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超個人的マーラー観

松下 俊行(Fl)

 
 前々号のニュースに引続き、個人的な回想に基づく原稿である事を、お許し願いたい。
 僕は1982年9月の入団なので、新響に籍を置く事とうとう25年になった。普通の勤め人なら永年勤続で少なからぬ金品をともなう表彰の対象となるところ。実際昨年勤め先からは休暇と旅行券を戴きました(本来は堅気の社会人なのです)。そこで新響でも「1年間団費免除」の恩典とか、「秘湯のペア宿泊券」謹呈とかの配慮があるといいなぁと思うのだが、これが何ら音沙汰無い。アマチュア・オーケストラの範たる事を自他共に認める団体として、これは恥ずべき事ではないか!?と心では「強く」思っているが、生来の小心ゆえに何も言えぬまま、悶々とした日々を過ごしておるのです。かと言って自分に対するご褒美・・・なるものをこの歳になって考えるのも、何かちょっと情けないし。

 ■僕はマーラーが嫌いだった!
 さて、その25年前に初めてこのオーケストラの一員として演奏した曲目が、マーラーの「第九番」だったという事実は、振り返ってみればその後の音楽人生に大きく影を落としたと言って良い。今だから白状すれば、僕はマーラーが嫌いだったのだから。
 新響をその歴史と共に見守って戴いている維持会員の方々には自明の事ながら、改めて説明すれば、かつての新響は山田一雄氏の指揮によるマーラーの交響曲全曲演奏(所謂(いわゆる)「マーラーシリーズ」)に取り組んでいた。これは’88年に終了するまで足掛け10年の時間を要したのだ。’79年から始まったシリーズは’83年初に「第九番」を演奏する事で佳境に入りつつあった。その真只中にマーラー嫌いが跳び込んでしまったのだから、これはもう結果は知れていると普通は思う。すなわち単なる「食わず嫌い」なのだから、新響にいる限り更正される・・・というところだ。が、僕の場合この病気は容易には治らなかった。
 何が理由?ひとことで言うならマーラーの音楽を受け容れるには、心・技・体全てに未熟だったからだ。すなわちこうした複雑な含みを持つ音楽を容れる余裕のない心、それを演奏するに必要となる技術の未熟、そして彼の作品を演奏していた当時の新響の演奏形態への疑問・・・こんなところだろう。
 今だからこのように冷静且つ分析的な言い方になるが、彼の作品はひどく子供じみた、若しくは狂気を交えた支離滅裂な音の集積に過ぎず、謂わば「音楽以前」のものにしか当時は思えなかった。生理的に受付けない。それは確かにマーラーに出会う以前の、個人的な音楽体験の乏しさに因る。それまで僕が「音楽」として理解できたものは、整然と均衡のとれた秩序ある世界のみだったのだから。それがいきなり4度音程のティンパニ連打の上に、人間離れしたテンポで旋律が展開されたり(『巨人』の第1楽章の最後)、次ぐ楽章ではどう考えても芸術的とは言えぬメロディがコントラバスから「輪唱」のように続くといったものにつき合わされる。或いは「陰惨」の印象しか残らないトロンボーンの蜿蜒(えんえん)としたソロとその後の馬鹿騒ぎ(4本のピッコロが高音域のユニゾンを合わせられると本気で思ってるのかよ→第3番)を聴かされたり、どんな音をイメージしたら良いのか皆目不明のハンマーが振り下ろされる茶番部分(第6番)を見せ付けられれば・・・純真無垢な感性には拒絶以外の反応はあり得ない。これが「心」の部分。
