年に遷都したことに始まる。その後、1278年からハプスブルク家の支配下となると、1918年に至るまで、ごく短い途絶を除き、権力の中枢であり続けた。
 新興国であったハプスブルク家は、16世紀に入ると婚姻政策の偶発的な成功が相次ぎ、ボヘミア・ハンガリーを初めとする多くの王国を獲得。1683年のオスマン帝国撃退により異民族侵入の危機が払拭されると、17世紀末には王宮ホーフブルク・離宮シェーンブルン宮殿等が造営されて華やかなバロック文化が栄え、後の「音楽の都」の礎となった。他方、カトリック教会による「対抗宗教改革」の重要拠点ともなり、イエズス会が検閲等により教育・文化面において決定的な影響力を及ぼしたことで、他の欧州都市が中世都市から近代都市へ成長する中、後れを取ることとなる。
 18世紀半ばになり、自国の後進性を認識したマリア・テレジア、その子である王権神授説を否定したヨーゼフ2世により近代化が始まると、イエズス会の影響力は排除され、教育機関の刷新が行われて義務教育制度ができ、総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。
 19世紀半ばに産業革命を迎えて急激に人口が増加、1910年には203万を数える大都市となる。フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を取り壊して五角形状の道路(リンク)を整備し路面電車を導入、歴史的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在の旧市街の外観はこの改造による。
 1918年に第一次世界大戦に敗れると帝国は崩壊し各地方が次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都になると社会主義系市政が発足、農村部保守層との政治的確執は、国政全体の不安定へとつながった。この時代をウィーンで過ごしたヒトラーは、やがて母国オーストリアをドイツに併合、ウィーンも一都市に甘んじることとなる。
 1945年の第二次世界大戦後、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれ、中心部は国際警察により管理された。映画『第三の男』はこの時代を良く伝える。1945年11月、オーストリア戦後初の選挙が行われ保守党・社会党の連立政権が誕生、以降1987年に至るまでこの連立体制は続いた。
 1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復。旧ハプスブルク帝国継承国家の大半が共産圏に組み込まれる中、オーストリアは経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。これには、戦後間もなくのソ連軍占領下での異常な治安の悪さによる共産党の不人気、アメリカからの多額の経済援助が関係していると思われる。
 1973年から一連の国連施設が建設され、ニューヨーク、ジュネーヴに次ぐ第3の国連都市となり、国際原子力機関IAEA、国連工業開発機関UNIDO等の所在地となっている。


■プラーター公園
 何世紀にも渡り皇室専用の狩猟場であったが、1766年、ヨーゼフ2世が市民に一般開放。すぐに多くの飲食店、カフェ、ケーキショップがテントを広げ、最初のメリーゴーラウンドが設置された。当初は庶民の行楽地であったが、数十年のうちに上流社会の人々の憩いの場として発展。1895年には、運河の流れる水の都ヴェネツィアを模倣し本物のゴンドラを浮かべた遊園施設「ウィーンのヴェネツィア」がオープン。シュトラウス父子・ランナー等の指揮の元、オペレッタが上演された。第二次世界大戦では戦場となり、大いに被害を受けたが、急ピッチで復旧が進められた。
 現在、公園の一角にはプラーター遊園地と呼ばれる一角があり、「プラーター」と言うとこの地を指すことが多い。園内への入場料はかからず、アトラクションに乗る毎の清算となる(2€~10€程度)。250に及ぶアトラクションの中には、世界一の高さ(117 m)の回転型ブランコ”Prater Turm”、上下反転して高速回転するコーヒーカップ”Extasy”等、物理的な意味で容赦ないものも少なくない。


◇プラーターとウィーン
 ショスタコーヴィチ来訪当時にあったと思われアトラクションを少なくとも3つ発見し、うち2つは恐らく氏が搭乗したものであると思われたので乗ってみた。


①観覧車(ショスタコーヴィチが乗った記録はない)
 1896年、英国人技師ウォルター・B・バセットにより建設された。バセットはヨーロッパに4基の観覧車を建設しているが、これは3基目でかつ唯一現存するものである。「第三の男」・「リビング・デイライツ」等、多くの映画に登場することで有名で、プラーター公園の象徴的な存在。建設当時は20人乗りのゴンドラ30台が回っていたが、現在は設備への負担を減らすために15台となっており、ゴンドラ個体識別用の番号は偶数番のみが存在する。第二次世界大戦終戦間近の空爆により全台が全焼したが、窮乏に苦しんだ時代にあっては記録的な早さで復旧され、1947年5月には早くも再開。1920年~1981年に至るまで、現役世界最大の観覧車であった。
※第三の男(The Third Man)
監督 キャロル・リード
脚本 グレアム・グリーン
音楽 マリア・カラス
出演 ジョゼフ・コットン / オーソン・ウェルズ / アリダ・ヴァリ他
公開 1949年(英国)/ 1953年(日本)
 第二次世界大戦で破壊され荒廃したウィーンを舞台とした英国映画で、愛と友情と正義の物語。ウィーンでの撮影は1948年10月~12月に行われており、シュテファン寺院・ホテルザッハー・再開間もないプラーター遊園地等、当時の貴重な映像が多数含まれる。また、作品の重要なキーとなる犯罪は、シナリオ執筆にあたって脚本家が実際に見聞したものでもあり、当時の悲惨さを良く伝える。アントン・カラスが作曲・演奏するチターも、この映画が名作となった一つの所以であろう。ストーリーはここでは紹介しない。是非ご覧下さい。


②木製ジェットコースター“Hochschaubahn”
 1950年に建設された450mを約3分15秒で走行する木製ジェットコースターで、当時の姿を今なお伝える。オーストリア最高峰グロースグロックナー周辺を再現したとされる人工景色の中を、8人乗り(2列4行)の列車2台が連結された最大16人収容の車体(シートベルトなし)で周る。最高高さ15m、最高速度55km/h。所有者によれば、1953年当時唯一のジェットコースターであった筈とのこと。ギシギシという大きな音を立てて急傾斜の坂道を15m程度の高さまで登り、徐々に加速しながら下る様は、木製であること・シートベルトをしていないことも相まって、妙なスリルがあった。3回のアップダウンを繰り返した後、油断している最中に横から水が吹きかけられるといった趣向もあり、殊の外、楽しんだ。


③幽霊列車“Geisterbahn”
 プラーター最大(600㎡)かつ最長(215m)のお化け屋敷(ヨーロッパで最大、最長、走行位置の高さが地面から最高とも)で、1948年に設立された。2人乗りのカートに乗って周る。暗い世界の中、モンスター・魔女・吸血鬼などの身の毛もよだつような空想世界のオブジェが一体ずつ突然出現・消失したり、落ちゆく橋と共に突然落下していったりといった、ビックリ屋敷的な要素を併せ持つ。人の目の順応を妨げるため、出現はぼんやりとした光によって行われ、各オブジェ間の距離が十分にあけられているため、結果的に走行路が長くなったと考えられる。戦争体験のあるショスタコーヴィチには子供だましとしか思えなかったとのことだが、十分驚かされ続けた。


◇モーツァルトとプラーター公園
 1762年にマリア・テレジアの御前でピアノを演奏した6歳の神童モーツァルト。(床で転び、手を取ってくれた7歳のマリー・アントワネットに「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる。」と言ったとされる。)10歳の時に一般公開されたプラーター公園には、1781年ウィーンに移住して以降、友達と連れ立ってよく行っていたらしく、1785年にはお下劣歌詞をつけた不朽の迷作(名作)、四重唱カノン『プラーター公園に行こう(K.558)』が完成している。歌詞はご自分でお確かめ下さい・・・。

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