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超私的アマチュア考

吉田 仁美(フルート)


 このあいだ逢った人だが、「あなたは音楽家だそうですね」と云ったので、
ちょっと、まごついてしまった。オンガクなどという難しいことをやっているとは
思っていないので、「はあ」と答えたが、申しわけないような気がした。
私はギターを弾くだけで音楽家だとは思っていなかったからだ。
深沢七郎『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)


■ある雨の日に ~父とモーツァルト~
 「今ラジオですっごくいい曲やってるんだ!ケッヘル600なんとか!ケッヘル!ほら早くつけて!」
 ある雨の日のこと、父は家に着くなり慌てた様子でこう言った。言われた通りチャンネルを合わせると、それは何てことない、モーツァルトのクラリネット協奏曲だった。「こんなの誰でも知ってる曲よ」「ってゆーか私、この曲オケでやったんだけど。聴きに来たじゃん。覚えてないの?」妻と娘に畳み掛けられた父は、先ほどの興奮はどこへやら、一瞬にしてしゅんとしてしまった。

 私の父のクラシック音楽の知識と言えば、Mahlerと書いてある楽譜を見て、「ん?マフラーか?ふーん、何だか相変わらず難しそうなことやってるな。俺にはさっぱりわからない!ハハハハハ!さて、『笑点』でも見るか。」という程であり、家で私が練習していても「今日もピーピーやるのか。頑張るなぁ!」と言うくらいであるし、たまに新響の演奏会に来てくれても、演奏を聴きに来ているというより、家では「フッ」とか「ハッ」という皮肉な笑いしかしない娘が、受付の仕事で「にこっ」と笑っているのを見て、「おい、まさか!あの娘が笑っている!ああ安心した!」と喜んでいるらしい。しかし、知識が無ければ音楽がわからないというほど可笑しな話は無いわけで、考えてみれば、仕事で疲れた耳にラジオの電波に乗って天上から降りてくるモーツァルトなんて、この上ない音楽体験であり、それを知覚できる父は、十何年も音楽をやっている私なんかよりも、ずっと音楽的な耳を持っているのかもしれない。そして少しでもこの曲を知ってしまい、どうしても演奏の上手下手を考えてしまう私は、もう父のような純粋な耳でモーツァルトのクラリネット協奏曲を聴くことはできないだろう。

■ニースにて ~私とフルート~
 少し前まで、アマチュアということについてよく考えていた。子供の頃入っていたオーケストラの音楽監督には、「アマチュア用のベートーヴェンなんてないのよ!できるまで練習しなさい!」と言われた。「なるほど、そうか」と思った。個人的に習っていたフルートの先生には、「プロにもアマチュアの要素は必要だけどね」と言われた。「ふーん、そんなものか」と思った。ますますよくわからなくなって、プロだのアマだの考えるのは止めにした。
 数年前、南仏ニースでの夏期音楽講習に参加したときのことだ。この講習は参加にあたって審査は無いが、参加者の殆どは音楽を専門的に勉強している学生だった。パリ管弦楽団ヴァンサン・リュカ氏のレッスンの際、学校名を聞かれたのでアマチュアである旨を伝えると、

《Ah, tu joue de la flûte pour le plaisir !》
(直訳で、「喜びのためにフルートを吹いているんだね」といったところ)

 と言った。辞書によるとpour le plaisirは、「趣味で」という程度の意味で使われる成句のようだが、恥ずかしながらこの言い回しを知らなかった私は、直訳で受け取った。そして「なーんだ、喜びか。そういうことだったのか。プロだのアマだの考えて損しちゃった」と気が楽になった。そしてその後は練習も程々に、「ヴァンスにマティスの礼拝堂があるよ!」「カップ・マルタンにル・コルビュジエの休暇小屋があるんだって!一緒に行こう!」と周りの練習熱心な学生を連れ出して遊び歩いたが、最後には誰もついて来てくれなくなった。ピアノのSちゃんには、少し困った顔でこう言われた。「ごめん、やっぱり一緒に行けない。私、何しにニースに来たか考えてみたの…。」そして我に返った。あれ、そう言えば私、何しに来たんだっけ?もう少しちゃんと音楽を勉強してみたいと思って、会社を辞めてニースに来たのではなかったのか?フルート自体には元々それ程の情熱もなく、音楽が傍にあればそれで十分ということがわかると、帰国した数日後には、何事もなかったかのようにあっさりと会社員に戻っていた。

