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新交響楽団在団44年の思い出-②

元新響コンサートマスター:都河 和彦


編集人より
 前号よりコンサートマスターを長年に亘って務められた都河和彦氏による回想録を掲載しております。以下に第2回目をご紹介致します。

◆創立20周年(1976年)からの10年間
 新響創立20周年の76年には芥川先生の発案で10人の日本人作曲家の33-43年代の作品を集めた『日本の交響作品展』を9月、10月の2夜にわたって開き、日本音楽界への貢献が評価されて翌77年、『芥川也寸志と新交響楽団』が第8回鳥井音楽賞(現サントリー音楽賞)を受賞しました(芥川先生はこの賞の選考委員でしたが当事者なので、決選投票の際は席を外されたそうです)。私は授賞式直前に日帰りスキーに行って左肩を負傷、式で弾く予定だった芥川先生の『トリプティーク』のソロをやはりコンマスだった秋山氏に代わってもらい、芥川先生に小言を言われたのはほろ苦い思い出です。当時私が勤務していたモービル石油も「モービル音楽賞」を設けており、事務を担当していた広報部の社員によると、新響が受賞候補になったが決選投票で敗れたそうです。
 この邦人作品展では平尾貴四男(1907~53)の『古代讃歌』を取り上げたのですが、芥川先生が打ち合わせのために妙子未亡人を訪ねたら、秦の始皇帝の頃の興味深い書体の書が目にとまり、「その書体で『新響』と書いてほしい」と頼んで書いていただいたのが現在も使われている「新響ロゴ・マーク」ということです。

 その後も日本人作曲家のシリーズは続き、78年4月のコンサートはNHKのテレビドラマ『事件記者』のテーマ音楽で有名だった小倉朗先生の個展を2夜にわたって開き計8曲を演奏、私は先生のヴァイオリン・コンチェルトのソロを弾かせて頂きました。このコンサートの練習時、家人が海外出張で私が6歳と2歳の娘達の面倒を見ざるを得ず新響の練習を1回休んだら、次の練習で家人が芥川先生に呼び出されて「都河君は新響にとって必要な人だから、練習を休ませないでくれ」と叱られ、謝ったそうです。このコンサートの後、芥川先生初め10名ほどの団員が小倉先生に招待され、新宿「つな八」の2階座敷で天麩羅を御馳走になったのはなつかしい思い出です。小倉先生は文章も素晴らしく絵もお上手で、このコンサートのプログラムの表紙は先生自身が描かれた「自画像」でした。鎌倉の喫茶店での絵の個展には2度伺いました。伊福部昭先生は中国の書物、コーヒー、煙草に詳しく、また特徴ある書は見事でした。芥川先生も何冊か本を出版されているだけあって文章が素晴らしく、何度か頂いた年賀状には可愛い女の子の絵が描かれていました。後述するヤマカズ(山田一雄)先生の力強い書も見事なものでした。神は人によっては二物も三物も与えるのですね。
 78年8月のサマー・コンサートは尾高忠明氏がドヴォルザークの『新世界』等を振ってくださいましたが、尾高先生の新響登場はこれまでこの1回のみでした。
 同年12月のコンサートは『リヒャルト・シュトラウス特集』で河地良智先生に交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、楽劇『サロメ』より7つのベールの踊り、交響詩『英雄の生涯』を振っていただき、『ティル~』のソロは田中久生氏が、『英雄の生涯』のソロは私が担当しました。河地先生には77年から80年まで4年連続で振っていただいています。
 79年12月には当時の運営委員長橋谷幸男氏の尽力でヤマカズ先生(山田一雄氏)をお招きしてマーラーの交響曲第5番を演奏、その後88年まで11回続いたマーラー・シリーズの幕開けとなりました。初回の練習では全団員が曲の難しさと先生の分かりにくい棒に悪戦苦闘、阿鼻叫喚の感がありました。
 80年1月芥川先生と黒柳徹子さんが司会をするNHKTV『音楽の広場』に新響が出演、私がヴィヴァルディの「秋」のソロを弾きました。モービル石油広報部の社員が私のTV出演を知りNHKに掛け合ってスタジオ・リハーサルの写真を撮って社内広報誌に記事を掲載、また英訳された記事がニューヨーク(NY)のモービル本社の広報誌にも転載されたので、8月にNY本社転勤になったとき「お、あのヴァイオリニストが来た!」と言われてしまいました。
 同年4月、新響は芥川先生の恩師で、同年紫綬褒章を受章した伊福部昭先生(当時66歳)の個展を開きました。伊福部先生は何度かリハーサルに見えましたが、山高帽・黒マント・黒装束・蝶ネクタイにステッキ、という「怪傑ゾロ」ばりのダンディーなお姿で、芥川先生の「ここはどう処理しましょうか?」の質問には「お好きなように」と答えられ、我ら団員にも敬語を使われてびっくりしました。プログラムはマリンバ・コンチェルト『オーケストラとマリムバのためのラウダ・コンチェルタータ』(ソロ・安倍圭子)、ヴァイオリン協奏曲第2番(ソロ・小林武史)、そして『シンフォニア・タプカーラ』(改訂版初演)でした。マリンバ・コンチェルト第3楽章の終結部は同じ音型が数十小節続くのですが、本番で芥川先生が1小節早く振り終わってしまい、ソリストと数名の団員が楽譜通り終わるという事故が起き、先生が安倍氏に「ゴメーン!」と謝った表情を未だに覚えています。小林武史先生とはこの時の共演が御縁で今でも親交があります。『シンフォニア・タプカーラ』は伊福部先生からスコアをお借りして団員が手分けして写譜し、パート譜を作りました。芥川先生は「写譜とういう作業はどんなに注意したつもりでも必ず間違いがあるもの、何回も何回も見直しなさい」とおっしゃっていましたがご指摘通り、練習が始まると数々の写譜ミスが見つかりました。新響はこの曲をその後様々な指揮者と何度も再演、すっかり十八番になりました。

