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隔たりを越える覚悟
―― ベートーヴェンとマーラーにおける回想と考察 ――

佐藤 楽(ヴァイオリン)


■ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲の思い出
 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と聞いて真っ先に思い浮かべる人がいる。
 ゾンヤ・シュタルケ。旧東ドイツ・ハレのマルティン・ルター大学に在籍、学生オーケストラで演奏していた頃、演奏会にてこの曲のソリストを務められた。旧西ドイツのハノーファーに生まれ、クリスティアン・テツラフに師事。2002年バッハ国際コンクール入賞後、現在はマーラー室内管弦楽団、ルツェルン祝祭管弦楽団などで活動している。
 生まれ育った場所が違うことが原因ではないと思うが、いずれにせよ、当時ゾンヤと楽員の間には、何か心の隔たりがあったと思う。第2楽章、大きく息を吸い込みテンポルバートをかけるゾンヤ。その気迫に圧倒される団員もいれば、呼吸音にクスクスと笑う団員もいた。それでもゾンヤは躊躇しない。自分には「これが自分の音楽だ」と彼女が訴えかけているように感じた。
 そんな時、私は指揮者のニコラウスの口癖を思い出していた‐”man muss immer ein Risiko auf sich nehmen!”(常にリスクに対する覚悟を持て!)。彼はファビオ・ルイージの弟子で隣町ライプツィヒのメンデルスゾーン音楽院から来ていた。今はチューリンゲンの歌劇場で指揮をしている。「感情的すぎる」「彼の演説は聴く気にならない」楽員たちの間では色々言われていた。でも、私はニコラウスの音楽も、ゾンヤの音楽も好きだった。だから自分にこう言い聞かせた。「ゾンヤが示した覚悟には、私たちも同じく覚悟を持って応えなければならない」と。

■マーラー:初めての交響曲
 指揮者としてのマーラーとオーケストラとの間にも、このような心の隔たりがあったのは有名な話である。すなわち、過酷な指導で自身の芸術を追求するマーラーに戸惑う楽員という構図である。
 交響曲第一番の作曲時期、マーラーはアルトゥール・ニキシュの元でライプツィヒ市立歌劇場の第2指揮者を務めていた。作曲と指揮活動、言わば作品の創造とそれを具現化する場所。その両立に苦心しつつもマーラーは交響曲第一番の作曲に没頭する。そのことで、彼は指揮者としての職務をおろそかにし、楽員や音楽監督との衝突を招く事になる。マーラーの熱心な指導、オーケストラへの愛情とある意味矛盾していたことが、余計に大きな反発を引き起こしたのかもしれない。
 1888年3月、2部構成の交響詩という形でこの曲は完成に至る。その後、マーラーはライプツィヒを離れ、ハンガリー国立歌劇場にて自身初の音楽監督に就任する。初演は1889年11月、マーラー指揮の下、同歌劇場管弦楽団(ブタペスト・フィルハーモニー管弦楽団)により行われた。それまでの間、マーラーの元に次々と家族の悲しい知らせが届く。父ベルンハルトが1889年2月、妹レオポルディーネが同年9月、そして、母マリーが10月に他界したのである。凄まじいプレッシャーのなかでの初めての交響曲作曲は、大きな決意に満ちたものであったに違いない。それを裏付けるように、彼は完成後も、『巨人』という副題を始め、細かい編曲から楽章構成、楽器編成に至るまで、幾度も改訂を重ねた。結局、現在の全4楽章構成の上演は1896年ベルリンにて、ライプツィヒでの完成から実に7年後のことである。
 マーラーの決意とチャレンジ精神は、交響曲第一番の斬新さに表れているように思う。そして、その斬新さ故に、この曲が評価されるには初演後も長い歳月が必要であった。その運命を象徴するかのようなその斬新なコンセプトについて次に述べたい。

