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ロベルト・シューマンの交響曲第1番(フロレスタンとオイゼビウスとの対話)

藤井章太郎(Fl)

 
 ロベルト・シューマンの父は文学愛好から出版を生業としてしまった人物で、ロベルトは「音楽新報」という同人誌で音楽評論家として活動していました。この活動は、1833年から、病に冒されてライプツィヒを去った1844年まで続きます。この期間は、作曲家シューマンにとって最も充実した活動が出来ていた期間でもありました。数多くのピアノ曲、歌曲、そして交響曲1番「春」を生み出し、J.S.バッハの作品の再評価を世に問い、シューベルトの「ザ・グレート」を発掘した時期です。クララ・シューマンとの結婚もこの時期でした。
 「音楽新報」では、「ダビッド同盟」という組織の同盟員が投稿するという形がとられていましたが、実は「ダビッド同盟」は架空の組織で全てシューマンの頭の中にあったのです。彼は、様々な音楽観を表現するために、芸術観や性格の異なった「オイゼビウス」と「フロレスタン」という架空の人物を作り、シューマン自身と共に3名の人物が主になって音楽作品論を展開していました。1841年にメンデルスゾーンの指揮で初演された交響曲1番「春」は大成功だったわけですが、「音楽新報」に取り上げられることはありませんでした。もし、「音楽新報」に取り上げられていたならば・・・・・



 1841年*月*日
 ロベルト・シューマンの交響曲第1番
 フロレスタンとオイゼビウスの対談

フロレスタン:ショパンは「作品2」を以て、オイゼビウスに「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と言わしめた。私は、今、「諸君、帽子をとりたまえ、ベートーベンの後継者が現れた」と言いたい。ダビッド同盟の同志であるロベルト・シューマンの交響曲第1番が初演されたのである。一貫したモットーを展開した中に、詩的、精神的な深みがある、ベートーベン後を立派に継いだ傑作であろう。

オイゼビウス:シューマンによると、ウィーン旅行で発見したシューベルトのハ長調交響曲に触発され、ベッドガーの詩が機縁になったという。

フロレスタン:ベッドガーの詩が機縁とはどういう事だ?

オイゼビウス:ベットガーの詩、交響曲1番の導入たる

 「おんみ雲の霊よ、重く淀んで 海山をこえて脅かすように飛ぶ
 おんみ灰色のヴェールはたちまちにして 天の明るい瞳を覆う
 おまえの霧は遠くから湧き そして夜が、愛の星を包む
 おんみ雲の霊よ、淀み、湿って 私の幸せすべてを追い払ってしまった
 お前は顔に涙を呼び 心の明かりに影を呼ぶのか?
 おお、変えよ、おんみの巡りを変えよ 谷間には春が花咲いている」

の後に、交響曲第1番のモットー
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が続くと考えればよい。このモットーは「待ち焦がれる春」への「春の訪れ」を表す。
 そしてこのモットーは終始作品の中で展開されていく。
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 つまり、シューマンの頭の中では、詩と音楽が渾然一体と鳴っているのだ。
 ロベルト・シューマンの音楽は、POETIC「詩的」で精神の内面を追究した音楽である。これは、初期の1839年までに23曲連続して作曲されたピアノ曲や、その後の歌曲に於いて余すところ無く発揮されている。しかしながら、彼はベートーベンの後継者たらんとするところから、何としても交響曲を作曲しなければならないと考えていたようだ。

フロレスタン:ウィーン旅行で、ベートーベンとシューベルトの墓参をした時に、その墓の脇でペンを拾った。その後、フランツ・シューベルトの兄であるフェルナンド・シューベルトを訪れ、未整理の遺作の中から偉大な交響曲ハ長調を発見したのである。そして、ライプツィヒに持ち帰りメンデルスゾーンに初演を託したわけだが、その拾ったペンで交響曲1番の冒頭のモットー3小節を書いた。偉大なる先駆者の祝福を受けたモットーである事に疑う余地はない。

オイゼビウス:彼は始め、交響曲1番に「春の交響曲」という表題を付け、さらに各楽章にも
 第1楽章「春の始まり」、
 第2楽章「夕べ」、
 第3楽章「楽しい遊び」、
 第4楽章「たけなわの春」
という表題をつけていた。
 しかしながら、POETICで精神の内面を追求する為に、表題によって聴衆に先入観を与えることが無いように、全ての表題を消し去ってしまった。春のイメージが溢れ出る演奏によって、聴衆の心が内面から「春」のPOEMの感覚で満たされることを理想としたのである。

フロレスタン:ピアノ作品「クライスレリアーナ」に似ているところが有ったように思うが?

オイゼビウス:その通り。交響曲1番の第2楽章にはクライスレリアーナの6曲目、第4楽章には8曲目のモットーが使われている。1841年1月23日の日記に「春の交響曲を開始」とあり26日の日記には「万歳!交響曲が完成した!」とあるので、僅か4日間で作曲した事になっているが、実は、クライスレリアーナが作曲された1838年頃、シューマンは少しずつではあるが交響曲のスケッチを始めていたようだ。この頃シューマンは、クララの父親フリードリッヒ・ヴィークにクララとの交際を禁止され、クララは父親と共にウィーンへ旅立ち、文通もままならぬ状態にあった。彼は、クララが演奏することを前提に、愛の葛藤をピアノ曲に託したのであった。結婚後の作品となった交響曲1番では、そのモットーが見事に昇華している。

フロレスタン:1840年の初夏に結婚して「人生の春」の中で、1841年新婚生活で初めての春の訪れに、「大作曲者としての春の訪れと」言える交響曲1番を創り出したということだね。

オイゼビウス:ロベルト・シューマンの音楽は、「詩的なものから霊感を受けて音にしていく」というスタイルで作曲されているから、あらゆる「春」の詩が重なり合い、それが霊感となって音になったと言うことだろう。

フロレスタン:ところで、「カフェ・バウム」の新しいメニューがとても良い。あのコーヒーを飲むと冷えた体の中に染み込んでいくようだ。

オイゼビウス:あの特製アップルパイも絶品だ。

フロレスタン:そろそろ、ロベルト・シューマンが「カフェ・バウム」に現れる時間だね。丁度、小腹も空いてきたし、アップルパイとコーヒーをいただきに行くとしよう。



もちろん、これは筆者の想像による架空の対談であり「音楽新報」に掲載されたものではありません。

(注)カフェ・バウム 当時ライプツィヒの音楽家達が良く利用していたカフェ。ロベルト・シューマンも入り浸っていた。今も、当時のまま営業中。写真は現在のメニュー。

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