 演奏体験のある人にはすぐに理解してもらえるのだが、彼のオーケストレーションは同じ旋律を重ねているにもかかわらず、強弱を交叉させている部分が多々ある。すなわち同旋律を演奏しているふたつのパートが、片方はクレッシェンドしつつあるその時、他方はディミヌエンドが求められているという状況である。「ほう面白いじゃないか」と思うのは、これを聴いて愉(たの)しむ立場にある人である。演奏する側はひとつの常識として、自分の見ている譜面にある強弱記号が全てのパートに共通していると考え、また皆が同じ方向を指向していこうとする。それが演奏者の生理と言うものである。事実、彼以前の音楽は基本的にそのようなものだった。勿論そうした音楽にも楽器の特性上避けられない音量の差異があり、バランス調整が必要ではある。そしてそれをするのは全体の音を俯瞰(ふかん)する指揮者の仕事だった。マーラーは自らの作品でこの調整を極限まで進め、それを演奏者に強いる。これは自分の音量を、他とのそれとの比較によって相対的に決めるのではなく、ある基準で絶対化する事を意味する。お蔭で演奏する側は絶えず総譜と首引きになり、他者が何をしているかを常に認識した上で、その関係に於いて己の「絶対化された」音量を行使しなければならなくなった。これを実現するには相当の演奏経験を積む必要があるが、駆け出しの若造(無論僕の事だ)には望むべくもなかった。言うなればこれが僕にとっての「技」の部分だ。
 「体」についてはやや事情が複雑だ。当時の新響の状況に関わる話である。この団体に入って驚いたのはとにかく全員が「全力投球の音」を出している事だった。オーケストラは緻密な組織であり、各パートは出るべき時に出、退く時は退くべきものであると、学生時代に散々叩き込まれてきた思想はここでは全く通用しなかった。こうした事を酒の席ででも言おうものなら「新響はそんなサラリーマンのような演奏を目指す団体ではない!」と一蹴されるのが常だった。「遅れず・休まず・働かず」に表わされたように、与えられた目先の仕事だけをさしたる情熱もないままこなす・・・それが「サラリーマン」の語に含まれた意味である。「気楽な稼業」のイメージが人々の心にまだあった時代の話としても、ひどい譬(たと)えである。
 更に言えばこのサラリーマンとは(日本の)プロオケの楽員を指していた。彼らは音楽という仕事に愛情を持っていない。だから「冷めた演奏」を平気でする。新響はそうではない。我々は愛情に根ざした「熱い演奏」をするのだという理屈である。流石にこういう意見は今の新響ではなりをひそめた。日本のサラリーマンの置かれる環境も激変し、決してお気楽な稼業ではなくなっているし。
 確かに愛情は大切である。ただそれは他者との比較に於いて論ずるものではないし、それが押し付けがましい「音」となって表わされる事とは本来全く別物である。根拠のないこうした論理に、かつて日本社会を席巻していた「プロへのアンチテーゼとしてのアマチュアリズム」の典型を見る思いだった。新響には様々な美点があるのだが(だからこそ四半世紀も在籍している)、当時あったこの考え方にだけは、今思い起こしてもついていけない。
 そのような思想の団体が、前述のような微妙な強弱の指定されているマーラーを、しかも「第九番」をやる場に飛び込んだのだ。マーラーの責任ではないけれど、こうした環境の中で、神経を逆撫でされるような彼の作品を合宿までして練習した事は、決して僕の心証にプラスには働かなかった。翌年初めの本番の出来は案の定と言うべきだろう、余り良いものではなかった。終楽章で山田先生が絃楽器群に向かって「叱咤」しているのを、3番フルートの席から醒めた目で眺めていた。但しこの交響曲そのものは、僕のマーラーに対する印象に僅かながら変化をもたらしていた。これに自分が気づくまでに少なからぬ時間を要したが。

