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「オケ中ピアノ」あれこれ

藤井 泉(ピアノ)


 秋も深まったとある昼下がり。第228回演奏会の演目であるサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」のパート譜を手に、「ついにこの曲を弾ける時が来た」と感慨深く眺めているとこへ1本のEメールが届いた。それは維持会マネージャー氏からの「維持会ニュース」への執筆依頼であった。
 かく言う私はプログラム編集人の端くれでもあるのだが、新響が取り上げる曲の中には初演を含め、曲目解説を執筆するにあたっての資料が極端に乏しい曲も少なくなく、執筆者選びに奔走することが往々にしてある。そういった際、まさに藁にもすがる思いで博識のマネージャー氏に執筆依頼をするのが常となっている。そして面倒な依頼にもかかわらず嫌な顔ひとつせず、いつも素晴らしい名文を書き上げてくれるのだ。そんな彼の依頼を断ることなど出来ようか。ということで、今回は私にとって一番身近な、だが一般的にはあまり知られていない「オーケストラの中のピアノ」について書いてみようと思う。


 ピアノを称して「楽器の王様」というらしい。確かにベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」冒頭のように、オーケストラをバックにして繰り広げる壮大かつ絢爛豪華なピアノの響きは、その軍艦のようなたたずまいとあわせて、まさに「王者」と呼ぶにふさわしい。だがオーケストラの中のピアノ、つまりオーケストラ作品の1パートとしてのピアノ、略して「オケ中ピアノ」となるとその様相はかなり違ってくる。
 そもそも「オケ中ピアノ」が入るオーケストラ曲はいつ頃から登場したのか。その前にピアノとオーケストラの成り立ちについて簡単にふれておきたい。
 言うまでもないことだがベートーヴェンやブラームスといった、いわゆる古典派からロマン派にかけての有名なオーケストラ作品では「オケ中ピアノ」は登場しない。そして興味深いことに、ちょうどその時期はピアノという楽器そのものの発展期とぴたりと重なっている。
 ピアノの歴史は比較的浅く、フランス革命(1789年)以降にようやく大量生産されはじめ、19世紀の産業革命を経てようやく工業化の波に乗り飛躍的に発展していった。特に産業革命による良質の鉄の製造技術の発展は、鋼鉄製のピアノ弦とそれを支える鋳鉄製のフレームを実現し、ピアノはより現在に近い形に近づいてく。そして楽器の発展に触発されるように偉大な作曲家たちによる優れたピアノ曲が次々と生み出され、19世紀のピアノはあらゆる面で急速に発展していった。ベートーヴェンからシューマン、ショパン、そしてリストからラフマニノフまでを含めて、現在ピアノ・リサイタルで取り上げられる作品の大多数は、この時代に集中していると言っても過言ではない。
 その表現力は、それ自体が一つのオーケストラとしての無限の可能性を秘めており、古典派からロマン派にかけての大作曲家の創作意欲を大いに駆り立てた。こうしてピアノはピアノ製作者、作曲家、そしてヴィルトゥオーソ・ピアニストの三者一体となった「ピアノ芸術」として、孤高の道を歩むことになる。
一方のオーケストラであるが、古典派期に交響曲や協奏曲、歌劇といった分野を中心に飛躍的に発展するとともに、演奏の場が宮廷からコンサートホールへと移行していく過程で、その規模は拡大の一途をたどる。しかしその間クラリネットなどの歴史の浅い楽器や、トロンボーンなどを加えながらも、オーケストラの基本的な編成は既に古典派期にはほぼ出来上がっていた。古典派後期からロマン派以降は、主に管楽器や打楽器等の種類が多様化し、楽器編成がより拡大する傾向にあった。例えばピッコロやコールアングレ、バスクラリネット、コントラファゴットなどの標準的な楽器の同族楽器や、タムタムやグロッケンシュピールなどの多様な打楽器群の参入である。またベルリオーズ「幻想交響曲」(1830)のように、オーケストラ作品にハープが効果的に使用されるようになったのもこの時期だ。だが鍵盤楽器は、協奏曲に代表される独奏的な扱いを除いて、まだオーケストラには登場しない。


 ここで本題の「オケ中ピアノ」の初登場を検証したい。今まで私が新響で弾いた作品を、作曲年順に15番目まで列記してみる。


1,サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調「オルガン付き」(1886)
2.ドビュッシー:交響組曲「春」(1887)
3.マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」(1906)
4.サン=サーンス:「ギース公の暗殺」(1908)
5.ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」(1910)
6.ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911)
7.プロコフィエフ:スキタイ組曲(1915)
8.ファリャ:恋は魔術師(1915)
9.レスピーギ:交響詩「ローマの噴水」(1916)
10.ファリャ:「三角帽子」第2組曲(1919)
11.バルトーク:舞踊組曲(1923)
12.レスピーギ:交響詩「ローマの松」(1924)
13.ショスタコーヴィチ:交響曲第1番(1925)
14.コダーイ:組曲「ハーリ・ヤーノシュ」( 1927)
15.レスピーギ:交響詩「ローマの祭」(1928)