■エネスコはアマチュア作曲家?
 フルートを吹く人のおそらく大半が持っている楽譜に、マルセル・モイーズ編纂の”Flute Music by French Composers”がある。これは、フランスの作曲家によるフルートとピアノのための作品が10曲収録された曲集で、その内の1曲がジョルジュ・エネスコ(Georges Enesco:1881~1955)の『カンタービレとプレスト』。幼い頃の私にとって、フルートの練習は親から与えられた日課に過ぎず、特に好きでも嫌いでもなかったが、このエネスコの曲は喜んで吹いたと記憶している。これまでエネスコといえばその曲だったので、今回新響で演奏することになって、同じ作曲家による『ルーマニア狂詩曲』を初めて聴いたときは、私の知っているエネスコとあまりに曲調が違うことに驚いた。あろうことか、私はこの作曲家がルーマニアで生まれたことも、ヴァイオリンの名手であったことも知らなかった。

 作曲家とヴァイオリニストの二足の草鞋を履いていたエネスコだが、自らはあくまでも作曲家と考えていた。そのため、作曲するための時間も労力も奪うヴァイオリンを恨んだ。それでもヴァイオリニストとしても活動したのは、お嬢様向けの簡単な曲を書かざるを得ない友人の姿を見て、「自分の音楽を商業的な、官僚的なものにひきわたすこと」はどうしても避けたかったからだという。つまりエネスコにとってヴァイオリンは、作曲家としての自立を約束するための手段であった。誤解を恐れずに言えば、エネスコはヴァイオリニストとしてはプロであったのに対し、作曲家としては生涯アマチュアであった仮定することもできるのかもしれない。そんなエネスコの夢は、「ヴァイオリニストという経歴に終止符を打って、ルーマニアに引きこもって死ぬまで作曲をする」ことであった。しかし、二度の大戦、相次ぐ貨幣価値の変動、そして政治体制の突発的な変革などによって、故郷での隠遁生活の夢とは永遠の別れを告げる。それでも作曲への思いは晩年に至るまで変わらない。死が間近に迫っても思うのはただひとつ、作曲のことだった。

 
今は欲するものとてただ一つしかない。
それは、人生の幕がおろされるその瞬間まで私の内奥でうち震えるものを音楽にすること、
そして、歳月がもたらした野生の実の酒を最後の一滴まで絞り出すこと。
私は命ある限り、歌をうたいつづけていたい。
私はいつも夢をみ、わけもわからず耳を傾け、作曲することで、煩わしい現実から逃避してきました。
人生は夢。夢は人生のすべて。
ベルナール・ガヴォティ編著『エネスコ回想録』(白水社)


■「音楽はみんなのもの」
 さて、困ったことになった。仮定であれ一度でもエネスコをアマチュアと呼んでしまった今、果たして私は芥川先生が言うところの音楽のアマチュア(音楽を愛する人)と呼ばれる資格を持っていると言えるだろうか。音楽を愛しているつもりであっても、20歳で前に所属していたオーケストラを卒団した時には「これで週末を自由に使える!」と心底解放された気持ちがしてしまったし、今でも時には「この日練習がなければ、あれもこれもできたのに!」と新響を恨みそうになることだってあるのだ。
 私が子供の頃所属していたのは、間もなく結成15年目を迎える千葉県少年少女オーケストラ。その第一回定期演奏会の指揮者が故石丸寛先生だった。私は2期生だったので石丸先生から直接指導を受けたことはないが、先生が演奏会の録音CDに寄せて下さった次の文章を、音楽監督の佐治薫子先生が練習の合間に繰り返し読んで聞かせてくれた。