 ■「マーラーブーム」を通じて
 ひとことお断りしておけば、マーラーの作品は既に1970年代からブームを呼び起こしてはいた(新響のマーラーシリーズもその一画と言えなくもない)。今ここで取上げるブームはより狭義の、’80年代の後半、所謂「バブル」と言われた時代に、とある洋酒メーカーのCMを契機として突如沸き起こり、瞬時に消え去ったあのブームの事である。これ自体がバブルの申し子と言うべき異常なものだっただけに、今ではほぼ忘れ去られているようなので、敢えて書き留める事にした。異常と言えば当事の世の中自体が異常だったのだから、これは時代の正直な反映と捉えるべきなのだろう。
 このブームのキイワードは「世紀末」と「メセナ」だったように今は思う。バブル景気に浮かれながらも「こんな時代が長く続くわけがない。だからこそ今を謳歌しよう」という、来たるべき時代に対する不安と、それを直視したくないために目先の現実だけを無批判に肯定しようとの刹那的な感情に、世の中全体がとり憑(つ)かれていた。それは企業も同じで、持ちなれないカネを「文化の貢献」に使おうと、競合する企業のメセナ活動を睨みながら結局皆が同じバラマキを行ない、殆ど全てが何も実を結ばなかった(そして景気後退と共に、皆が横並びで中断した。如何にも日本的である)。
 懺悔(ざんげ)するほかないが、そうした中で最も異常だったのはこの僕だ。マーラーについてむしろ嫌悪感さえ抱いていたにもかかわらず「東京マーラー・ユーゲント・オーケストラ(TMJ)」なる団体を拵(こしら)え、祭り上げられた結果とはいえ、あろう事かその代表になったのだから。これは山田一雄氏の指揮でマーラーの交響曲第9番を演奏する、それだけを目的として在京のアマチュア演奏家有志によって結成されたオーケストラだった。念の為に言うが発起人は僕ではない。ただ1987年の初秋という初期段階で僕のところに企画が来た時、ふたつ返事で参画を承諾してしまったのは、本番会場がサントリーホールで、しかも1番フルートの席が用意されていたからだった。我ながら情けない気もするが、3年ほど前の新響のこの曲の演奏に満足できなかったために、謂(い)わば意趣返しのような心積もりを固めた。もうひとつ。新響の「アマチュアリズム」から離れた団体で、自分が考えるオーケストラのあり方を実現したいとの野心があった(まだ30歳になるかならぬかの若気の至りである)。演奏会を1度開けばそれで解散の宿命は、勿論計画性や長期的な視点を欠くものではあったが、このオーケストラがマーラーの演奏水準としてはトップにあった事だけは間違いない。
 前述のブームの到来はこのオーケストラ結成の直後だった。マーラーに対する関心は増し、企業から寄付を募るには苦労はなかったし、チケットも右から左に捌(さば)け、1988年2月に行なわれたコンサートではサントリーホールを満席に出来た。確かに時宜を得ていたのだ。ただその客層・・・というべきだろう・・・は従来のコンサートのそれとは明らかに違っていた。演奏が進行するにつれてお行儀の悪さが目だった末に、こんなに長い曲だとは知らなかったとのアンケート回答が多かったのには、苦笑を禁じ得なかった記憶がある。「寝ている人も多かったようですね」とは、とある出版社系の週刊誌からの取材を受けた際、開口一番の質問だった。ブームに乗って会場に足を運んだ皮相な人々の様子を、揶揄(やゆ)を含んだ目で伝えようとの記者の意図はみえみえだったが、そもそもこの程度の演奏会に音楽関係以外の雑誌から取材が入る事自体が、特異な事だった。
 この前後、特に’88年の前半は、日本中のあちこちのホールでマーラーの作品が鳴っていた。そして大抵の場合、何ら関係なさそうな企業が争って協賛した(因みに新響が「マーラーシリーズ」の最後を『巨人』で締めくくったのもこの年の7月だった。このタイミングは絶妙だったと言える)。ブームは所詮ブームでしかない。これによってマーラーの音楽の何たるかを初めて知った人々から熱病が去るには、さしたる時間を要しなかった。とにかく不思議な時代だったのだ。
 一度解散したTMJは次の演奏会に向けてすぐ始動し、最終的には1994年まで毎年活動し続けた。その間に山田先生は亡くなり('91年)、井上道義氏や十束尚宏氏によってマーラーの他の作品も含めて演奏が継続されたが、既に時代は変わりつつあった。バブルの時代は終焉し、資金的な目処も立ちゆかなくなっていたにもかかわらず、一部の暴走メンバーによって海外公演の企画が立てられ、やがて当然のように行き詰まった。関係者の音信は今もって不明であるし、個人負担となった莫大な借金も残った。TMJ自体がバブルのあだ花のような存在として終わった事は、アマチュアに於けるマーラーの演奏史に残した足跡に比して、今も残念に思う。