■音と言語のグローバル化
 交響曲第一番の冒頭、マーラーは”Wie ein Naturlaut”(自然の音のように)と記している。今回はこの”Naturlaut”という言葉に着目したい。この単語はNatur(自然)とLaut(音)からなる複合名詞である。
 「音」という単語について、ドイツ語ではTonとLautの二つの単語がある。違いとしては、Tonは人の声や楽器の音等、特定の箇所から入ってきている響きを持った音を指すが、Lautの場合、雑踏等、周りから溢れてくる様々な音を指す。英語でいう”too”と組み合わせて、”zu laut”と形容詞にすれば「うるさい」という意味になる。私の経験上「自然の音」というと”Naturlaut”より”Naturton”を連想する。それでもあえてLautを使ったのは、この周りから溢れ出てくるニュアンスがほしかったのではないだろうか。いわば、自然の音ではなく、音が溢れる自然そのものをオーケストラの楽器で表現することで、新しい表現・芸術のジャンルとしたかったのかもしれない。例えば、第一楽章の導入部は朝の目覚めを表しているが、エドヴァルド.グリーグの組曲「ペールギュント」の”Morgenstimmung”と比較すると、ある意味アプローチの仕方が真逆と言える。
 従来の枠に囚われない豊かな発想力は言語の分野でも発揮された。彼がハンガリー国立歌劇場にて試みた、現地言語(ハンガリー語)でのドイツ・オペラ上演である。これは、地元の人々のオペラに対する関心を呼び起こし、歌劇場の収益も上がった。こうして、マーラーの指揮活動は、プロレタリアートの娯楽としての歌劇場の興業に大いに貢献したのだった。なお、彼は早くも2年半で、今度はハンガリーを去り、ハンブルク市立歌劇場へと活動拠点を移すが、主な原因は、ハンガリーでの反マーラー派の総監督就任であったと言われる。当地での功績としても、音楽史の観点からしても、マーラーのハンガリーでの活動は大きな意義のあるものだった。
 マーラーがハンブルク市立歌劇場への招聘を受け入れた条件の一つが、作曲のための十分な余暇だった。演奏者・歌手の人材にも恵まれ、マーラーは充実した音楽作りに励む。結果として、モーツァルトのドン・ジョヴァンニはブラームスに、ワーグナーのジークフリートはハンス・フォン・ビューローに絶賛され、これがマーラーの立場を音楽界の高みへと押し上げていくのである。
 音においても言語においても、自身の作品においても他者の作品においても、マーラーは既成概念の枠に囚われず、その枠組みを広げることに全力を尽くした。そこには、ユダヤ人という人種の面でも、個人の性格の面でも、既存の文化・習慣への反感が少なからずあったであろう。しかし、最も根幹には、周囲への感情よりは、自身への想いがあったのではないかと思う。つまり「既成の枠を越えなければならない」という決然とした使命感である。
 斬新な試みで歌劇場の発展に貢献したマーラーは楽員たちに覚悟を持って迎えられたという。マーラーだけでなく、楽員たちもまた「隔たりを越える」ために大きな覚悟と勇気が必要だった。双方の覚悟があって初めて実現したマーラーの音楽活動であったとも言えるのではないだろうか。

■あとがき
 ”Rak! du hast wirklich gute Arbeit gehabt!”(ラク!お前本当に良い仕事したな!)
 終演後、興奮気味のニコラウスにこう言われた時、初めて味わう喜びがあった。自分も覚悟を決めて良かったと。それから7年の歳月が流れた。思い出の欠片は残りつつも、その喜びを忘れかけている、無意味に生きる自分がいたように思う。そんなある日、ハレの大学オーケストラが来日公演をすることになり、昔の仲間から誘いを頂いた。第218回演奏会の翌々日24日、場所は宮城県仙台市。東日本大震災の犠牲者追悼に、ヘンデルの生まれ故郷ハレにちなんでメサイアを演奏する。
 震災と福島第一原発事故から約一年半。欧州に限らず外国では、原発事故について日本人以上に深刻に捉えている部分もある。このような状況下で来日公演に踏み切るには相当な覚悟が必要だったに違いない。昨年から来日予定がずれ込んできたことがそれを物語っている。参加しようと残った楽員も一握りだった。
 それでも、「相手が示した覚悟には、同じく覚悟を持って応えなければならない」。
その決意を胸に仙台へ赴く。


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マルティン・ルター大学アカデミーオーケストラ演奏会
ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲他
指揮: ニコラウス・ミュラー
独奏: ゾンヤ・シュタルケ(ヴァイオリン)
(現マーラー室内管弦楽団、ルツェルン祝祭管弦楽団)
ザクセン・アンハルト州、ハレ市内、同大学記念講堂Löwengebäude(獅子の館)にて

○参考文献
「反ユダヤ主義 ‐世紀末ウィーンの政治と文化‐」村山雅人著/講談社(1995年)
「マーラー 私の時代が来た」桜井健二著/二見書房(1987年)
「マーラー その交響的宇宙」岩下眞好著/福井鉄也/音楽之友社(1995年)
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