 こうして並べてみると壮観で、感慨深いものがある。それぞれの曲について、新響との思い出を交えながら述べてみたい。
 まず今回取り上げるサン=サーンスの交響曲第3番が、記念すべき「オケ中ピアノ」の第1号となっている。しかもこの曲のピアノ・パートの後半は1台4手の連弾となり、作曲者の並々ならぬ意欲を感じる。そして次に登場するドビュッシー交響組曲「春」(1887)にもピアノ連弾が登場する。新響では1997年の第159回演奏会(飯守泰次郎指揮)にて、アンリ・ビュッセルによる編曲版(1912)を取り上げたのだが、この編曲版には全編にわたって1台4手の連弾が入っている。そのほか1台4手の連弾は、14番目のバルトーク「舞踊組曲」(1923)、そして15番目のレスピーギの交響詩「ローマの祭」(1928)にも登場する。
 3番目のマーラー「千人の交響曲」は、1986年の新響創立30周年の一環として、山田一雄先生の指揮にて東京文化会館で演奏された。しかしその名の如く巨大編成のため、天下の東京文化会館をもってもフルコンサートピアノがステージに乗りきらなかった。何とか大屋根と側板部分は乗ったものの、ピアノ奏者は下手のカーテンの奥で弾かざるを得なかったという悲しい歴史は、団内でもあまり知られていない。また80分をゆうに超える大曲にもかかわらず、ピアノの出番は第2部の中間部にほんの少しあるだけで、弾く前にも、そして弾き終わった後にも膨大な待ち時間が発生する。そのため本番時のモチベーションの維持と、寒さ対策は必須と言えよう。
 そして5・6番目には満を持したかのように「火の鳥」「ペトルーシュカ」と、ストラヴィンスキーの3大バレエの2作品が立て続けに登場する。新響では「火の鳥」は1910年版(全曲版)と1945年版(組曲版)、「ペトルーシュカ」は1911年版と1949年版の両方を取り上げ、その何れも経験できたのは身に余る光栄といえよう。ピアニスト目線で新旧の版の違いを比べると、後の改訂版の方がピアノの出番が多く、難易度もぐんと上がっていることが分る。例えば「火の鳥」1945年版の「魔王カスチェイの凶悪な踊り」を経験してしまうと、1910年版の「凶悪な踊り」はまるで気の抜けたコーラのようで、「こっそり1945年版で弾いてしまおうか」と思ったほどだ。しかし当然ながらこっそりと、指揮の飯守先生にも気づかれずに弾く場面ではないので、欲求不満はつのる一方であった。
 話はそれるが、「はるさいの枕詞はと人問はば、言はずとも知れ変拍子なり ─詠み人しらず─」と古来歌にも詠まれた(注1)ストラヴィンスキー「春の祭典」(1913)には、「オケ中ピアノ」は登場しない。ただでさえ予測不能の変拍子の連続で、オーケストラが「阿鼻叫喚の地獄絵図」と化す中、オケ慣れしないピアニストがさらなる無間地獄へと突き落す可能性を危惧して排除されたのであろうか。同じことがバルトークの代表作「管弦楽のための協奏曲」(1943)にも当てはまる。「管弦楽のための」と謳っておきながらピアノが入っていないなんて、かえすがえす残念だ。しかもハープは2台も入っているのに、である。一方、ルトスワスキーの「管弦楽のための協奏曲」(1954)にはピアノが登場し、作曲家の勇気に拍手を送りたくなる。
 さて本題に戻して、7番目にはプロコフィエフ「スキタイ組曲」(1915)とファリャ「恋は魔術師」(1915)が入ってくる。「スキタイ組曲」はストラヴィンスキーの「魔王カスチェイの凶悪な踊り」をさらに輪をかけて狂暴にしたような曲で、体育会系「オケ中ピアノ」の筆頭といえる。冒頭から延々と続く最強音でのグリッサンドでは、軍手が欲しいほどだ。ここを抜けると低音の補強に入るのだが、引き続き懸命にグリッサンドをしているお隣のハープ奏者を見るにつけ、「まだピアノでよかった」と胸をなでおろすのであった。
 なお、このグリッサンドと低音楽器の補強という役回りは、スキタイ以降の「オケ中ピアノ」の定番パターンの1つとなる。さすがの「王者」も、「オケ中」の下手の奥という不利な立地では、上段から押し寄せる打楽器群と金管楽器群の咆哮による総攻撃は勝てず、客席まで音が届かないことがほとんどである。まさに「労多くして功少なし」を地で行くような役回りだが、少しでもずれると聴こえてしまうというやっかいな代物でもある。
 またこの圧倒的に不利な戦いに果敢に挑んだ強者が、前任の新響ピアノ奏者でソリストとしても活躍した故・渡辺達さんだ。しかしながら彼を以てしても多勢に無勢、激闘の末にはグリッサンドの跡が血で染まった鍵盤が残されたという事実は、今や伝説として語り継がれている。
 ファリャ「恋は魔術師」(1915)は、10番目の「三角帽子」(1919)とあわせて、芥川先生の新響・定期演奏会(注2)における最後の指揮であった。「三角帽子」の終曲には定番のグリッサンドの連続が出てくるのだが、幸か不幸かこの終曲の後半は芥川先生の大のお気に入りでもあった。そのため練習の最後5分間は、たとえどんなに他の部分が仕上がっていなくても、あたかも何かの儀式のように取り上げるのが常であった。それはリハーサル番号7番からで、先生が「猫の喧嘩」と名付けられた弦楽器の16分音符のユニゾンから、終わりまでである。どのパートも練習の最後に演奏するには体力的に厳しい箇所なのだが、対する芥川先生の満面の笑顔は今でも心に残っている。
 9番目にはレスピーギの交響詩「ローマの噴水」(1916)が登場し、その後「ローマの松」(1924)、「ローマの祭」(1928)とつづく。このローマ三部作を通して、レスピーギは「オケ中ピアノ」の扱いがとても上手いなとつくづく思う。たとえば「昼のトレヴィの泉」や「ボルゲーゼ庭園の松」のように木管楽器と重なって煌びやかなパッセージを弾いたり、「アッピア街道の松」のように低音楽器と重なって重厚なサウンドを作り出したり、「ジャニコロの丘の松」のように単独の幻想的なソロがあったりと、じつに多彩にピアノを活用している。このピアノ・パートを弾く時はいつも、オーケストラの一員として音楽を表現する喜びに満たされる。あまりにも感動した私は、その後本当にローマへ行き、噴水をめぐり、ジャニコロの丘へ登り、そしてアッピア街道を歩いてしまった。
 13番目にはショスタコーヴィチの交響曲第1番(1925)が颯爽と登場する。「オケ中ピアノ」のもう一つの定番である「オクターブの単旋律による単独のソロ」は、この曲が初めての試みかもしれない。特に第2楽章の中間部から再現部にかけての半音階と、再現部に入ってすぐの単旋律のソロに至るまでの緊張感は尋常ではない。その後の4番(チェレスタのみ)、5番(1937)、そして7番「レニングラード」(1941)と、ショスタコ交響作品を弾く時は、自分の寿命が少しずつ削られていくような強いストレスと、緊張を強いられる。そこには音楽の喜びや楽しさがみじんも感じられない厳しさがあり、単に「レニングラード」という地名を聞いただけで、条件反射的に冷や汗が出てくるほどだ。


