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第204回演奏会のご案内

 新響の音楽監督であった芥川也寸志が亡くなったのは1989年1月31日、20年が経とうとしています。芥川也寸志は1925年(大正14)文豪芥川龍之介の息子として生まれ、東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科に進みます。作曲家として魅力的な作品を残す一方、指揮者として音楽番組の司会者としてまたさまざまな音楽活動を通して音楽を広め、日本の戦後の文化の発展に大きく貢献しました。
 今回の没後20年の記念演奏会では、芥川の功績を記念して設立された芥川作曲賞の指揮者を長年つとめている小松一彦を指揮に迎え、前半では芥川作品を、後半は指揮者としての芥川を偲んでショスタコーヴィチの交響曲第4番を演奏します。

芥川也寸志とソヴィエト
 幼少の頃にストラヴィンスキーの「火の鳥」を愛聴していたという芥川は、次第にソヴィエトの音楽に興味を持ち、1954年にウィーンまでの片道切符のみを持って当時国交のなかったソヴィエトに行きます。ショスタコーヴィチなど著名な作曲家の方々と会う機会に恵まれ、持っていった「交響三章」がソヴィエト国立出版所から出版され、その印税で無事帰国します。
 ソヴィエトから帰国した1955年(昭和30)、この年に結成されたばかりの労音アンサンブルに招かれて指導を始め、翌年その団体は新交響楽団となります。1967年、新響は日ソ青年友好委員会の派遣により芥川の指揮でソヴィエト各地で演奏会を開きました。その後も芥川=新響は、チャイコフスキーやショスタコーヴィチなどのロシア音楽を取り上げ、主要なレパートリーとしてきました。

ショスタコーヴィチの問題作
 ショスタコーヴィチの交響曲第4番が作曲されたのは1936年。第3番から6年を隔て満を持して作曲された4管を超える大編成の意欲作で、高度な芸術的要素を持ちあわせマーラー的とも呼ばれます。リハーサルは行われましたが、その後自ら楽譜を回収し初演は中止されました。この頃書かれたオペラとバレエ作品を「西欧的形式主義的作品」として厳しく批判され、「人民の敵」の粛清が進むソヴィエトで命の危険を感じたのかもしれません。改めて作曲された第5番は政府の求めた「社会主義リアリズム」的作風で大成功します。第4番が初演されたのは25年後の1961年、スターリンの死後ソヴィエトの社会主義体制が軟化してからでした。
 1986年(昭和61)の新響創立30周年企画としてショスタコーヴィチの交響曲第4番を日本初演しました。これが新響で芥川が大好きなロシア音楽を振った最後の演奏会となりました。

芥川作品のオスティナート
 新響は芥川の初期の作品をたびたび取り上げていますが、「トリプティーク」もまた28歳の若い作品。当時NHK交響楽団常任指揮者だったクルト・ヴェスの委嘱によるものでニューヨーク・フィルで初演されました。明瞭で美しい旋律と明快なオスティナートリズムのこの曲は、芥川作品の中でも最も人気のある曲の一つでしょう。
 芥川は、オスティナートにこだわる作曲家でした。オスティナートとは音楽的なパターンを続けて何度も繰り返すことを指します。芥川は心臓の鼓動を例に挙げ、肉体的な喜びとして働きかけることが音楽の高まりであると述べています。オスティナートと名付けられたチェロ・コンチェルトは44歳の時に書かれた中期の傑作で、チェロがオーケストラとともに朗々と歌います。

芥川が新響に残したもの
 芥川は指揮者として音楽の指導をするだけではなく、運営に関しても新響と深くかかわり、オーケストラの在り方を常に提示してきました。存命中からの団員は3分の1になりましたが、アマチュアであることに誇りを持ちその可能性を追求をしていく、つねに「よい演奏」を目指して活動をするということは、今も変わりません。
 さて、天国から「新響もなかなかやるじゃないか」と言ってもらえるでしょうか。

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