 
この壮大な宇宙はいったい誰が創ったのでしょう。
神という人もいれば、仏という人もあります。
小鳥のなんと美しく可愛いこと。
兎も、羊も、ライオンの仔でさえ、そして樹々の立つ雄大な緑の森も、
水の豊かに流れる川も、果てしなく蒼い空も、それらはすべて自然そのものです。
もう一度、ぼくは自分に問いかけます。
「このすばらしい自然、宇宙は、いったい誰がつくったのだ」。
ベートーヴェンが田園や小川のほとりを歩きまわって、
この、目に見えない素晴らしい力を追い求めたように、ぼくも自然を探し求めます。
君達は小鳥です、兎です、野辺の花です、大きな森です。
どうぞ自然に生きてください。
上手くやろうなどと考えずに、いつも自分の心と向きあって、
汚れのない音を出してください。(後略)


 当時はこれを聞いても何とも思わなかったが、きっと意識せずとも「自然に生き」ることができていたのだろう。その頃はアマチュアを自称する必要もなかった。卒団してから早6年、俗世の荒波に揉まれて身についた無駄な知識や欲といった垢は、そう簡単に落とせるものではなく、今の私の出す音は「汚れのない音」には程遠い。

 さてそろそろ、アマチュアオーケストラ歴50余年、いわばアマチュアであることにおいてはプロとでも言うべき新響で、新参者の私があれこれ言うのは終わりにしよう。冒頭の深沢七郎の言い方を借りれば、私はただフルートを吹いているだけだ。プロの演奏家は永遠に私とは別世界の存在であり、私のフルートはいつまでたっても素人じみている。それでも、父も私もエネスコも、みんな音楽に救われた点は同じであり、「音楽はみんなのもの」を掲げる新響は、アマチュアについて満足に説明もできない私なんかのことも、今のところは団員として受け入れてくれているようだ。ありがたや。

■おまけ
(東十条駅周辺の、とある小料理屋にて、馬刺しをつまみながら)

松下さん(フルートパートの首席):
 「吉田さんは、フランス文学ばかりやっていてはいけませんよ。(『仮装集団』(新潮文庫)*を取り出して)山崎豊子!こういうのも読まないと。この人のすごいところは、ペラペラ(大切なことを言われていたのだろうが、既にこの時点で水ではない透明な液体を少なからず摂取していたため、残念ながら覚えていない)……というわけなんです。あ、すみません、ポテトサラダ下さい」
吉田:
 「(グビグビ)へー。山崎豊子、読んだことないです。今、深沢七郎読んでます」
松下さん:
 「深沢七郎。うーむ。いいじゃないですか。深沢七郎と言えば、ペラペラ(同上)……ですから、深沢七郎で維持会ニュースの原稿を書けばいいんですよ。そうしたら居酒屋の聖地、大塚に連れて行って差し上げましょう。そこでは様々な部位の馬刺しが食べられるのです(こういうことは鮮明に覚えている)。 そうそう、クリームチーズの酒盗和え、これがまた美味しいんですよ。すみません、これをひとつ…」

 首席の命が絶対であるフルートパートにおいて、その命に背くことは次の演奏会の出番が無くなることに等しく、それは仕方がないとしても、さらにはフルートの飲み会に誘って貰えなくなるかも知れず、それは何としてでも回避しなければという切羽詰まった思いが(あるいは馬刺しへの執念が)この原稿を書かせたのであって、私の勝手なアマチュアに対する雑感を押し付けようなどという意図は、全くございません。

*編集人注)
●『仮装集団』山崎豊子著(1967年刊)
 「大阪勤音(大阪労音を下敷きとした架空組織)」の企画者を主人公に、1960年当時の日本に於ける、大衆への「西洋音楽」の浸透運動の左傾化・政治化と、それに対抗する実業界などの動きを描いた長編小説。新響が労音から独立した創立当時(1956年)の、音楽が政治の道具とされていた時代の空気を余す事無く伝える証言として読む事も出来る。
 音楽界の閉鎖性ゆえに、取材の苦労も未曾有のものだったと著者は「あとがき」で述懐している。またそうした体質に由来する理由からか、最新作を除いた山崎豊子の長編小説の中で、唯一未だに映像化されていない(したがって知名度が極端に低い)作品となっている。
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