 私は同年8月からニューヨーク(NY)のモービル本社に2年間単身赴任し、新響は休団しました。アメリカではジョン・レノンが凶弾に倒れ(12/8/80)、レーガン大統領の暗殺未遂事件(3/30/81)が起き、そしてアメリカに亡命していたムスチフラフ・ロストロポ-ヴィッチがワシントン・ナショナル交響楽団を指揮してNYタイムズの毒舌批評家ハロルド・ショーンバーグに「Apparently, Mr. Rostropovichi doesn’t know how to conduct.」などと酷評されていた時代です。仕事の傍ら頻繁にコンサートに通い、NYのアマ・オケでの演奏やアメリカ人との室内楽を楽しみました。マンハッタンの教会でのコンサートでは私がバッハのコンチェルトを弾き、団のマネージャーから「涙が出た」とのお褒めの手紙を頂きました。セントラル・パークで野外コンサートをやることになり、「本番にはプロのコンマスが来るが、練習ではお前がコンマスをやれ」と言われ引き受けたのですが、本番に現れたユダヤ人ヴァイオリニストの上手さにびっくり、「アンタ、何者?」と聞いたら「ロシア国立オケのメンバーでアメリカに演奏旅行で来たんだが亡命して、今はフリーのミュージシャンだ」という答に又々驚きました。
 タングルウッド音楽祭には2度行き、バーンスタインや小澤征爾の指揮振りを見、そして80年のエリザベート王妃国際コンクールで優勝した堀米ゆず子さんのシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。終演後、堀米さんに会いに行ったら小柄な方で「この体格で何であんな立派な音を出せるのか!」と驚いた記憶があります。また当時、堀米さんと同年の加藤知子さんがジュリアードに留学しており、82年のチャイコフスキー・コンクールで2位に入賞しました。
 NYシティ・オペラでコンバスを弾いていた三浦尚之氏が毎年『ミュージック・フロム・ジャパン』と銘打ったコンサートをカーネギー・ホールで開いていて日本人演奏家を招き、日本人作曲家の作品をアメリカに紹介していました。旧知の黒沼ユリ子さんが広瀬量平氏のヴァイオリン協奏曲を弾き、渡米直前に新響が伴奏したマリンバの安倍圭子さんと再会したのもなつかしい思い出です(安倍先生とは帰国後の84年1月、芥川先生の指揮で伊福部先生のマリンバ協奏曲を再共演したのですが、終演後のパーティーで「カーネギー出演のため渡米したらビザに不備があって拘留され、本番に間に合わないのではと心配したら紫色の冷や汗が出、白い下着が紫色に染まった」という不思議な思い出話をしてくださいました)。又、当時NYで大活躍していた東京カルテットの原田幸一郎、チェロの毛利伯郎、ピアノの野島稔等の諸氏と知遇を得ましたが、後年これらお三方と新響で共演することになるとは当時は夢にも思いませんでした。82年暮の帰国直前、アメリカ人のボスから「社内でコンサートをやれ」との業務命令を受け、オフィスにはピアノがなかったので「弦楽四重奏にしてくれ」と言ったら「セキュリティーの関係で部外者は入れられない」とのことでやむなく、バッハ、ヘンデル、ベートーヴェン等のソナタを文字通り独奏しました。帰国して翌年新響に復団、まもなくコンマスにも復帰しました。