 ■マーラーのある人生
 個人的にはこのTMJでの活動を通じて、マーラーの作品に対するアレルギーから概(おおむ)ね脱却した。新響以外のオーケストラでマーラーを演奏する事は、ある種の転地療養の結果を生み出した。その後の新響で取上げたものも含め僕は、『巨人』から第10番及び『大地の歌』に至る全ての交響曲と、『嘆きの歌』『さすらう若人の歌』まで殆ど全てのオーケストラの作品を演奏する機会を得た。白状するが、僕はベートーヴェンの交響曲でさえ全ては演奏していないのだ(第1番をやる機会がない)。ところがマーラーに関しては繰返し演奏したものさえ多々あって、中でも「第九番」は今度で5度目になる。他のパートならいさ知らず、彼の交響曲の首席フルートのパートをこれだけ吹いている人間もアマチュアでは珍しいだろう。そしてこれだけ経験していて尚且つマーラーが嫌いだと言い続けたら、罰が当たろうと言うものだ(笑)。
 僕はごく近々、「知命」と呼ばれる年齢になる(でも一向に己の使命が見えてこない。きっとこのままだろう)。だから人生の半分は新響というオーケストラで演奏してきた訳だ。僕などより遥かに在籍年数が長い「大家」の面々を差し置いて、明言してよいものかの逡巡はあるのだが、新響の演奏は変わっている。音楽への愛情こそ不変である(これは断言出来る)が、それを表現すべき方法論に対する考え方が明らかに変化したのだ。それはすなわち我々が作品に対する愛情を外の世界に発信するためには、「組織としてのオーケストラ機能」と「プロと同様に技術の追求」が不可欠だとの共通認識が確立されたという事である。これは新響を取り巻く環境・・・例えばプロのオーケストラのレヴェル向上やアマチュアの活動に対する考え方・・・の変化がもたらしたものでもあり、この団体がそれを敏感に察知し、順応し乗越えてゆくための適切な方策を選択した事を意味する。25年ぶりにこの団体で「第九番」の音を出し、その変貌を目の当たりにして感慨を禁じ得ない。またそれは前記のTMJで体験した演奏をも確実に凌ぐものとなっているのは間違いない。
 これから同じ事を繰返せと言われてもうんざりするほかない25年の中で、マーラー作品に関わってきた時間は自ずから莫大な集積になった。だから自分の人生の節目となる各段階でマーラーの演奏をしていた印象がある。だから「あの時にどの作品を演奏していた」と体験によって作品を想起するのはたやすい。だがマーラーの作品群は、それ自体が彼自身の人生のその時々の心象を反映しているように思える。僕には彼の作品をよすがとして、個人的な記憶を呼び起こす必要など無い。大抵の作品を聴けば、そこから人生のある段階が抽象化された(でも確実に自分に生々しくかかわりのある)「心象」・・・とでも言うべきものが、自分の裡のどこかに潜んでいるに違いないその狂気を含めて、たちまちに引き起こされて来るのだから。こうした普遍的でありながら、どこかで個人的な体験に結びつく不思議な心象世界というものを、マーラーの作品は備えていると考えるようになった。これは独特のものである。
 今では更に、彼の交響曲そのものが自身の人生を刻む尺度であったように、それに接する自分の人生の段階の尺度として捉えてしまう。だからこの年齢になって「第九番」を演奏するという意味合いは、個人的に時宜を得ていると感じている。こんなものを若いうちに繰り返し演奏し、心得顔をしていた自分を想い、実は密かに苦笑している。
 「生・老・病・死」に代表される人生の各要素に密着しており、複雑に錯綜していながら、ある時はそれ以上にあり得ぬほど露骨にそれが顕れる音楽。実に生々しいものだ。ずいぶん慣れたが、その生々しさには未だに僕は完全にはついていけていない。これを克服する事は今後の人生に於ける課題のひとつなのかも知れない。だが、それを許容できるようになる事がマーラーの作品への真の理解につながるとすれば、それはそれで面白みに欠けるようにも思えるのだ。彼の作品の奥深いところである。
 なるほど人生の悩みは容易には尽きぬものなのだ、と改めて思う。


第199回演奏会(2007.10)維持会ニュースより

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