 最後になるが、邦人作品で「オケ中ピアノ」が登場したのはいつであろうか。引き続き16番目から20番目を見てみよう。


16.アイスラー:「雨」についての14の描写(1929)
17.バルトーク:中国の不思議な役人(1931)
18.深井史郎:パロディ的な4楽章(1933)
19,プロコフィエフ:組曲「キージェ中尉」(1934)
20.伊福部昭:日本狂詩曲(1935)


 あくまでも自分が在団中に新響で取り上げた作品での順番ではあるが、巨匠・伊福部先生を押さえて、深井史郎の「パロディ的な4楽章」(1933)が邦人第1号となった。しかもこの作品は「ペトルーシュカ」と並んで、もっとも難しい「オケ中ピアノ」の1つと言えよう。しかしながら両作品とも、試作段階において「ピアノが主体的な役割を演じるオーケストラ作品」として着想されたことを考えると納得がいく。新響では1999年の第164回演奏会(飯守泰次郎指揮)で取り上げた。しかも驚くことにこの時のプログラムは、ブラームス:交響曲第3番、深井史郎:パロディ的な4楽章、サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」と、「オケ中ピアノ」にとって記念すべき演奏会であった。今になって気がついても遅きに失する.のだが、当時はよりによって「オケ中ピアノ」の大曲が1つの演奏会に2つも重なってしまったため、複雑な心境であった。結局、サン=サーンス「オルガン付き」は前述の渡辺達さんにお願いし、私は深井作品に専念することとなった。
 その8年後の2007年、オーケストラ・ニッポニカで「パロディ的な4楽章」を取り上げた際には渡辺達さんが弾かれ、また時が流れて8年後の2015年、とうとう私にサン=サーンス「オルガン付き」を弾く機会が回ってきた。そして今回の「オルガン付き」をもって、晴れて「オケ中ピアノ」の主要作品はほとんど弾いたこととなり、感無量となった運びである。また記念すべきこのタイミングに維持会ニュースに執筆出来きたことは、望外の喜びでもある。


参考文献:『チャイコフスキー・コンクール : ピアニストが聴く現代』中村紘子著(中央公論社)


注釈:
注1:出典「演奏する側から見た『春の祭典』」松下俊行
http://www.shinkyo.com/concerts/i158-1.html
注2:第119回演奏会(ファリャ作品展)1998年4月3日

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