 83年4月、長野県飯田市へ貸し切りバスで1泊の演奏旅行がありました。62年入団の新響チェロの名物古参団員石川嘉一さんの慶応大学時代の友人が飯田市で大きな書店を営んでおり「芥川+新響」を招待して下さった、と記憶しています。この旅行に運転手つきの車で同行したフランス人がいました。私が在米中に入団したヴィオラのルネ・アムラムさんで、当時スポーツ用品メーカー「スポールディング」の日本支社長でした。「社長」といえば、新響のオーボエ・パートには66年入団で、豪徳寺で電器店を経営していたので「社長」というニックネームで呼ばれる桜井哲雄さんという名物古参団員がいるのですが(芥川先生が名付け親とか)、アムラムさんが入団した時、さる団員が桜井さんに「社長、大変だ、大変だ、本物の社長が入ってきたよ!」とご注進に及んだそうです。
 アムラムさんはその後の合宿にも運転手付きの車で参加、合宿所近くのホテルに宿泊していました。彼はアメリカの名ヴィオリストのミルトン・トーマスが使っていた名器ガリアノが売りに出た、というニュースを聞いてすぐNYに飛び、超有名弦楽器店「ジャック・フランセ」で入手したそうです(店にピンカス・ズッカーマンが来ていてアムラムさんが買ったヴィオラを試奏してくれたとか)。アムラムさんは当時の新日フィルのコンマスのルイ・グレーラーさん達とカルテットを楽しんでおり、また自宅で新響のヴィオラ分奏や室内楽パーティーをする時、近くの鮨屋「すし勘」から職人を呼んで鮨を握らせ、家が近かった私も何度か御相伴に預かりました。
 84年11月、伊福部先生の古希(70歳)を祝うコンサートが芥川先生を初めとする弟子達によって東京文化会館で開かれ新響が『シンフォニア・タプカーラ』『日本の太鼓』等を演奏、弟子達がハッピ姿で太鼓を叩き、舞台にはゴジラの縫いぐるみも登場した楽しいコンサートでした。
 85年11月に「芥川先生の還暦をお祝いする会」が六本木の国際文化会館で開かれ、先生は団員のファッション・デザイナー秋山さんが赤革を使って手作りしたチャンチャンコを着てご満悦でした。ヤマカズ先生も駆けつけ、『トリプティ-ク』を指揮してくださった、と記憶しています。


(次号に続く)
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